島秀雄とは、国鉄を代表する技術者の一人である。明治・大正時代の鉄道最重要人物の一人である島安次郎の子であり、日本鉄道史における最重要人物中の最重要人物とされる。
概要
1901年に大阪で生まれ、1925年に当時の鉄道省に入省。D51やD52を改造したC62、80系・151系などを設計した他、父である島安次郎が参加していた弾丸列車計画においても車両の設計を担当している。
国鉄の初代総裁である下山定則は友人である。
1951年の桜木町事故の発生を機に国鉄を退職すると民間企業の顧問を務めていたが、4年後の1955年に4代目の国鉄総裁となった十河信二に請われ国鉄に副総裁格の技師長として復帰する(当初は固辞していたが、十河の熱意に折れる形となった)。
技師長就任後は十河信二と共に東海道新幹線の実現に尽力し、父の島安次郎の悲願でもあった広軌新線を実現させた。
この時には既存の技術を活用すると共に将来に改良出来る余地を残しており、これがJR化後に花開く事となる。
また、当初から電力回生ブレーキ搭載に意欲を示しており、JR東海が300系で電力回生ブレーキを初搭載した際にはJR東海の技術陣が島に電力回生ブレーキ搭載の報告を行っている。
開業前年の1963年に2期8年を終えた十河信二が予算不足を理由に再々任されずに国鉄を去ると島もこれに続く形で国鉄を退職。東海道新幹線開業時にはセレモニーには呼ばれず自宅で0系「ひかり」の発車を見守った。
国鉄退職後には宇宙開発事業団の初代理事長となり、理事長就任前に策定されていた計画の抜本的見直しなどを行い現在の基礎を作り上げている。
1969年にジェイムズ・ワット賞・文化功労賞、1994年に文化勲章を受賞。1998年に永眠した。
島秀雄と電力回生ブレーキ
生前の島秀雄はその晩年、電力回生ブレーキの開発にこだわりがあったようである。 晩年彼自身の残した言としては、内燃機関を使っている自動車や、その構造や飛行に当たっての理論上、常時「力行」状態で無いと運行不可能な飛行機と違い、電気鉄道車両のみが実現可能な特技である電力回生ブレーキは、
「環境面や省エネルギー面で特筆大書すべきメリットであるから、これをもっともっと国民の皆さんに理解していただいて、鉄道の愛用者を増やすべきである」
と、周囲に語っている。 とかく、「力行」時に従来の電車とは比べ物にならない大量の電気消費をしている新幹線の電力回生ブレーキ開発への心残りは大きかったようであるが、上記したとおり、すでにそれを行える立場に無く、内心忸怩たる思いが渦巻いていたようである。 だが彼がそれを表に出すことは無かった。現場を離れた人間として、現場の外からあれこれ物言うことは彼の矜持が許さなかったようである。
JR東海が300系新幹線電車によりついに新幹線に電力回生ブレーキが導入された際も、彼自身は大きな反応を周囲に示さなかったそうである。だが彼の胸中は如何許りの物であったか?それを知る手立ては無い。
島秀雄とホームドア
彼が現役当時の国鉄においてホームドアの開発導入推進においてもっとも熱心な技術者であったのが島秀雄であったことはあまり知られていない。このことは彼との親交のあった人々の回想や、ほかならぬ彼自身が残した書籍に詳しい。しかし新設路線の建設や、当時末期的状況に陥っていた首都圏通勤事情の改善等で多額の資金と人間を投入していた国鉄の状況はそれらの提言を取り上げることが出来なかった。そのことについて歯がゆい思いをしていたことが彼の残した言葉や書籍からうかがい知ることが出来る。
島秀雄がホームドアに限らない、鉄道の安全、とりわけ、旅客の安全に強いこだわりがあったのには彼自身が体験した悲惨な事故の経験がある。 彼が鷹取工場勤務だった1939年9月、彼の息子である島隆と仲の良かった慶応大学生のいとこが夏休みが終わり神戸の親元から東京へ戻るため、神戸駅東海道本線上りホームで列車を待っていたとき、混雑のため、後ろから押し寄せた旅客に押し出されて線路に転落。折悪く直後に入線して来た列車により両足を轢断されてしまった。急を聞いて駆け付けた島秀雄の腕の中で彼は息絶えたという。 この衝撃的出来事が旅客の安全を第一とする彼の信念として表れ「新幹線システム」の開発に強く影響したようである。
新設の新交通システムや私鉄の駅、更にはJR東日本の山手線でホームドアが全面的に導入されることになった現状は島秀雄の眼にどう映るであろうか?
島秀雄と蒸気機関車
彼がC53形以降の「日本型蒸気機関車」のほとんどすべての計画・設計・製作に関与していたことは有名である。
だがしかし、島秀雄自身はきわめて早い段階で蒸気機関車の限界に気がついていたようである。
日本の山がちで狭隘な地勢では急カーブ・急勾配・長大トンネルが連続する鉄道路線の経路設定を取ることは避けえず、鉄道システムを大きく発展させる上では、早晩蒸気機関と手を切るほか無いと知っていたのである。
戦時中、日本の敗色も濃厚となり、東京全市に於いて激しい空爆に晒されるようになったころ、図面や資料を持って50名ほどの設計課員を引き連れて、中野坂上の女学校校舎へと疎開し、代用材設計や修繕設計等を行っていた。ところが激しい空襲や、鉄道省自体の混乱で彼らに仕事を割り振ることが出来なくなると、島秀雄は勿怪の幸いとばかりに戦後を見越した電化の研究や持論であった全軸駆動電動列車の設計に勤しんだそうである。彼自身は「こっそり」とやっていたそうではあるが後日、
「あんなに夢に溢れた時期を私は知らない」
と言ってのけてしまうあたり技術者の発露といったところではある。
蒸気機関車の時代から電化の時代への変化を島秀雄は以下のように例えている。
「幾ら電気冷蔵庫のほうが優秀なことが判っていても、それを買う能力がなければ、氷の冷蔵庫で我慢しなければならないし、実際それで我慢してきたのである。
理想は高きにおいて完璧な準備をし、またその日の1日でも早く来るよう知恵をしぼるけれども、理想を追求するあまりに、空理空論に走るようでは何にもならない。手の内にあるものを間違いなくやることのほうが必要だ」
そういったことであるから、後刻、蒸気機関車が次々に廃車されていき、マスコミが大騒ぎをして「蒸気機関車は電気機関車に負けた」とか「滅び行く蒸気機関車」等と騒ぎ立てた事にやりきれない思いをして
「蒸気機関車は滅びてゆくのではない。自分の役割を果たして堂々と退いてゆくのだ。それはちょうど歌舞伎の役者が一幕を終えて、万雷の拍手と掛け声を浴びながら花道をさがってゆくのと同じである。だからわれわれもご苦労さんと拍手をもってやらなくてはならない」
島秀雄と「こだま」形電車
島秀雄の持論として「慎重に慎重に」が残されている。段階を飛ばした突飛な発想を好まず、慎重に一段一段を踏んで堅実に技術開発を行うのが彼のスタイルであった
しかし、モハ90形電車(後の101系電車)やモハ20形電車(後の151系電車)についてはかなりの技術的飛躍が見られる。
彼の持論である電力回生ブレーキの実用化こそなかったが、総括制御の長編成電車列車方式は勿論、軽量車体構造、空気ばね、カルダン駆動方式、2ユニット編成方式など、この二つの車両形式に投入された技術は当時の日本の鉄道技術史上革新と言っても差し支えのない技術が惜しみなく注ぎ込まれている。
この件について島秀雄は、
「新幹線の全線試運転のときもうれしかったが、旧「こだま」のときの感激がより大きかった。あれは本当に苦労してつくった。新幹線はその考えを延長したようなものだ」
と述べている。
慎重居士が身上であった島秀雄も、必要とあらば大きな技術的挑戦を厭わなかった。しかしその挑戦においても「慎重に慎重に」を見失うことなく、石橋を叩いて渡る姿勢を崩さなかったという。その試験においても、あせらずしつこく走りこみを実施させて、営業運転を急かす国鉄をやきもきさせたという。彼自身が強くこだわった電力回生ブレーキも周辺技術や周辺のインフラストラクチャーが伴わないと知ると、上記二車種への採用に拘らなかった(電力回生ブレーキ自体は技術的側面ですでに一応、完成域にあった)。段階を踏んで、次への期待につなげたのであろう。そうした割り切りのよさも島秀雄らしさであった。
島秀雄と新幹線
島秀雄は桜木町事故の際に一旦国鉄から住友金属に下野していた。それを十河信二が三願の礼を持って副理事長格の技師長として復帰させたエピソードは有名である。
実は新幹線はATCなどの一部の例外を除き、未経験の技術は殆ど使われていない。
というのが彼の持論だった。こだま型電車で110キロ、それ以前の機関車式では95キロが最高速度であり、国鉄内部はもとより特に欧米の鉄道関係者たちは島秀雄をほら吹きだと嘲弄していた。
しかしそれは、日本の鉄道、在来線においては高速運転にこの上なく不利で、それこそ飛車角落ちというレベルではないほどに物理的・地理的・法的な制約が雁字搦めであった事情がある。
では、その制約を多く取っ払ったらどうなるのか?その答えが新幹線の開業であった。
狭軌のハンデを取り払い、またカーブ勾配の多さのハンデを取り払い(現在の東海道新幹線は線形が悪いとみなされて、ハンデがあると思われているが、当時としては異例の高規格であった)、地盤のハンデもいくらか克服し、そして平面交差完全排除により600メートルのハンデも取り払ったのである。
その結果、当時営業列車の限界は160キロという常識と、長距離列車は客車方式に限るという常識、そして何より、これから自動車と航空機の発達により鉄道は衰退の一途をたどるだろうと言う常識を覆す時速200キロの新幹線電車が開業したのである。
島秀雄は、動力分散方式を動力集中方式よりも優位な方式と見なしていた。そのため、機関車牽引の列車は減少の一途をたどり、2016年のはまなすの廃止を持って、JRの定期客車列車は全廃。同時にカシオペアの廃止を持って特殊な臨時列車や、動態保存などの観光列車以外の客車列車は全廃となった。
また、当初は新幹線による反発や電車方式への不慣れなどから、動力集中方式を採用していた海外の高速列車なども、動力分散方式を採用するようになってきており、このまま行けば日本のローカルスタンダードがグローバルスタンダードに取って変えられる事になり、島秀雄の先見の明が明らかになりつつある。
偉大な足跡
島秀雄は、日本鉄道史においてこれ以上ないほどの最重要人物であり、彼と並び称されるのは、今日のダイヤの正確性を鉄道員たちに植えつけた結城弘毅くらいである。[2]
日本の鉄道に与えた影響は計り知れず、現在の鉄道会社の社長などの幹部や技術者は無論、現場で働く鉄道員や一介の鉄ヲタに至るまで、おおよそ鉄道と関わりのある日本人の殆ど全員が島秀雄に何らかの影響を受けていると言われている(編集者も含む)
例えば、本来電車ではない気動車や客車を「電車」と呼んでしまうのも、電車が少ない海外では殆どあり得ない話であり、あるいはこうした風潮を批判するのも、究極的には島秀雄の影響と言えるだろう。
関連動画
関連項目
脚注
- *蒸気機関車についてクレバーな態度を取っていた島秀雄ではあったが1994年に文化勲章を受章した記念に2種類のオレンジカードを発行した際、「0系新幹線電車」については誰もが認める順当な選択であったが、もう1枚に「C62」が選ばれたことに関して随分と詮索されたようである。当時の世間一般の認識では「島秀雄=D51」と思われていたからなのだが、これについては島秀雄の特別の要望があったのである。島秀雄自身もD51形が会心の作と言ってはばからなかったのだが、実は狭軌鉄道で最強の限界機関車といわれたC62に人一倍ひそかな思い入れがあったのである。所謂ツンデレという奴である。
- *ちなみに、日本の鉄道が海外と比べ斜陽になるのが遅れたため、新幹線の開業にこじつけることが出来た。それは時間に正確なことによる信頼性の高さという、日本の鉄道が独自に持っていた競争力のおかげでもある。そういう意味では、結城も新幹線の功労者なのかもしれない。
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