アルベルト・プーチ(Alberto Puig) とは、元・MotoGPライダーで、レプソルホンダのチーム監督である。
ダニ・ペドロサの恩師として有名。
略歴
スペイン期待の星として、順調に成長する
1967年1月16日に、スペイン・カタルーニャ州バルセロナで生まれた。
1987年にJJコバス(ホタホタコバス と読む)というスペインメーカーのマシンを駆ってMotoGP250ccクラスに参戦開始。1993年にはシト・ポンス率いるポンスレーシングに移籍し、ホンダのマシンに乗った。1994年はポンスレーシングと一緒に最大排気量クラスへ移り、ホンダのマシンで3位表彰台2回・4位2回の好成績を残し、ランキング5位となった。サテライトチームのルーキーがこの成績を残すのは見事である。
1995年にはさらに走りが上達し、第4戦スペインGPで初優勝を収め、イタリアGPとオランダGPでも続けて3位になっている。まさしく、スペイン期待の星だった。
1995年フランスGPで重傷を負う
ところが、1995年7月8日(土)、第8戦フランスGPの予選で運命が暗転する。
このときもプーチは好調で、トップタイムのミック・ドゥーハンより0.2秒遅いだけだった。プーチはもっと速く走ろうと考え、ル・マンブガッティサーキットの1コーナー(超高速コーナー)を5速ではなく6速で走り抜けようとした。ところがその1コーナーでミスをしてしまい、時速283kmで転倒、左足の脛骨と腓骨を粉砕骨折し、靱帯と座骨神経を痛めてしまった。この転倒が大きく響き、1995年シーズンは残りを全休し、1996年シーズンと1997年シーズンは成績を落とし、引退することになった。
このときの怪我は回復するために20回の手術を要するほどであった。20回のうち12回は長時間にわたる大手術だったという。現在もまだ後遺症が残っており、足を引きずりながら歩いている。 ※この記事が資料
指導者として猛烈に働く
頂点が目の前に見えながらも不慮の事故で引退したスポーツ選手が指導者になって熱烈な指導をする、というのは古今東西でよく見られる。アルベルト・プーチはまさにその典型例で、若手ライダーの育成に乗り出していった。プーチが現役時代に乗っていたのがホンダで、ホンダというのは若手育成に熱心な企業であるので、プーチとホンダは意気投合していった。
2000年代の最初の頃はテレフォニカ(スペインの大手通信企業。モビスターという携帯電話企業が子会社)の支援を受けて若手育成をした。これはモビスター・アクティバ・カップといい、ダニ・ペドロサ、ケーシー・ストーナー、トニ・エリアス、ホアン・オリヴェなどを輩出している。
2005年からはドルナと手を組んで「MotoGPアカデミー」という若手育成学校を作った。これの卒業生は中上貴晶、ヨナス・フォルガー、ブラッドリー・スミス、スコット・レディングなど。
2007年から始まったレッドブルルーキーズカップ(KTMとドルナが手を組んだ若手育成選手権)にも関わっている。
本当になんでも親切に教えていたから、教え子達のプーチへの評価は上々である。
ダニ・ペドロサの保護者となる
アルベルト・プーチは数多くの弟子を育成してきたが、とくにダニ・ペドロサには付きっきりで、彼のためのチームを作り上げてそのチーム監督になっていた。
この記事でも報じられているように、ダニ・ペドロサは資金難でバイクレースを諦めかけていたのだが、そこに現れたのが先述の「モビスター・アクティバ・カップ」だった。そのときから、アルベルト・プーチとダニ・ペドロサの二人三脚が始まったのである。
ダニ・ペドロサが2006年に最大排気量クラスのレプソルホンダへ移っても、プーチはその師匠として付いてきた。プーチにとってダニ・ペドロサはまさに愛弟子で、同じカタルーニャ州バルセロナ出身者でもあり、強い連帯で結びついていた。
ダニ・ペドロサのバカンスにアルベルト・プーチが付いていったことがある。彼女とキスするペドロサの横にプーチがいるという、ちょっと笑ってしまう画像である。※その画像は、ダニ・ペドロサの彼女の追っかけサイトに掲載されている
ダニ・ペドロサの元を離れ、アジアタレントカップの相談役になる
ところが2013年のシーズン終わり頃、ダニ・ペドロサから「環境を変えたい」と言われた。1999年頃から15年も一緒に過ごしてきたので、そう思うのもおかしくはない。プーチはその意向を受けて、ダニ・ペドロサの元を離れることになった。
最初のうちは「ダニ・ペドロサに帯同しないが、ダニ・ペドロサのマネージャー(契約交渉の代理人)は務める」という状態だった。ところが2016年頃にはマネージャー職も退くことになった。2016年12月の記事で、ダニ・ペドロサがワッサーマン(米国のスポーツ選手マネジメント企業。カル・クラッチローもここと契約していたことがある。日本語版Wikipediaあり)と契約したことが報じられている。
ダニ・ペドロサとは縁が切れてしまったので、プーチは暇になってしまった。このため、アジアタレントカップ(ホンダとドルナが企画するアジア圏の若手育成選手権)の経営に転身することになった。
さらにはブリティッシュタレントカップ(ホンダとドルナが企画する英国の若手育成選手権)の相談役になっている。
アジアタレントカップのYoutubeチャンネルに、しばしばインタビュー動画が上がっている。動画1
ブリティッシュタレントカップのYoutubeチャンネルにも動画がある。動画1
このように、若手育成の分野で並々ならぬ情熱をもって指導する、まさに業界功労者となっていた。
レプソルホンダのチーム監督に就任する
2018年1月にレプソルホンダのチーム監督になった。
シーズン中は堅調に監督業をこなし、マルク・マルケスから高く評価されている。
2018年シーズン中はわりと平穏に過ぎたが、2018年12月になって、プーチ監督が口を開いた。その内容はこちらの記事が詳しい。
性格・エピソード
2019年1月に、ホルヘ・ロレンソは「レプソルホンダではマルク・マルケスとの間に壁を作りますか」と質問されていた。ヤマハワークス時代はヴァレンティーノ・ロッシとの間に壁を作っていたからである。その質問に対し、「そんなことは、アルベルト・プーチ監督が許さないでしょう」と語っている。プーチの厳格さを感じ取れる発言である。
意志が強く、たびたびキツいことを言ってメディアを喜ばせる。
2019年1月には「ヴァレンティーノ・ロッシの時代はもう終わっている。彼は、そのことを受け入ることができていない」と発言した。ご存じのように、現在のMotoGPはロッシの人気に依存していると言ってよく、そのためMotoGP関係者のほとんどがロッシに対して多少なりとも恩義を感じており、ロッシにキツいことを言うことができない。ところがプーチは意志が強いので、ロッシに対しても言いたいことを言うのである。
先制攻撃だけではなく、反撃もしっかり行うことができる。2018年2月にはKTMのステファン・ピエラCEOが「ダニ・ペドロサを手放すとは、ホンダは器量が狭い!」と場外乱闘を仕掛けてきた。それに対してアルベルト・プーチ監督は一歩も引かずに応戦、「ペドロサのキャリアを通じてホンダは支援し続けてきた。そのレベルに達するために、KTMはポル・エスパルガロとヨハン・ザルコを2031年までファクトリーチームで雇う必要がある。私はそれを見たいと思っている」と言い返した。こうした舌戦はMotoGP開幕前の2月に行われ、ファンの気を引くニュースに飢えているメディアたちを喜ばせた。
アルベルト・プーチというのはとにかく求道的でストイックで頑固であり、「レースのことだけ考えろ!」「集中しろ!」という人であった。
ダニ・ペドロサがプーチの指導を受けていたときは、スターティングリッドに並ぶペドロサの横で傘を持つ人は、綺麗で可愛い女の子ではなく軍手を付けたおじさんであった。グリッドガールじゃなくて軍手ボーイが傘持ちだった。画像検索すると軍手ボーイが散見される。
2008年以前のレプソルホンダは、イタリアメディアにとってまさしく謎に包まれた秘境であった。中本修平HRC副社長が来る前のレプソルホンダ首脳はやたらと口が固く喋ってくれない。スタッフもスペイン人が多く、イタリアメディアにとって取材が難しい。ライダーもニッキー・ヘイデンとダニ・ペドロサで、イタリアメディアにベラベラ喋ることがない。
そんな中、2009年にアンドレア・ドヴィツィオーゾがニッキー・ヘイデンと交替する形で単身レプソルホンダに入っていったのだが、なんとドヴィが怯えた口ぶりで「プーチに挨拶したら無視された」だとか「プーチのせいで部品が回ってこなくなった」などと言うではないか。これにイタリアメディアの怒りが沸騰、ドヴィを助けるためプーチを叩くことになる。
プーチはダニに対して実際のタイム差よりも小さい数値をサインボードに出してダニの尻を叩くというせせこましい真似をしていたのだが、これについてイタリアメディアが「不誠実だ!」「こんな人を騙すような人間をレプソルホンダに置いたままでいいのか!」とバッシングした。
それに対してプーチは全く反応せず、完全無視を貫いていた。
ダニは「プーチは君に嘘のサインボードを出しているんだ、どう思う?」と訊かれても「ああ、そのことは分かってますよ」とあっさり答えていた。
関連リンク
- アジアタレントカップ公式Twitter (アジア圏向け若手育成選手権 ホンダのマシンを使う)
- ブリティッシュタレントカップ公式Twitter (英国若手育成選手権 ホンダのマシンを使う)
関連項目
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