概要
正式名称は『ドルナスポーツ』で、本社はスペイン首都・マドリードにある。
バルセロナ、ロンドン、東京に支社がある。
1991年以前はFIM(国際モーターサイクリズム連盟)が直々にMotoGPの運営をしていたが、
1992年以降はFIMと契約を交わしたドルナがMotoGPの運営をするようになった。
MotoGPに関する商標権・テレビ放映権などの権利を管理している。
ドルナの大株主は、ブリッジポイントという投資企業とカナダ年金基金である。
このブリッジポイントが2011~2012年頃にスーパーバイクの運営企業であるインフロントを買収し、
ドルナとインフロントの両方を傘下に収めた。
それまでドルナとインフロントは商売敵として華々しく舌戦を繰り広げてきたが、
この買収によってMotoGPとスーパーバイクが経営統合され、落ち着いた関係になった。
ドルナのCEO カルメロ・エスペレータ
カルメロ・エスペレータ(Carmelo Ezpeleta)はドルナのCEOで、MotoGP運営のトップである。
バーニー・エクレストン(F1界のボス)のMotoGP版、と言うと分かりやすいだろう。
辛抱強く話し合って交渉を進めていくスタイルで、強権発動を好まない。バイクメーカーと協議をしたり、ライダーたちから安全性確保についての要求を受け付けたり、世界各地のサーキット運営者と交渉したりと、忙しい立場である。
姿形
MotoGPの最大排気量クラス決勝のスターティンググリッドには必ずと言っていいほど出現する。
にこにこ笑いながら開催地の有力政治家と握手して歓談している人がいたら、それはおそらくエスペレータである。
えんじ色のセーターを着ていることが多いが、たまに開催地ゆかりの服装をする。
2017年のオーストリアGPでレーダーホーゼンを着ていたし、
2015年の日本GPで「祭」の法被を着ていた。
略歴
1946年7月17日生まれ。5歳のころ初めてF1を見たという。それ以来ずっとモータースポーツと共に生きてきた。 アマチュアながら、バイクや四輪のレーサーだった。
1974年、28歳の頃スペイン・バルセロナから西に120km離れたカラファトサーキットを設立し、運営者として第一歩を踏み出した。マドリードのハラマサーキットの経営やカタルーニャサーキットの創設にも関わっている。
1991年、45歳の頃、ドルナに入社する。このときドルナの社員数は僅か7人だった。
このころバーニー・エクレストンと親交を結んでおりレース運営や経営についてのノウハウを教わった。
1992年、彼の働きによってドルナはMotoGPの商標権・テレビ放映権を取得した。
2016年7月17日は70歳の誕生日だったので皆に祝われている。画像1、画像2
経営方針
レースにかかるコストを削減して、プライベーター(バイクメーカーの直接支援を受けないチーム)が
参加しやすくなるようにして参戦台数を増やそうとするのが、最近の経営方針である。
中量級クラスに出走するマシンのエンジンをワンメイクにしたり、
最大排気量クラスにCRTマシンを出走できるようにしたり、
最大排気量クラスに出走するマシンの電子制御を共通化してみたりと、
近年のそうした動きは、「コスト削減して参戦台数を増やす」という経営方針の現れである。
メーカー側、特にホンダやヤマハは、「コスト削減は反対。MotoGPには最高のマシンを出走させるべき」
という立場で、たびたびドルナと衝突する。
レースディレクションにメンバーを送り込む
MotoGPにおいて、レースを円滑に進行させるため、レースディレクションというものが組織される。
レースディレクションは雨が降ったときの白旗を降るかどうかを決めるし、雨脚が強くなって豪雨になったとき赤旗中断するかどうかを決める。他にも様々な決めごとを即時に決断する。
レースディレクションの構成員は通例3人。1人はFIM代表、1人はドルナ代表、1人はIRTA代表。
3人が合議して物事を決める。万が一3人の意見が合わなかったら、IRTA代表の意見が通る。
IRTA代表はレースディレクターと呼ばれ、レースディレクションの代表格となっている。
レースディレクションのメンバーは変遷している。表にしてまとめるとこうなる。
FIM代表 | ドルナ代表 | IRTA代表(レースディレクター) | |
2010年頃 | クロード・ダニス | ハヴィエル・アロンソ | ポール・バトラー |
2018年頃 | フランコ・ウンチーニ | ロリス・カピロッシ | マイク・ウェッブ |
せっかくなので、ハヴィエル・アロンソとロリス・カピロッシについて、簡単に紹介しておきたい。
この動画で身を乗り出している人がハヴィエル。奥にポール・バトラーとクロード・ダニスがいる。
ドルナ代表ハヴィエル・アロンソ、IRTA代表ポール・バトラー、FIM代表クロード・ダニス、
この3人が合議してレースディレクションを決めている体制であることがよく分かる動画である。
インタビュー動画あり。名前で検索すると記事がヒットする。記事1、記事2、記事3、記事4
1992年にドルナに入社した最古参の人物で、長年カルメロ・エスペレータの右腕として様々な仕事を精力的にこなしており、カルメロ・エスペレータの後継者候補の筆頭格とされていた。
ところが2016年11月に突如ドルナを退職してしまう。後任にはロリス・カピロッシが着いた。
ハヴィエル・アロンソはドルナの中で強大な権力を持っていたので、自発的に退職したとは考えにくい。
「実際は更迭・追放ではないか」と大いに噂された。
どこのメディアも退職の理由を突き止めることができておらず、謎に包まれている。
レースの安全面を保つ責任者であり、レースディレクションにおけるドルナ代表である。
輝かしいレースキャリアがある元・MotoGPライダー。日本語Wikipediaあり。
2011年11月に引退した後、ドルナに就職し、安全面のアドバイザーになる。
2012年シーズンから、すでにレースディレクションのアドバイス役だった。
2016年11月に、レースディレクションにおけるドルナ代表に昇格した。
レース中にマシンから油が漏れて路面を汚した、という事態になるとセーフティーカーに乗って出動、
携帯電話を片手に必死に路面チェックに駆け回る。
2018年イギリスGPでは豪雨が降り、何度もセーフティーカーに乗ってコースの状態を確かめた。
何度もコースに出ているうちに遊びたくなったのか、セーフティーカーでドリフトを披露していた。
2017年には「全メーカーのMotoGP最大排気量クラスマシンを試乗」というドルナの企画に参加した。
ドゥカティ、KTM、スズキ、アプリリア、ホンダ、の画像が彼のTwitterに出てくる。
スズキとホンダは動画が出ている。KTMのツィートは勢揃いで楽しそう。
サッカーはユヴェントスが大好き。いわゆるユヴェンティーノ。画像1、画像2
モナコのモンテカルロ在住。因縁の相手原田哲也とは近所同士で現在はとても仲が良い。
原田との付き合いは1996年にまで遡る。
ロリスと原田の2人は実質的にヤマハワークスと言って良い存在のチームレイニーに所属していた。
ロリスは500ccクラス、原田は250ccクラスであり、「違う排気量クラスになると仲良くなる」と
言われるようにロリスと原田は仲良くなった。
2人は同時にチームレイニーを辞めたのだが、蓋を開けてみるとなんと全く同じチームに移籍していた。
2人とも同じチームと秘密裏に交渉していたのである。
1997年は250ccクラスのアプリリアワークスのチームメイト同士で、引き続き仲が良かった。
ロリスはもともと人が良くて面倒見が良かった、と原田が証言している。
1998年は引き続きチームメイトとして250ccクラスを戦った。
250ccクラスのアプリリアワークスにはさらにヴァレンティーノ・ロッシも加わり3人体制になった。
この3人は実力伯仲しており、僅差でチャンピオン争いをすることになった。
1998年の最終戦で大事件が起き、ロリスと原田は口も利かない間柄になった。
その頃あたりから2人ともモナコのモンテカルロに住んでいて、
車を運転するときに交差点ですれ違ったりする。そんなときはお互い目をそらし合っていたという。
時が流れて2人とも子どもができ、同じ学校に通うようになった。
すると子どもの学校で奥様同士、イングリッドさんと美由希さんが仲が良くなっていった。
奥様同士で「ちょっと食事でもしましょう」となって会うようになり、
そして旦那に「あんたも来なさいよ」となっていく。
ロリスも原田も奥様に頭が上がらないので(MotoGPライダーは奥様に心配ばかりかけてきて、
心理的に負い目があるのである)奥様の言いつけに従って4人で食事をしたりする。
そしてお互いの家に招待しあうようになっていく。
こうして段々とロリスと原田は関係修復していった。
この関係修復が始まったのが2012年頃であるらしい。ロリスが現役引退した時期と重なる。
現在は原田家の雑用をロリスがことごとく引き受けてくれているらしい。
バイクの購入やら家具の処分やら、色々親切にしてくれる。
ロリスが非常に親切な人間であることはアルヴァロ・バウティスタも証言している。
アルヴァロは2010年にスズキワークスへ入ったのだが、最大排気量クラスルーキーの彼は
マシンセッティングの出し方がよく分からない。そこで助けてくれたのがチームメイトのロリスだった。
ロリスはアルヴァロへアドバイスを送り続けていて、アルヴァロは「ロリスには頭が上がらない。
色んなことを教えてくれた。足を向けて寝られないよ。本当に感謝している」と語っている。
MotoGP育ちのライダーの大半が「ライバルにはアドバイスしない」という態度であるのだが、
ロリス・カピロッシは例外的存在であったのだった。
レースディレクションの中でドルナの一員として仕事をしている人物は、他にもいる。
そのうち1人を紹介しておきたい。
ドルナのCEOカルメロ・エスペレータの息子。TwitterとInstagramのアカウントがある。
2019年現在はレースディレクションの一員である。
MotoGPのセーフティーカーは公式スポンサーのBMWから提供されたM5(BMWが作るスポーツセダン。
セダン車種の中では世界最速の高級車)で、これをちょくちょく運転している。
レーススタートの時にセーフティーカーはスターティンググリッドの最後尾に着かねばならない。
セーフティーカーをゆっくり走らせてライダー達をスターティンググリッドに待たしてしまうと、
ライダー達はエンジンを吹かしながらグリッド上で待つことになり、
ラジエータの水温が上がり、エンジンに負担が掛かってしまうのである。それは好ましくない。
そういうわけで、セーフティーカーを運転するときは結構急いで走らなければならない。
アイスバケツチャレンジに挑んでいる。画像1、画像2
インタビュー動画がある。
何らかのイベントがあると親父と同席する。画像1、画像2
車体の規格を決める
ドルナは毎年初頭に、レースに出場する車体の規格を決めている。
MotoGPの車体規格に関するニュースでよく名前が出てくる人物は、以下の2人である。
MotoGPのテクニカルディレクター(Technical Director)。
2017年以降は、最大排気量クラスにおける空力パーツの可否を判定する立場になった。
この人がOKといえば出走可能になるし、ダメといえば出走不可になる。
2018年1月のセパンテストでヤマハワークスは尖った形状の空力パーツを持ち込んでいて、
「はたしてこれはいいのか。さて、ダニー・アルドリッジはどう判定するか」と盛んに書かれていた。
MotoGPにおいては技術違反でライダーが失格することがたまにある。そういうときはダニー・アルドリッジが記者会見に臨み、どういう違反だったのかを詳しく説明する。
MotoGPのテクノロジーディレクター(Technology Director)。
テクニカルディレクターもテクノロジーディレクターも和訳すると「技術監督」となってしまう。
毎年開幕戦のカタールGPで「今年のレギュレーション 最低重量157kg ガソリン20リットル
エンジン基数5基 ブレーキディスクの最大径320mm」などと語られる。
こういった技術規則を決定する立場の人である。
イタリア人で、2005年頃はドゥカティワークスでテクニカルディレクターを務めていた。
テクニカルディレクターとはどのワークスでも「困ったときの相談窓口」という立場であり、
マシンについて最も詳しい人である。
2014年に最大排気量クラスの電子制御ソフトがマニエッティ・マレリの電子制御ソフトになると
決まったとき、この人の名前が盛んに記事に出ていた。
全ての機材を輸送する
MotoGPに参加する全てのチームの機材、テレビ放送の機材、セーフティーカーや空撮ヘリコプター、
ことごとくをトラックへ詰め込み、場合によってはジャンボジェット4機に乗せ、次の開催地へ輸送する。
この輸送作業はかなりの大仕事なので、MotoGP公式サイトでもしばしば取り上げられる。
記事1、記事2、記事3
MotoGPの輸送に関する動画は多いので、いくつか紹介したい。
まずはチームスタッフ全員でピットのものを撤収する。
フォークリフトがやってきて、積み荷をコンピュータで管理しつつ、どんどん積み込んでいく。
チラチラとMotoGP公式スポンサーのDHLが映っている。
DHLはドイツポスト(ドイツ版日本郵政)の傘下にあるドイツの物流企業。
トラックが列を作って搬送していく。
MotoGP公式スポンサーのIVECOのトラックが大活躍している。
IVECOはイタリアの巨大企業フィアット傘下のトラック企業。イタリア・トリノに本社がある。
最後にジャンボジェット機に荷物を載せる。航空機の手配はDHLの得意分野である。
輸送部門の責任者
MotoGPの輸送部門責任者。彼の仕事はレースが終わったあとに始まる。
検索すると記事がヒットする。記事1、記事2、記事3
インタビュー動画あり。
テレビ局に放映権を売り込む
ドルナにとって大きな収益源となるのが放映権で、これを各国のテレビ局へ売り込むことが大仕事となる。
テレビ局への放映権の売却のニュースでしばしば名前が挙がる大物は、次の人である。
1992年からドルナがFIMからドルナの運営権を委託されるようになったが、その年にドルナに入社した。
それ以降はドルナのメディア向け営業担当員として辣腕を振るう。
どこかの国のテレビ局と契約した、という記事がいくつか見つかる。記事1、記事2
2018年11月、スペインにおける独占放映権をDAZONが獲得したというニュースが流れた。
そのニュースでドルナ代表として声明を発していたのが、マネル・アロヨである。
インタビュー動画がいくつかある。動画1、動画2、動画3
なんと、世界的な名門サッカークラブのFCバルセロナの副会長でもある。
「マネル・アロヨ」「マネル・アローヨ」と検索するとバルサの副会長としての記事がヒットする。
マーケティング及びコミュニケーション担当で、カタール航空や楽天といったスポンサーとの折衝を行っている。2010年7月からFCバルセロナの役員になり、2014年3月に副社長になった。
FCバルセロナ副社長とドルナ重役を同時に務めるという、にわかに信じがたいような活躍をしている。
簡単にマネル・アロヨの経歴を紹介しておきたい。
1960年3月10日にスペイン・カタルーニャ州バルセロナ近郊のヴィクで生まれた。
もともとは生まれ故郷のヴィクのラジオ局のジャーナリストだった。
モータースポーツの地方イベントの開催に関わったこともある。
Radio Nacional de España (RNE)というスペイン国営ラジオ局勤務を経て、
Televisión Española (TVE)というスペイン国営テレビ局に移った。
ちなみにRNEとTVEはグループ企業で、どちらもRTVEという会社の傘下になっている。
TVEには1986年に入社し、F1やMotoGPやラグビーのコメンテーターを務めた。
1987年にTVEのスポーツ番組『Estadio 2』の編集者になっている。
1988年にTVEを退社し、今度はCadena Serというスペインマドリッドを本部とするラジオ局に就職。
そしてすぐにCadena SERを退職し、RACCのメディア担当の役員になった。
マネル・アロヨはRACCの一員として駆け回り、ラリー・カタルーニャを1991年からWRCのカレンダーに加えさせることに成功した。
また、マネル・アロヨはRACCの役員としてカタルーニャサーキットの設立に深く関わった。
このとき、カルメロ・エスペレータと知り合った。
1991年にカタルーニャサーキットが開業してF1スペインGPが開催され、
1992年にバルセロナオリンピックが開催されカタルーニャサーキットは自転車競技の会場になった。
こうして、マネル・アロヨとカルメロ・エスペレータの努力は実を結んだのであった。
1992年からドルナに入社したのは先述の通り。
こうして彼の経歴を振り返ると大変な働き者であることがよく分かる。
地方ラジオ局のジャーナリストからここまで出世したというのも驚愕するしかない。
本人のTwitterあり。息子のダヴィド・アロヨ(David Arroyo)はドルナのテレビ部門で働いている。
マルク・マルケスはFCバルセロナの大ファンで、喜んでコラボ企画に参加している。
そういうとき、マネル・アロヨが記念写真に写っている。画像1、画像2
レースの撮影
熟練スタッフを大勢引き連れる
ドルナは多くの撮影スタッフを抱えており、レースに帯同する人数は200人ほど、
機材の量は35トンほど、サーキットに持ち込むテレビカメラの総数は150台ほどにも及ぶという。
サーキットの中の主要なコーナー1つにつき、カメラを2台配置する。
1台は先頭ライダーを映し、もう1台は後続ライダーを映す。
カメラ1台に付き熟練のカメラマンが1人付く。
カメラマンは毎年同じコーナーに陣取り、経験を積み重ねて撮影の腕を磨いていく。
こちらのブログではカメラマンの画像・動画が掲載されている。カメラマンは回転する椅子に座り、
ライダーが来るのに応じてぐるーんと回転して映像を撮る。
最大排気量クラスのバイクに搭載するオンボードカメラは最低でも3台で、
勝ち負けを争うトップライダーともなるとさらにカメラを多く搭載することになる。
そうした多くのカメラから得られる映像を熟練のスタッフが選別し、全世界のテレビに発信する。
1992年以前のMotoGPのテレビ放送は今に比べて拙劣なものだった。
サーキットのある国の地元テレビ局が、慣れない作業に手間取りつつ撮影していたからである。
現在では先述のように200人ほどのスタッフが毎戦レースに帯同し、完璧な作業で美麗映像を作っている。
この動画ではドルナのテレビスタッフの様子が映されている。ケーブルの敷設のシーンが多い。
ヘリコプターを各サーキットを持ち込み、空撮映像を撮っている。この動画で紹介されている。
最新鋭カメラを次々と導入する
最先端のカメラを積極的に導入する事でも知られている。
2009年ドイツGPから1秒1,500コマのスーパースローカメラを導入した。
こんな感じの動画になる。
これによりマシンの挙動が正確に分かるし、タイヤの消耗度合いも丸わかりとなる。
2018年アルゼンチンGPでは1秒2,000コマのスーパースローカメラを使っていた。
ちなみに2016年オリンピックでは1秒10,000コマのスーパースローカメラを使い、計測をしていた。
MotoGPの撮影においては、さすがにそこまでのスローカメラは必要とされていない。
2010年ドイツGPあたりからジャイロスコープ(gyroscope)カメラを導入した。
これはマシンを傾けていてもカメラが垂直を保つカメラである。
こんな感じのバックオンボードカメラ動画になる。バイクの傾きを実感できる。
2014年カタルーニャGPではブラッドリー・スミスのマシンに
「ジャイロスコープで水平を保ちつつリモコンで回転するカメラ」が導入された。
こんな感じの動画になる。マシンとマシンの接近を鮮明に捉えるようになった。
カメラが回転する様子はこの動画で紹介されている。
2016年のイギリスGPではヴァレンティーノ・ロッシのマシンに
「360 Gyroscopic Camera」が導入された。
これは、ジャイロスコープで水平を保ちながら360度全周を同時に撮影できるカメラである。
これがそのカメラによるオンボードカメラ動画で、よりパノラマな映像になった。
こちらの動画でもパッシングシーンの滑らかな視点移動を堪能できる。
MotoGP公式サイトのこのページでは、動画をマウスでクリックして動かすと視点を360度変更できる。
こちらの動画では、360度カメラが映し出されている。
オンボードカメラ進歩の歴史
ドルナのオンボードカメラ(バイクに搭載するカメラ)に対する情熱は素晴らしいものがある。
公式サイトのこのページに歴史がまとめられているので、引用しつつ紹介したい。
1985年6月29日、TTアッセン・サーキットで開催された第7戦オランダGPで、
独走優勝したランディ・マモラのホンダ車に初めてオンボードカメラが搭載された。
そのときのオンボードカメラの重量は1,325gだった。
1998年にバイクメーカー達と契約を結び、オンボードカメラを搭載することをメーカーに義務づけた。
ここから、バイクメーカーはオンボードカメラを考慮に入れてマシン設計をするようになる。
メーカーからは軽量化の要求があったのでドルナはそれに応えるべく、次々とカメラを軽量化した。
ちなみに各メーカーはテストをする際、オンボードカメラと同等の重さ・形状の模型をマシンに付け、
そうしてから走行してデータをとっている。
2003年にはヴィジリンク社やギガウェーブ社と契約を結び、軽量化をさらに進める。
2007年にはヘルコプターを通じて送られるバイクからの映像信号がアナログからデジタルに切り替わり、
悪天候だけでなく、ボックスやトンネルといった障害を克服した。
それ以前はトンネルをくぐるときに必ずオンボード画像が乱れていた。
映像信号のデジタル化により、このようにトンネルでもオンボード画像が乱れなくなっている。
2010年には先述のように垂直を保ち続けるジャイロスコープカメラを導入している。
さらには日本の富士フイルムが高性能なレンズを開発、さらに画像が鮮明になった。
2015年にはオンボードカメラの重量は78gにまで軽量化している。
こちらの動画にてオンボードカメラの進歩の歴史が語られている。
撮影の総責任者
スペイン・カタルーニャ州出身。ドルナのテレビ担当職員にはカタルーニャ州出身者が多いという。
テレビの生中継という速度を重視される職場なので、同一言語を話す同一国籍スタッフで固めた方が
なにかと都合が良いようである。
セルジ・センドラの前には多数のボタンがあり、彼がそれを押して、
どの映像を映すのか最終判断をしている。この動画でも多くのモニターやボタンが見える。
最近のドルナの中継では動物や昆虫を1秒1500コマのスーパースローモーションで撮影するが、
これはセルジ・センドラの趣味であるらしい。
こちらが本人のTwitterカウント。雲とか山脈など風景画ばかりアップロードしている。
こちらの動画でインタビューに応じている。
テレビ放送
ドルナは公式実況をしており、世界中に配信している。
現在の世界の基軸言語は英語なので、英語圏の人がドルナ実況班に採用されることが多い。
現在のスタッフ
マット・バート(Matt Birt)と呼ばれることが多い。
2014年までBTスポーツ(英国の大手通信業者BTグループの、スポーツ中継部門)に在籍していた。
2015年からMotoGPの最大排気量クラスの実況になり、ニック・ハリスと2人で実況をし始めた。
2015年4月の動画でインタビューに応じている。
2018年からは組む相手がスティーヴ・デイになった。
Twitterカウントがある。
2017年まではMoto3クラスの実況を担当していた。
2018年からは最大排気量クラスの実況をマシュー・バートとともに担当するようになった。
前任者のニック・ハリスと違って、かなり甲高い声である。
マシュー・バートも甲高いが、それよりさらに甲高いのがスティーヴ・デイ。この動画でもよく分かる。
Twitterカウントがある。
MotoGP公式実況のピットレポーター。レース中にピットでの動きを伝える。
レースが終わったらパルクフェルメに行き、表彰台ライダーへのインタビューを行う。
ニュージーランド人で、元MotoGPライダー。大柄な体格で、大きなバイクのレースに強かった。
1994~1997年はスーパーバイクに参戦し、ランキングは5~7位でなかなかの好成績だった。
1998年に最大排気量クラスで優勝1回、2位1回3位1回。日本語版Wikipediaあり。公式Twitterもある。
2018年に、ディラン・グレイの後を引き継いでピットレポーターに就任した。
2017年までのAfter the flag(ドルナがレースごとに作る動画)はディラン・グレイが中心だったが、
2018年のAfter the flagはサイモン・クラファー、マシュー・バート、スティーヴ・デイの3者対談動画になった。こんな動画が毎回上がっている。
英語圏には、シャキシャキとした発音の英語を話す人が多い。ディラン・グレイもそういう発音だった。
ところがサイモン・クラファーの英語はかなりねっとりとしており、語尾にハートマークをつけると
ちょうど良いんじゃないかという印象を受ける。
女性リポーター。1992年頃生まれで、Twitter、Instagram、Facebookのアカウントあり。
この記事にインタビューがある。それによると、彼女の家庭はそろってサッカー好きなのだが、
友人の父がモータースポーツ大好きで、それに影響された。
モータースポーツに関わりたいと思い、10代後半にグリッドガールに応募した。
モンスターエナジーのグリッドガールをすると同時に大学へ通い、放送・ジャーナリズムの学位を取った。
そうしているとモンスターエナジーから「モトクロス世界選手権の取材をしないか」と誘われた。
それに応じて2011~2013年の3年間をモトクロスの取材に費やした。
2014年からはドルナに入社し、貴重な女性レポーターとして活躍する。
2015年からはAfter the flagにも出演し始め、以降は同番組の常連になる。
「2016 Czech After the flag」とYoutubeで検索すると、2016年チェコGPのAfter the flagの動画が出てくるのだが、そこにエイミー・ダーガンが出てくる。
そんな調子で、After the flagの動画を漁っているとしょっちゅうエイミーに出くわす。
2018年第3戦アメリカズGPではサイモン・クラファーが一身上の都合のため欠席した。
そのときはエイミー・ダーガンが代わりにピットレポーターとなり、パルクフェルメにいた。
シャキシャキ・ハキハキとリズムカルに喋る。いかにもと言った感じの英語圏の喋り方と言える。
過去のスタッフ
英国のリーズ出身。公式Twitterあり。
リーズ大学の言語系の学部に行き、文学、スペイン語、フランス語を学んだ。それらは卒業後も学び続けている。卒業論文はスペインのスポーツメディアについてだった。
2000年頃、既にマット・ロバーツという男がドルナで働いていた。マットはガヴィンの大学時代の友人で、マットはウェブサイト運営を担当していたが人手不足で助けてくれる人が欲しかった。
マットはガヴィンを上司に紹介した。マットの上司とガヴィンが面談してすぐ採用が決まり、1週間後にガヴィンはスペインのバルセロナに引っ越してドルナのウェブサイト運営を手伝い始めた。
2001年頃のドルナの英語版ウェブサイト運営は、マットとガヴィンの2人だけで行っていた。
ドルナに入社して1年目はウェブサイト運営だけをしていて2年目からテレビインタビューの仕事もするようになり、さらにはスズキやDUNLOPの社内向けビデオも制作した。
スズキ向けのビデオでナレーションをするようになった。子供の頃からテレビ実況をしたいと思っていて、ナレーションの作業はずっとやりたいと思っていたことだった。
ドルナに「テレビ実況の仕事をしたい」と言い続け、2003年のオーストラリアGPでそれが叶った。
2010年頃には最大排気量クラスの実況をニック・ハリスとともに行うようになっている。
After the flagには毎回出演していた。2013年までのAfter the flagの動画をよく見ている人にとって、
ガヴィン・エメットはおなじみと言えよう。こちらがAfter the flagのプレイリスト。
2012年、2013年のMotoGP年間表彰式の司会を務めている。まさしくMotoGPの顔だった。
2014年初頭にドルナを退職し、BTスポーツ(英国の大手通信業者BTグループの、スポーツ中継部門)
に転職した。2014年4月の動画でさっそくBTスポーツの一員になっている。
2018年もBTスポーツのリポーターで、レース前は主に英国人ライダーのところにいた。
レースが終わるとパルクフェルメにいる姿が見られた。
After the flagで見られるような陽気で開放的な表情ではなく、生放送に臨むテレビスタッフという感じの、緊張感ある表情をしていた。
2019年も引き続きBTスポーツのリポーターとしてMotoGPにやってくる。
テレビアナウンサーとしての本格的な教育を受けたわけではなく、子供の頃からアナウンサーが喋っているのを聞いてそれを真似しているだけである。このため、やや声量が乏しく、実況の途中で声がかすれることがある。この歴史的なレースの動画で声をかすれさせてしまった。
言語の専門家で、英語・フランス語・スペイン語を流暢に話すことができる。イタリア語もかなり上手い。
カタルーニャ語は理解できるが喋ることができない。
レース後の記者会見で、Moto2時代のアンドレア・イアンノーネは英語を話さず、イタリア語を喋っていた。そういうとき、記者会見の司会を務めるガヴィンは、即座に英語に翻訳して話していた。記者会見の司会と通訳を兼任していたことになる。
ガヴィン・エメットというと「ウェルダン(Well done)」である。この人はレース後の記者会見で
司会を務めていて、ライダーに話しかける役目を務めていた。ライダーが一通り喋ると、
「Congratulations,○×(ライダー名) Well done」などと言ってインタビューを締めくくる。
Congratulationsは「おめでとう」の意味で、これは普通の表現。
ここでちょっと意外な言葉なのがWell doneで、この言葉はサッカーのコーチが少年に向けて掛けるような言葉であり、かなりというか相当に気さくな言葉である。日本語にすると「よくやったね!」となる。
このWell doneが完全に口癖になっていて、毎回必ず言っていた。
もともとはアナウンサー・ナレーターだった。公式Twitterアカウントあり。
2013年にドルナへ入社。2014年はガヴィン・エメットの後を継いで最大排気量クラスの実況を務めた。
2014年のAfter the flagの司会者の1人だった。こちらの動画で司会者に就任している。
2014年をもってドルナのMotoGP担当から離れ、ドルナのスーパーバイク担当へ異動していった。
彼の後を継いだのが、マシュー・バートである。
2017年1月にドルナを退社し、その後はテレビ局へ就職してモータースポーツの実況をしている。
MotoGPの名物実況アナウンサー。ちょっとしわがれた感じの声でアクセントをつけて巧妙に喋る。
MotoGPに関する知識も相当なものなので、レースウィークの記者会見の司会を務めていた。
公式Twitterあり。オックスフォード大学で有名な学園都市のオックスフォードに住んでいる。
ちなみにオックスフォードはシルバーストンサーキットにかなり近い。
オックスフォード・ユナイテッドという地元のサッカークラブのファンであり、
ラジオ実況もしていて、この動画では25年も実況の仕事を続けたことが分かる。
1947年生まれ。1979年頃からMotoGPに関わり始めたらしい。
1992年には既に最大排気量クラス担当の看板アナになっている。
2017年、70歳になったのを機に勇退した。ライダー達のモノマネを含むお別れ動画が製作された。
藤原らんかの絵はこちら。
末尾にエ音が入る言葉を言うのが苦手なのか、イアンノーネを「イアンノーニ」、コルテーセを
「コルテーシ」と発音している。ニック・ハリスだけでなく、ガヴィン・エメットもそう言っている。
ピットレポーター。レース中にピットでの動きを伝える。
レースが終わったらパルクフェルメに行き、表彰台ライダーへのインタビューを行う。
この動画の最初から登場している。聞き慣れた声なので「ああ、あの人か」となるだろう。
この動画で、パルクフェルメにおけるインタビューが映っている。
この人は企画モノ動画にも参加している。
GoProのカメラをあちこちに付けたバイクにまたがり、コース紹介の実況をしながら全力走行する。
こんな感じの動画がYoutubeにいっぱい上がっている。ハァハァ言いながら走っているのが面白い。
この動画ではライダースーツ姿が映っている。
この動画では右手にギプスをしている。(コース走行中に転倒して怪我したのだろう)
この動画ではスペイン語っぽい歌を歌っている。
2002年から2006年までサウサンプトン大学の工学科に通っていた。
2007から2012年4月までバイク雑誌の編集者をしていた。
2012年4月にドルナへ入社。
2013年からピットレポーターとなる。動画1、動画2
2014年からAfter the flagの動画の司会者となる。この動画で司会者に就任している。
それからは2017年終わりまでずっとAfter the flagに出続けていた。
2017年をもってドルナを退職した。こちらが公式Twitterでのお別れ挨拶。
関連項目
- FIM(国際モーターサイクリズム連盟) (MotoGPを統轄する団体)
- IRTA(国際レーシングチーム協会) (MotoGPに参戦するチームの意見を集約する団体)
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