アールネ・エドヴァルド・ユーティライネン(1904年10月18日~1976年10月28日)は、フィンランドの軍人である。
あのシモ・ヘイヘの上司で、こちらも負けず劣らず強烈な軍人であった。
概要
アールネ・エドヴァルド・ユーティライネンはフィンランドの軍人である。戦争が三度の飯より大好きな人間で、「ピクニックにいくかのようにはしゃいで」戦車5両を撃破したり、ソ連軍の陣地に押し入って陣地にあった毛布を全部略奪したり、ソ連軍の砲撃が降り注ぐ中でロッキングチェアにくつろいで本を読んだり、狙撃銃を持ってロッキングチェアに座り、その姿を見て釣られたソ連兵を狙撃したりとやりたい放題な逸話が残っている。
フランス外人部隊に属してモロッコで戦っていた時期があり、ついた渾名が「モロッコの恐怖」。これは短縮されて単に「恐怖」とだけ呼ばれることもあった。また、部下の兵士たちからはその豪胆さと気遣いから非常に慕われ、「親父(パッパ)」と呼ばれた。
軍歴、というよりその生涯
フィンランド陸軍士官学校に入学するが、本人曰く「ちょっとした規則違反」を3回やらかし、卒業まで残り4カ月の時点で停学1年の処分をくらう。停学中は少尉としてある自転車大隊に所属するが、そこで「人生を楽しんだ」ため3回も拘禁処分を言い渡され、とうとう士官学校を退学させられることになってしまう。
その後は船員になり、甲板の掃除に飽きた頃、新聞でフランス外人部隊の記事を発見する。記事の内容に強く惹かれたユーティライネンは即断して船員を辞め、アフリカへと向かって1930年にフランス外人部隊に入隊する。新兵として訓練を受けている間に問題を起こして監獄にぶち込まれるが、釈放された後は真面目に訓練を受けたようである。
その後、同僚のオーストリア人と暑さにやられてボクシングしたり、上司の下士官を罵倒したりして5年間フランス外人部隊を勤めあげ、なお契約続行を要請されるが遂に除隊。
1935年の夏にフィンランドに帰国する。
帰国後、フィンランド陸軍の連隊で小隊長を任される。が、酔っ払って寝てしまったところを同僚たちに簀巻きにされて放置されたところをお偉方に見つかり、除隊勧告を受けて除隊させられてしまう。
その後は職を転々とし、再びアフリカに戻ることを考えるようになるが、母親の願いで出発は先延ばしにしたところで再招集がかかる。
再訓練の後に中尉となり、第12師団第34連隊第6中隊、通称「カワウ中隊」の指揮を任されることとなる。
冬戦争では同中隊を率いて奮戦。開戦当初の遅滞戦闘やコッラーの戦いでソ連軍を苦しめた。シモ・ヘイヘの経歴を見て彼をあえて特定の小隊に所属させず、狙撃手の任務を与えたり、ソ連軍が砲撃を加える中で毅然とクリスマス行事を行ったりと、ユーティライネンは部下の才能を見抜く目と人心を掌握する手腕を持っており、部下達からは「親父(パッパ)」と呼ばれて親しまれた。
終戦後は結婚し、コンティオラハティ駐屯地で教官の任務についている。
継続戦争では第7師団第9歩兵連隊に所属し、続くラップランド紛争では大隊指揮官として参戦する。
しかし、こうして冬戦争から活躍し多大な戦功をたてるも、口論である中尉の足を撃ち抜いた事件が尾を引き、ユーティライネンが職業軍人になることはできなかった。最終階級は大尉。
その後は平和な生活に馴染めず結婚生活は破綻。戦場で受けた傷が痛み、酒におぼれ、軍の兵站部から仕事を回してもらって生計を立てた。
1976年10月28日、その存在を忘れられたまま没する。享年72歳。
エピソード
完璧な装備
冬戦争前、フィンランド軍は物資が不足していたが、ユーティライネン中尉は「俺の兵士には完璧な装備が必要だ」と断言。彼の指揮する中隊は他の部隊を押しのけてでも装備の略奪調達を強行した。
しかし、とうとう装備調達は行き詰まり、ユーティライネン中尉の机の上に領収証、命令書、嘆願書などの書類が詰みあがって補給担当たちが匙を投げてしまう。が、諦めかけた補給担当達に中隊長は父親のようにアドバイスした。
「君らは拳銃を持っているだろう。それでうまくやりたまえ」
結果、彼の第6中隊は十分な装備をもって戦争に臨むことが出来た。ユーティライネンはこの強引なやり方を批判されても「戦争中は何でも許される」「砲弾の破片が額に飛んで来た時に『ヘルメットをかぶっていればよかった』と文句を言っても手遅れだ」と意に介さなかった。いやはや・・・・・・
武器を取るのは個人の自由、見張りに立つのは兵士の義務
冬戦争中のある日、アフリカでの武勇伝を部下達に披露していたユーティライネン中隊長の元に補充兵2名がやってくる。彼らは自らの良心に従って武器を手に取るのを拒否すると中隊長に宣言した。古参の部下達のwktkな視線を受けながら、気分を害した風もなくパイプにたばこを詰めて再び火をつけると、ユーティライネンは補充兵たちに告げる。
「武器を持つことは強制しない、個人の自由だ。だが見張りの当番は兵士全員に公平に割り当てる、義務だからな。当然お前達にも見張りに立ってもらう。なに、リュッシャ(ロシア兵)が来たら雪玉でもぶつけてやれ。奴らを通さなければそれで良い」
この返答に古参兵たちがコーヒー吹いたり咳込んだりしている中、「手ぶらじゃ無理です……」と補充兵たちが白旗をあげたため、ユーティライネンは部下の分隊長の一人に案内を命令し、再び武勇伝を披露し始めた。
人物関係
エイノ・イルマリ・ユーティライネンは弟であり、アールネがマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの回顧録を与えた事がエイノを戦闘機パイロットへの道を歩ませることとなった。
シモ・ヘイヘは部下の一人であり、彼の才能を見抜いて狙撃手の任務を与えた。また、記者から取材を受けた際にシモ・ヘイヘの功績を紹介し、彼が世間に知られる発端となった。
シモ・ヘイヘが負傷し後送された後、しばらくは彼が死んだものと思っていたため、彼の生存を聞いた時は祝宴を開くほど喜んだ。
1940年の4月には療養中のシモ・ヘイヘに手紙を送っている。
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関連項目
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