冬戦争とは、1939年11月30日から1940年3月13日にかけて行われた、フィンランド対ソ連の戦争である。寡兵ながらフィンランド軍が善戦した事から「雪中の奇跡」と呼ばれている。ソ連側の名称はフィンランド戦役。
経緯
時に1939年、9月から始まったドイツ軍によるポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発していたが、当時はまだ不活発で「まやかし戦争」と呼ばれるほどのんびりとしたものだった。そんな中、北欧はドイツや連合国とは全く別の脅威に脅かされていた。大粛清により絶対的な権力を獲得したヨシフ・スターリン書記長はかつてフィンランドの独立を防げなかった事を残念に思い、失われた旧ロシア領の失地回復をおもむろに開始、バルト三国と東ポーランドを併合した後、勢いに乗っていたソ連は1917年に自国から独立したばかりのフィンランドに目を向け、かの国を再び傘下へ置こうとした。フィンランド屈指の工業地帯であるカレリア地方を獲得しようと10月5日にモトロフ外相はフィンランド交渉団をモスクワに招く。しかしソ連の要求は理不尽なものだった。
- ソ連との同盟締結
- ソ連第二の都市レニングラードの安全保障のため、東カレリア地方と北部コラ半島を交換
- レニングラードへの湖上通路になるハンコ半島にソ連軍の基地を設営
- カレリア地方のソ連国境線を30km前進
2の交換は明らかに不平等で、重要なカレリア地方を手放す代わりに得られる土地は、原生林が広がる未開拓地という価値の無いもの。3は自国の領土内にソ連軍が駐留する事を意味し、要求を呑めばソ連に逆らえないよう喉元にナイフを突きつけられる格好になる。こんな不等極まりない要求を受けたフィンランドであったが、涙を飲んで「国境線10kmの前進」と「フィンランド湾の島々の譲渡」は認めた。しかしハンコ半島の貸与は認めなかったためソ連が激怒して交渉決裂。両国の間に修復不能な亀裂が走ったのだった。
10月中に双方ともに動員を開始。フィンランド政府はソ連の侵略に備えるため緊急事態を意味する「共和国防衛法」を発布、対するソ連はフィンランド全土を力ずくで占領しようと大部隊をフィンランドとの国境線へ移動。交渉団は11月13日に帰国したが、国内で行われる戦闘準備とは裏腹に交渉が続けられるものと確信していたという。11月26日、ソ連政府は国境に近いソ連のマイニラ村にある国境警備所が何者かに砲撃され、警備員4名が死亡、9名が負傷したと発表。モトロフ外相はこれをフィンランド軍の仕業だとし、謝罪を要求するとともに国境から20~25km先にソ連軍が進出出来るよう求めた。一方のフィンランド政府は要求を拒否、事件を調査するためフィンランド・ソ連合同委員会の設立を要求するが、ソ連はフィンランドの態度を敵対的だと主張。かつて結ばれた不可侵条約を破棄して11月28日にフィンランドとの国交断絶を発表し、そして1939年11月30日に領内への侵攻を開始。これが冬戦争の始まりである。人口約1億7000万のソ連vs350万のフィンランドという、誰が見てもフィンランド不利の戦況。周辺諸国は一週間で勝負が決するだろうと小国の運命を哀れんだ。
戦後フィンランドとロシアの歴史研究家数人が調査したところフィンランド軍の砲撃部隊は存在せず、NKVD(ソ連の秘密警察)による偽旗作戦、言わば自作自演だとしている。またソ連軍が描いた開戦シナリオによるとマイニラ村での国境事件をきっかけに開戦する事にしていたという。
両軍の戦備
フィンランド軍は戦争に備え、あらかじめ歩兵を19万人に増員。装備や兵器も揃えていたがその大半が第一次世界大戦のものと旧式化が著しかった。内訳は対戦車砲120門、ヴィッカース戦車約20輌、機関銃4500丁、航空機160機。このうち一線級と呼べるのは36機のフォッカーD21のみと心細い。海軍の総戦力は海防戦艦2隻、潜水艦5隻、魚雷艇6隻、砲艦4隻、機雷敷設艦1隻、機雷敷設艇5隻、掃海艇14隻。戦力の低さを痛感していたフィンランド軍は更に沿岸警備隊の哨戒艇14隻や砕氷船、大統領用のヨットまで徴用し軍籍に投じている。しかし弾薬は20日分、航空燃料は30日分、銃器用潤滑油は60日分しかなかった。
フィン・ソ国境線は1340kmもあったが、未舗装の道路がある場所を除いて大部分が通行出来なかったため、守るべき場所は意外と少なかった。兵士はほぼ例外なくスキーの訓練を受けていた他、中にはフィンランド内戦にも参加した古参兵もいるなど兵の質は高かったものの、物資の不足から全軍に防寒具を行き渡らせる事が出来ず、予備役の者は民間の防寒具で代用。また人口がまばらで農業が盛んなフィンランドにとって国民の徴兵はすなわち労働力不足に直結。経済的打撃を受ける覚悟で動員しなければならなかった。
対するソ連軍は30個師団45万人を動員。装備や兵器の数はフィンランド軍を大きく上回り、そして新式だった。内訳は砲1900門、戦車2400門、航空機670機。圧倒的な戦力差だったためソ連軍内では楽勝ムードが漂い、3日で決着が着くと考えて外套すら支給しなかったとか。しかし愛国心を滾らせて士気を上げるフィンランド兵に対し、小国に侵略行為を行う形となったソ連兵の士気は極端に低かったという。
しかし一見優勢に見えるソ連軍も内部は大粛清でガタガタだった。元帥3名、師団長220名、士官3万6761名が処刑され、残っていたのはスターリンに取り入った将兵だけと無能が多く、また軍事決定には政治委員会の承認が必要だったためこれが指揮系統の硬直化を招いた。それでもボリス・シャポシニコフ参謀長は油断なく戦力の拡充、合理的な戦闘順序、最良の部隊配備をするよう求め、キリル・メルツコフ軍司令官は「フィンランドの地形は川や湿地、湖に分断され、ほぼ完全に森に覆われている。我々の兵力を適切に運用するのは困難になるだろう」「攻略には2週間かかる」と報告するなど正確に状況を見据えていた者もいたが、彼らの主張は軽んじられた。またノモンハン事件で日本軍と交戦した時、「戦車、大砲、航空機を大量に投入した戦法は有効」という戦訓があったにも関わらず、軍内の派閥争いで硬直化していたソ連軍指導部はこの戦訓を取り入れなかった。
雪中の奇跡
1939年
1939年11月30日午前9時25分、レニングラードから飛来したソ連軍機が首都ヘルシンキに侵入して宣伝ビラを撒き、そして14時30分からヘルシンキやタンペレへの爆撃が始まった。この爆撃によりヘルシンキでは約100名の死者を出すとともに50以上の建物が破壊された。都市爆撃は無差別テロと見なされ大儀を失う事から、欧州ではタブーとされていたのだが、いきなりソ連軍はそれをやったのである。国際的非難を浴びたモロトフ外相は「ソ連空軍はフィンランドの都市を爆撃しているのではなく、飢えているフィンランド人に支援物資を投下している」と弁明したが、フィンランド側は支援物資()を「火炎瓶のパンかご」「モロトフのパンかご」と呼んで皮肉った。同日20時、国防委員会議長のマンネルヘイム元帥がフィンランド軍の総司令官に任命。戦場となりうる地域から住民を避難させるため、フィンランド政府は自動車、列車、船舶を手配し、子供を優先して疎開させた。
フィンランド海軍はソ連軍の海上での行動を阻害するべくフィンランド湾に機雷を敷設。元々ソ連海軍は上陸用舟艇を持っていなかったため積極的な活動はしなかったが、12月1日にハンコ南方5kmにあるルサロ島沖で最初の海戦が発生、フィンランド軍の234mm沿岸砲台4門がソ巡洋艦キーロフを砲撃して至近弾を与え、死者17名と負傷者30名を出して撃退している。
戦局は圧倒的にソ連軍有利であったがフィンランド特有の気候と地形はソ連軍を頑強に拒んだ。更にフィンランド軍はソ連軍に出血を強いるため、司令官のカール・グスタス・マンネルヘイム元帥の名から取られたカレリア地方の主要防衛ライン「マンネルヘイム線」の前に2万1000名が守備する縦深陣地を用意し、とにかく足止めに専念。戦車を殆ど持っていないフィンランド軍にとってソ連の戦車はまさしく脅威だったが、ソ連軍は単純な機甲突撃ばかり繰り返したせいで逆に対戦車戦術の手ほどきをする格好となり、履帯に丸太やバールを突っ込まれて行動不能にさせられたのち火炎瓶で放火され、80輌のソ連軍戦車が国境線付近で破壊されている。戦車に火炎瓶が有効と知ったフィンランド軍は国内のアルコール飲料会社に全力生産するよう命じた。12月1日、空襲に来たツポレフSB-2双発爆撃機の1機が被弾してヴィボルグ北方20kmのイマトラに不時着。機体はフィンランド軍に鹵獲され修理後に自軍へ編入した。
決死に応戦するフィンランド軍をソ連軍は数の暴力で押し切り、12月6日までにフィンランド軍の全部隊は後方のマンネルヘイム線まで後退。ここでソ連軍は開戦以来初の大攻勢に転じ、ラドガ湖岸、タイパレ川、スヴァント水路で一斉に攻撃を開始してマンネルヘイム線を突き崩そうとした。まずタイパレ方面ではソ連軍が無謀な突撃を繰り返したためフィンランド軍の猛襲で大損害が発生、後方から戦車と第150ライフル師団が増援に送られたが押し戻され、更に赤軍第3師団が送られるも砲撃を受けた事で恐慌状態に陥って壊走。1000名のソビエト兵が死亡、27輌の戦車が乗り捨てられた。ラドガ湖北方の戦線はあまり道路が整備されておらず、戦車の進軍を遅延させた上、大小2万の湖沼がソ連軍の足元を絡め取り、牛歩の如き進軍しか出来なかった。ソ連兵の多くはキルギスやウズベクなどの温暖な地方出身で、雪など一度も見た事が無い者が大半を占めていた。彼らは寒さ対策の術を知らず、そして厳寒に弱かった。迎撃するフィンランド軍は正面衝突ではなく巧みなゲリラ戦を展開、ソ連軍の休憩所となりそうな建物は焼き払い、ソ連軍が鹵獲しそうな物には爆弾が仕掛け、地の利を最大限に活かして狙撃兵やスキー部隊を配置。通り魔的な攻撃でソ連兵を疲弊させていく。かの有名なシモ・ヘイヘはこの時に大戦果を挙げて一躍有名となった。ラドガ戦線における北極の港ペツァモを巡る戦闘ではフィンランド軍はゲリラ攻撃を仕掛け、一時はソ連の大部隊を孤立させるに至った。包囲殲滅を恐れたソ連軍は部隊を小分けにして対処するもフィンランド軍から全方位攻撃を受けて少なくない損害を出す。
12月上旬は妙に気温が高く、薄い氷しか張らなかったので湖上を通る事も出来なかったが、12月下旬になると記録的な寒波が襲来。ソ連兵の凍死者が続出し、スオッムサルミの戦いでは数千人が凍傷で死亡。一部のソ連軍部隊はフィンランド国境を超える前に凍傷で10%の死傷者を出した記録が残っている。加えて戦車のオイルも凍結するなど更に進撃が遅れ始める。一方、ソ連航空部隊はフィンランド上空から敵陣を偵察していたのだが、フィンランド軍は現地で得た木材や丸太を使って半地下陣地を作っていたため上空からは見えないようになっていて、事前に配置を知る事が出来なかった。12月12日にはトルヴァヤルヴィの戦いでソ連軍第139ライフル師団が遥かに小規模なフィンランド軍に敗北している。12月18日、ソ連海軍の戦艦オクチャブルスカヤ・レヴォルチャと駆逐艦5隻が出現、コイビスト島ザーレンペー砲台を砲撃してきた。翌19日には戦艦マラート率いるグループが同砲台を攻撃。
フィンランド軍は撤退したソ連軍から兵器や物資を奪いつつ継戦。幸い主力武器モシン・ナガン小銃の弾薬はソ連軍の規格と同一のものだったので弾薬不足が少し緩和された。焚き火の周りに集まるソ連兵を森林の死角から一斉射撃して薙ぎ倒す。雪上迷彩を纏ったスキー部隊は高いステルス性を発揮しており、その接近を事前に察知するのは困難だったのだ。かろうじて生き残ったソ連兵が撃ち返そうとするが銃のオイルが凍結していて有効に反撃できなかったという。テストも兼ねてソ連軍はT-28やT-35、T-100など多種多様な戦車を投入してきたが、これらの戦車はオリーブドラブ(濃い緑色)をしていて雪景色では却って目立ってしまい、フィンランド兵から手榴弾や火炎瓶を投げつけられて次々に撃破される。自慢の戦車が肉薄攻撃に弱い事を察知したソ連軍は歩兵に側面を守らせたが、今度は狙撃兵の餌食になった。残された戦車はフィンランド軍が鹵獲。のちの継続戦争で使用される事になる。マンネルヘイム線に苦戦してかソ連側のプロパガンダ放送は同防衛ラインを「マジノ線と同等かそれ以上」と表現している(実際は丸太で覆われた従来の塹壕のみで、鉄筋コンクリートを使った近代的な塹壕は一つも無かった)。
フィンランド軍はソ連兵の士気が低い事を見抜いており、「捕虜は厚遇する」という旨の宣伝ビラを撒いた。最前線ではマイクで投降を呼びかける事もしていたという。そしてその言葉の通り捕虜を厚遇し、暖房や外套を支給、治療や食料配給も受けられるなどジュネーヴ条約に則った扱いをした。
フィンランド軍は「モッティ」と呼ばれる戦法を好んだ。これは長蛇の列をなすソ連軍部隊の最前列と最後尾を撃破し、動けなくなった中央の敵部隊を包囲するというものだった。補給を断たれた敵の中央を始末するのはフィンランド兵ではなく-40℃の極寒であった。この戦法が最も輝いたのはソ連軍の第163、第44機械化狙撃師団を攻囲した時だった。いつまで経っても占領できない事に苛立ちを見せたスターリンは撤退を認めない命令を下す。これが余計にソ連軍の損害を拡大させた。フィンランド軍に道を封鎖され、身動きが取れない部隊や軍馬が8kmに渡って凍死したのである。一方で包囲下においても数週間から数ヶ月間持ちこたえたソ連軍部隊もあり、その場合フィンランド軍の戦力も長期間拘束される事となった。
1940年
フィンランド軍の猛反撃により1940年初頭にラドガ湖北方のソ連軍が壊滅。主戦場はカレリア地方へと移った。1939年中に決着がつかなかった事実はスターリンを怒らせ、ソ連のプロパガンダ放送は勇壮な戦果を発表するよりも、国民に対して侵攻作戦の遅延を弁明する事が増えた。そして兵力を10個師団から倍以上の25~26個師団に増強、6~7個旅団の戦車を増援に送り込んで総兵力は60万に達する。
一方、窮地のフィンランドを救うべく国際連盟加盟国から送られた補給物資が続々と北欧に届いていたが、ソ連との関係悪化を懸念したスウェーデンとノルウェーが中立化した事で肝心の物資が届かなくなる事態に陥っていた(何だかんだでスウェーデンは義勇軍を送っているが)。それでもフィンランド北端のムルマンスクには船が到着し、物資が陸揚げされた…のだが供与された武器は大半が旧式で、戦況を好転させるには至らなかった。このためフィンランド軍は鹵獲した兵器を中心に反撃を続けた。そんなフィンランドに救いの手を差し伸べたのはナチスドイツであった。これがきっかけでフィンランドはドイツに接近していく事になる。
1月12日、フィンランド海軍の奮闘で本国南西とフィンランド湾東方、エストニア沿岸への機雷敷設が完了。2月1日、増援を得たソ連軍は24時間の準備砲撃でフィンランド軍陣地に砲弾30万発を撃ち込んだのち、大規模反攻作戦を開始。フィンランド兵は要塞内への退避を強いられた。ソ連軍の戦術は次第に洗練されつつあり、戦車側面の守りも強固になって容易に火炎瓶を投げられなくなったが、それでも数の暴力に任せた大損害前提の突撃を繰り返し、両軍とも被害が拡大していく。2月2日、ミッケリの南20kmでソ連軍を包囲。ソ連軍は25輌のBT-5快速戦車と機関銃部隊を擁していたため激しく抵抗してきたが、フィンランド軍も三夜に渡る夜襲で猛攻を加え、三日目の夜襲でソ連軍を二分する事に成功。BT-5戦車を多数破壊して遂に勝利を収めた。陣地には遺棄死体200体が残されており、140名の捕虜を得る。しかし2月11日にとうとう西カレリア地方の玄関口をソ連軍が突破。すぐさま46万の兵士、3350門の大砲、3000輌の戦車を配備し、2月6日、ソ連軍はマンネンヘイム線へ二度目の総攻撃を開始。今度は空地一体の連携攻撃を実施した事で約15万の兵力しかないフィンランド軍は各戦線で壊走、あるいは敵の突破を許し、2月15日にマンネルヘイム総司令官は全軍の後退を許可。2番目の防衛線まで後退するがソ連軍の猛攻は続き、2月27日に中間防衛線が陥落、フィンランド軍は最終防衛戦まで後退しなければならなくなった。
マンネルヘイム元帥は「戦えるうちに講和すべき」と主張して和平交渉の準備に入る。これまでにもフィンランド政府はソ連に対して和平交渉の申し入れを行っていたものの、ソ連は断固として受け入れてこなかった。だがフィンランドの共産主義者ヘラ・ウーリヨキを連絡役にした事でスウェーデン駐在ソ連大使アレクサンドラ・コロンタイとの接触に成功、モスクワのモロトフ外相から「フィンランド国内に打ち立てたソ連の傀儡政権を解散させ、リュティ大統領の現政府を認めた上で和平交渉に応じる」という怖くなるほど素晴らしい答えを引き出した。というのも予想以上に粘り強く戦うフィンランドに国際世論は味方しソ連は国際連盟から追放。またソ連の諜報機関は英仏の介入が近い事を知らせており、このまま戦い続ければ英仏を相手に戦争する羽目になるため、政治的判断から和平交渉に応じた訳である。実際イギリスとフランスはフィンランドに援軍を送り込もうと考えていた。表向きはフィンランド軍への応援だったが、真の目的は派兵に便乗してノルウェーとスウェーデンにも軍を送り込み、敵国ドイツへの鉄鉱石輸入路を断つ事とフィンランド支援はあくまで名目的に過ぎなかったが、ソ連の継戦を断念させる判断材料となり得た。また春を迎えれば雪解けが始まってフィンランド国内のソ連軍部隊が孤立させられるという軍事的理由もあった。
戦後処理
開戦から約4ヶ月もの間を戦い抜き、ついに全土の占領を許さなかったフィンランド軍。しかし最早フィンランドに継戦能力は無かった。
和平交渉の結果、1940年3月6日に停戦協定が締結。3月12日、リュティ大統領はソ連の領土要求を受け入れてモスクワで調印式に臨み、翌日正午に発効した事で冬戦争は終結。ソ連側の戦死者は12万人以上、フィンランド軍側の死者は2万6000人に及んだ。かろうじて全土併合は避けられたがその代償にフィンランドは厳しい講和条件を突きつけられ、カレリア地方とフィンランド湾東部諸島の割譲、ハンコ岬の30年間貸与を言い渡されて国土の1割を取り上げられる。カレリアに住んでいた42万の住民は転居を余儀なくされた。加えてハンコ岬にはソ連軍用の鉄道を通す事を強いられている。ただソ連軍に占領されていたペツァモ地方は条約に従って返還された。3月29日、ヴャチェスラフ・モトロフ外務人民委員は「ソビエト政府は、レニングラードの安全を守るうえで絶対に必要かつ緊急と考えた提案を、フィンランド政府と討議した。しかしフィンランド政府の非友好的な態度によって結実せず、戦場で決する事になった。もしフィンランド政府が外国の影響を受けず、ソ連と敵対しなければ昨秋には条約が成立し、戦争をせずとも解決したはずである」と責任をフィンランドに押しつける発言を述べた。
4月20日、フィンランド・ソ連間で捕虜の交換が行われた。場所は国境に近いヴァイニッカラ鉄道駅で、解放されたフィンランド兵には市民が用意した温かな食事が待っていた。一方、ソビエト兵は険しい表情を浮かべながら自国へと戻っていった。ソ連では捕虜になる事は不名誉の極みだったからだ。実際、スターリンは「敗北主義者」「抗戦意思の弱い卑怯者」と決め付け、彼らをシベリア送りにしている。その様子はまるで勝者と敗者が逆転したかのようだった。
酷い目に遭ったフィンランドはソ連に対して復讐戦争を計画。こっそり軍備を増強し始める。ドイツが西ヨーロッパの支配者になりソ連と対峙する様子を見せると、フィンランドは思い切ってドイツに接近し、ソ連に牽制をかける。軍備増強を繰り返した事により10個師団以上の兵力を獲得、国民義勇軍として子供や女性をも徴兵して総兵力は50万に達した。フィンランド軍では女性も重要な役割を担った。天候が変化しやすい極北の空に対応すべく、地上から女性航空監視員が逐一気候、気温、降雨量などを報告して空軍機の出撃判断を大いに助けていた。自動車の燃料不足を事前に想定し、自転車・馬・トナカイによる輸送部隊を編成。スキーヤーを集めたスキー部隊も編成されている。そして不当に奪われたカレリア地方を奪還すべくフィンランドの戦いは「継続戦争」へと続いていくのだった。
ちなみに小国フィンランド相手に苦戦するソ連軍を見て、内部の腐敗が深刻だと判断したドイツはソ連侵攻に踏み切ったとされている。日本では未曾有の国難を団結して乗り切ったフィンランドに好感を寄せていたという。フィンランドとソ連が和平を結んだため英仏連合軍は上陸先をノルウェーに変更。1940年4月に準備を整えたが、開始直前になってドイツ軍に先んじられている(ヴェーゼル演習作戦)。
支那事変勃発で東京が辞退した事もあり、1940年のオリンピックはフィンランドの首都ヘルシンキで行われるはずだった。しかし冬戦争と第二次世界大戦の影響で1940年春頃に開催を断念。1952年までお預けを喰らう事になった。
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