冬戦争とは、1939年11月30日から1940年3月13日にかけて行われた、フィンランド対ソ連の戦争である。寡兵ながらフィンランド軍が善戦した事から「雪中の奇跡」と呼ばれている。ソ連側の名称はフィンランド戦役。
経緯
時に1939年。ドイツ軍によるポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発していたが、当時はまだ不活発で「まやかし戦争」と呼ばれるほどのんびりとしたものだった。そんな中、北欧では大変な事が起きていた。バルト三国と東ポーランドを併合し、勢いに乗っていたソ連は自国から独立したばかりのフィンランドに目を向ける。フィンランド屈指の工業地帯であるカレリア地方を獲得しようと、10月11日にモトロフ外相はフィンランド交渉団をモスクワに招いた。しかしソ連の要求は理不尽なものだった。
- ソ連との同盟締結
- ソ連第二の都市レニングラードの安全保障のため、東カレリア地方と北部コラ半島を交換
- レニングラードへの湖上通路になるハンコ半島にソ連軍の基地を設営
- カレリア地方のソ連国境線を30km前進
2の交換は明らかに不平等で、重要なカレリア地方を手放す代わりに得られる土地とは原生林が広がる無何有の未開拓地だった。3は自国の領土内にソ連軍が駐留する事を意味し、要求を呑めばソ連に逆らえないよう喉元にナイフを突きつけられる格好になる。こんな不等極まりない要求を受けたフィンランドであったが、涙を飲んで「国境線10kmの前進」と「フィンランド湾の島々の譲渡」は認めた。しかしハンコ半島の貸与は認めなかったため、ソ連が激怒して交渉決裂。両国の間に修復不能な亀裂が走ったのだった。
10月には双方ともに動員を開始。フィンランド政府はソ連の侵略に備えるため、緊急事態を意味する共和国防衛法を発布した。ソ連はフィンランド全土を力ずくで占領しようと、大部隊を準備。そしてフィンランドから砲撃を受けたとでっち上げ、1939年11月30日に領内へ侵攻した。これが冬戦争の始まりである。
人口約1億7000万のソ連vs350万のフィンランドという、誰が見てもフィンランド不利の戦況。周辺諸国は一週間で勝負が決するだろうと小国の運命を哀れんだ。
雪中の奇跡
フィンランド軍は戦争に備え、あらかじめ歩兵を19万人に増員。装備や兵器も揃えていたが、その大半が第一次世界大戦のものと旧式化が著しかった。内訳は対戦車砲120門、ヴィッカース戦車約20輌、機関銃4500丁、航空機160機。このうち一線級と呼べるのは36機のフォッカーD21のみであった。海軍の総戦力は海防戦艦2隻、潜水艦5隻、魚雷艇6隻、砲艦4隻、機雷敷設艦1隻、機雷敷設艇5隻、掃海艇14隻と心細かった。そこで沿岸警備隊の哨戒艇14隻や砕氷船、大統領用のヨットまで徴用し、軍籍に投じている。しかし弾薬は20日分、航空燃料は30日分、銃器用潤滑油は60日分しかなかった。
対するソ連軍は30個師団45万人を動員。装備や兵器の数はフィンランド軍を大きく上回り、そして新式だった。内訳は砲1900門、戦車2400門、航空機670機。絶望的な戦力差であった。このためソ連軍内では楽勝ムードが漂い、3日で決着が着くと考えていた。ゆえに外套すら支給しなかったとか。しかし愛国心を滾らせて士気を上げるフィンランド兵に対し、小国に侵略行為を行う形となったソ連兵の士気は極端に低かった。
1939年11月30日午前9時25分、レニングラードから飛来したソ連軍機が首都ヘルシンキに侵入して宣伝ビラを撒く。そして14時30分からヘルシンキやタンペレへの爆撃が始まった。都市爆撃は無差別テロと見なされ大儀を失う事から、欧州ではタブーとされていたのだが、いきなりソ連軍はそれをやったのである。同日20時、国防委員会議長のマンネルヘイム元帥がフィンランド軍の総司令官に任命された。フィンランド海軍はフィンランド湾に機雷を敷設し、ソ連軍の海上での行動を阻害した。戦場となりうる地域から住民を避難させるため、フィンランド政府は自動車、列車、船舶を手配。子供を優先して疎開させた。
戦局は圧倒的にソ連軍有利であったが、フィンランド特有の気候と地形はソ連軍を頑強に拒んだ。深い森と湖が多い領土内はあまり道路が整備されておらず、戦車の進軍を遅延させた。加えて大小2万の湖沼がソ連軍の足元を絡め取り、牛歩の如き進軍しか出来なかった。ソ連兵の多くはキルギスやウズベクなどの温暖な地方出身で、雪など一度も見た事が無い者が大半を占めた。彼らは寒さ対策の術を知らず、そして厳寒に弱かった。迎撃するフィンランド軍は正面衝突ではなく巧みなゲリラ戦を展開。ソ連軍の休憩所となりそうな建物は焼き払い、通り魔的な攻撃でソ連兵を疲弊させた。また司令官のカール・グスタス・マンネルヘイム元帥の名から取られた「マンネルヘイム線」と呼ばれる防衛ラインを展開し、ソ連軍が鹵獲しそうな物には爆弾が仕掛けられた。フィンランド軍は地の利を最大限に活かし、狙撃兵やスキー部隊を配置。かの有名なシモ・ヘイヘはこの時に大戦果を挙げて一躍有名となった。撤退したソ連軍から兵器や物資を奪いつつ、継戦。焚き火の周りに集まるソ連兵を、森林の死角から一斉射撃して薙ぎ倒す。生き残ったソ連兵が撃ち返そうとするが、銃のオイルが凍結していて有効に反撃できなかったという。テストも兼ねてソ連軍はT-28やT-35、T-100など多種多様な戦車を投入してきたが、フィンランド軍は手榴弾や火炎瓶を投げてこれらを撃破した。自慢の戦車が肉薄攻撃に弱い事を察知したソ連軍は歩兵に側面を守らせたが、狙撃兵の餌食になった。残された戦車はフィンランド軍に鹵獲され、のちの継続戦争で使用される事になる。
フィンランド軍はソ連兵の士気が低い事を見抜いており、「捕虜は厚遇する」という旨の宣伝ビラを撒いた。最前線ではマイクで投降を呼びかける事もしていた。そしてその言葉の通り捕虜を厚遇し、暖房や外套を支給。治療や食料配給も受けられるなど、ジュネーヴ条約に則った扱いをした。
12月1日、空襲に来たツポレフSB-2双発爆撃機の1機が被弾してヴィボルグ北方20kmのイマトラに不時着。機体はフィンランド軍に鹵獲され、修理後に自軍へ編入した。12月6日、ソ連軍はマンネルヘイム線に総攻撃を仕掛けたが、連携が取れておらず各個撃破を許した事で大損害が生じた。また12月上旬は妙に気温が高く、薄い氷しか張らなかったので湖上を通る事も出来なかった。しかし12月下旬になると記録的な寒波が襲い、ソ連兵の凍死者が続出。戦車のオイルが凍結するなど、より進撃に遅れが生じ始める。一方、ソ連航空部隊はフィンランド上空から敵陣を偵察していたのだが、フィンランド軍は現地で得た木材や丸太を使って半地下陣地を作っていたため上空からは見えないようになっていた。12月18日、ソ連海軍の戦艦オクチャブルスカヤ・レヴォルチャと駆逐艦5隻が出現。コイビスト島ザーレンペー砲台を砲撃してきた。翌19日には戦艦マラート率いるグループが同砲台を攻撃している。
フィンランド軍は「モッティ」と呼ばれる戦法を好んだ。これは長蛇の列をなすソ連軍部隊の最前列と最後尾を撃破し、動けなくなった中央の敵部隊を包囲するというものだった。補給を断たれた敵の中央を始末するのはフィンランド兵ではなく、-40℃の極寒であった。この戦法が最も輝いたのはソ連軍の第163、第44機械化狙撃師団を攻囲した時だった。いつまで経っても占領できない事に苛立ちを見せたスターリンは、撤退を認めない命令を下す。これが余計にソ連軍の損害を拡大させた。フィンランド軍に道を封鎖され、身動きが取れない部隊や軍馬が8kmに渡って凍死したのである。
フィンランド軍の猛反撃により、1940年初頭にラドガ湖北方のソ連軍が壊滅。主戦場はカレリア地方に移った。1月12日、フィンランド海軍の奮闘で本国南西とフィンランド湾東方、エストニア沿岸への機雷敷設が完了。2月2日、ミッケリの南20kmでソ連軍を包囲。ソ連軍は25輌のBT-5快速戦車と機関銃部隊を擁していたため激しく抵抗してきたが、フィンランド軍も三夜に渡る夜襲で猛攻。三日目の夜襲でソ連軍を二分する事に成功し、BT-5戦車を多数破壊して遂に勝利。陣地には遺棄死体200体が残されており、140名の捕虜を得た。
予想以上に粘り強く戦うフィンランドに国際世論は味方し、ソ連は国際連盟から追放された。補給物資も続々と寄せられたが、ソ連との関係悪化を懸念したノルウェーとスウェーデンが中立化したため、肝心の物資が届かない事態に陥る(一応、スウェーデンは義勇兵を送っている)。それでもフィンランド北端のムルマンスクに続々と船が到着し、物資が陸揚げされた…のだが供与された武器は大半が旧式で、戦況を好転させるには至らなかった。このためフィンランド軍は鹵獲した兵器を中心に反撃を続けた。困窮したフィンランドに救いの手を差し伸べたのは、ナチスドイツであった。これがきっかけでフィンランドはドイツに接近していく事になる。
2月6日、ソ連軍はマンネンヘイム線へ二度目の総攻撃を開始。今度は空地一体の連携攻撃を実施し、数に劣るフィンランド軍を撃破。2月14日に二番目の防衛線に後退させられた。ソ連軍の猛攻は続き、27日に中間防衛線が失陥。フィンランド軍は最終防衛ラインへ後退せざるを得なくなった。マンネルヘイム元帥は「戦えるうちに講和すべき」と主張し、和平交渉の準備に入った。
戦後処理
約4ヶ月間戦い、全土の占領を許さなかったフィンランド軍。しかし最早フィンランドに継戦能力は無く、膝を折らざるを得なかった。同時期、イギリスとフランスはフィンランドに援軍を送り込もうと考えていた。表向きはフィンランド軍の応援だったが、真の目的は便乗してノルウェーとスウェーデンにも軍を送り込み、敵国ドイツへの鉄鉱石輸入路を断つ事だった。ともあれ英仏の介入はソ連軍に戦闘の継続を断念させ、和平交渉の席に座った。
和平交渉の結果、1940年3月6日に停戦協定が締結。3月12日、リュティ大統領はソ連の領土要求を受け入れて戦闘は終結した。ソ連軍の戦死者は12万名以上に上り、ありえない大損害をこうむった。対するフィンランド軍も2万6000名の犠牲を出した。同月13日にソ連とモスクワ講和条約を結び、冬戦争は終結した。かろうじて併合は避けられたが、非常に厳しい講和条件を突きつけられる形となった。カレリア地方とフィンランド湾東部諸島の割譲、ハンコ岬の30年間貸与を言い渡され、国土の1割を取り上げられる。カレリアに住んでいた42万の住民は転居を余儀なくされ、加えてハンコ岬にソ連軍の鉄道を通す事を強いられた。3月29日、ヴャチェスラフ・モトロフ外務人民委員は「ソビエト政府は、レニングラードの安全を守るうえで絶対に必要かつ緊急と考えた提案を、フィンランド政府と討議した。しかしフィンランド政府の非友好的な態度によって結実せず、戦場で決する事になった。もしフィンランド政府が外国の影響を受けず、ソ連と敵対しなければ昨秋には条約が成立し、戦争をせずとも解決したはずである」と責任をフィンランドに押しつける発言を述べた。
4月20日、フィンランド・ソ連間で捕虜の交換が行われた。場所は国境に近いヴァイニッカラ鉄道駅で、解放されたフィンランド兵には、市民が用意した温かな食事が待っていた。一方、ソビエト兵は険しい表情を浮かべながら自国へと戻っていった。ソ連では捕虜になる事は不名誉の極みだったからだ。実際、スターリンは「敗北主義者」「抗戦意思の弱い卑怯者」と決め付け、シベリア送りにしている。
酷い目に遭ったフィンランドは、ソ連に対して復讐戦争を計画。こっそり軍備を増強し始める。ドイツが西ヨーロッパの支配者になりソ連と対峙する様子を見せると、フィンランドは思い切ってドイツに接近。ソ連に牽制をかける。軍備増強の結果、10個師団以上の兵力を獲得。国民義勇軍として子供や女性をも徴兵し、総兵力50万に達した。フィンランド軍では女性も重要な役割を担った。天候が変化しやすい極北の空に対応すべく、地上から女性航空監視員が逐一気候、気温、降雨量などを報告。空軍機の出撃判断を大いに助けた。自動車の燃料不足を事前に想定し、自転車・馬・トナカイによる輸送部隊を編成。スキーヤーを集めたスキー部隊も編成されている。そして不当に奪われたカレリア地方を奪還すべく、フィンランドの戦いは「継続戦争」へと続いていくのだった。
ちなみに小国フィンランド相手に苦戦するソ連軍を見て、内部の腐敗が深刻だと判断したドイツはソ連侵攻に踏み切ったとされている。日本では、未曾有の国難を団結して乗り切ったフィンランドに好感を寄せていたという。フィンランドとソ連が和平を結んだため、英仏連合軍は上陸先をノルウェーに変更。1940年4月に準備を整えたが、開始直前になってドイツ軍に先んじられている(ヴェーゼル演習作戦)。
支那事変勃発で東京が辞退した事もあり、1940年のオリンピックはフィンランドの首都ヘルシンキで行われるはずだった。しかし冬戦争と第二次世界大戦の影響で1940年春頃に開催を断念。1952年までお預けを喰らう事になった。
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