シモ・ヘイヘ(Simo Häyhä、1905年12月17日~2002年4月1日)とは、フィンランドの軍人・狙撃手である。
ちなみにフィンランド語での名前の発音では、 ä は英語のアクセントのある短い a (apple の a など)や独語の ä (/æ/) 、 y は仏語の単音の u や独語の y/ü (/y/) にそれぞれ近い音であり、実際には「スィモ・ヘユヘ」と「スィモ・ハユハ」の中間くらいの響きになる。このため、しばしば「シモ・ハユハ」等と転写されることもある。参考 → Forvo.com
実際に駐日フィンランド大使館はその公式X(旧Twitter)アカウントにおいて「ハユハと読みます」とツイートしたことがある(「ヘイへ」は英語話者による発音ではないかとの見解も添えている)。
ただし同アカウントでは、「シモ・ヘイヘ」「ヘイへ(ハウハ)」等の表記でツイートされた例もあるため、表記はなにが正しいと厳密に規定されているものでもないようである。
概要
フィンランドとソ連との間で起こった冬戦争(1939~40年)において、主にコッラー河付近での防衛任務にて狙撃手として活躍し、ソビエト赤軍にとって大きな脅威となったことで知られる。
所属はフィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊、通称カワウ中隊。階級は予備役兵長で、中隊長は「モロッコの恐怖」ことアールネ・エドヴァルド・ユーティライネン予備役中尉。
このユーティライネン中尉がシモ・ヘイヘの腕を見込んで狙撃手としての活動を認めたことが、ソ連兵にとっての不幸の始まりだった。ちなみに、この中隊長殿も「ピクニックに出かけるようにはしゃぎながら」敵戦車5両を撃破するような人外である。
冬戦争終戦直前の1940年3月6日にソ連軍兵士による対抗狙撃を受け、左下顎部が吹き飛び意識を失う程の重傷を負う。辛くも一命を取り留めるが、一週間後に意識を取り戻したときには冬戦争は終結していた。終戦後はその功績を讃えて勲章と少尉への5階級特進が授与されたが、これ以降戦場に出ることはなく、2002年に96歳でこの世を去るまでヘラジカ狩り猟師と猟犬ブリーダーとして生きた。
以下に述べるのは冬戦争にて残された「シモ・ヘイヘ伝説」の一端である。
- シモ・ヘイへがいるという林の中に足を踏み入れた一時間後に小隊が全滅した。
- 戦車で合流すれば安全だろうと駆け寄ったら、戦車長をシモ・ヘイへが狙撃済みだった。
- わずか三十二人のフィンランド兵なら大丈夫だろうと四千人のソ連兵を突撃させたら撃退された。
- コッラー河付近はシモ・ヘイへに殺される確率が150%。一度狙撃されて死傷する確率が100%なのと、あまりの寒さに凍死する確率が50%の意味。
人物像
非常に寡黙であったと言われる。戦果を語ることは無く、掩蔽壕に上官が入ってきて誰何しても「シモです」もしくは「ヘイヘ兵長です」くらいしか答えなかった。彼の功績が世間に知られたのは、上官のユーティライネン中尉が従軍記者に対してヘイヘ兵長の活躍を教えた事が発端だとされる。
戦後、フィンランドがソ連の勢力圏内に取り込まれ、戦争について語ることがタブーになった際、彼は沈黙を守り続けた。ただ、フィンランド人の魂の故郷であるカレリアをソ連から取り戻したいという思いは終生抱き続けており、遺族には「もしフィンランドがカレリアを取り戻したら、戦後に国から貰った土地は返上し、我が一族が使っていた土地を手に入れること」という内容の遺書を残している。
異名
白いギリースーツに身を包み、上記の活躍をするヘイへをソ連兵は「白い死神」(Белая смерть Byélaya smyert')または「災いなす者」と呼び恐れたと伝えられる。
使用銃について
シモ・ヘイヘが使用していた狙撃銃はモシン・ナガンをベースにフィンランドで改良が施されたボルトアクション式小銃M/28、通称スピッツである。この銃には3.5倍~4倍の倍率をもつスコープを装着可能だったが、ヘイヘはこれを使用せずアイアンサイト(照星と照門)で狙撃を行った。スコープのレンズが光を反射して敵に気取られる危険性を避けたのと、元々、猟師であるシモ・ヘイヘにはスコープ無しでの射撃姿勢[1]が一番馴染んだ方法であったことが、その理由であると考えられる。
またこの銃は120㎝と長いのに対しヘイヘは152cmと1hydeより4cmも身長が低いにも関わらず自由自在に操ったという(もちろんこの体の小ささは戦場で身を隠しやすいという狙撃手にとっての大きな利点となる)。更にボルトアクション式のこの銃で狙撃訓練課程時に「150mの距離から一分間に16発の射的に成功」と言う逸話も残している。300mの距離の中は100%ヘッドショットする事ができたという。
現在、シモ・ヘイヘが使った銃のうち一丁がカレリア猟兵大隊の史料室に保管されている。
ヘイへが活躍した冬戦争は1939年~1940年と短い期間だったにもかかわらずその殺害数は505名とも524名とも言われ共に世界最高記録である。
更にヘイへはサブマシンガンの扱いにも優れており、殺戮の丘における戦闘ではスオミ KP/-31を使用し、記録では200名以上、非公式なモノも含めれば狙撃で殺害した505名よりも多くの兵士を殺害したと言われている。
これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間で残されており、1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも25名のソ連兵を殺害、クリスマスの夜には通算殺害数が138名になったとさ。五月蝿い赤軍には銃弾をプレゼントしたんですね。わかります。
これらの記録に対し自身は「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」と述べたそうです。
シモ・ヘイヘに対しアンサイクロペディアはルーデル閣下に次いでお手上げなようです。
蛇足~もう一人の死神~
フィンランドにはヘイヘのほかにもう一人死神がおりその名を「スロ・コルッカ」という。
この二人が何故にここまでの死神になれたのか??
その理由は「ケワタガモ」を狩猟していたからである。
関連動画
関連項目
外部リンク
脚注
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