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チャーリー・マニエル(Charles Manuel、1944年1月4日-)とは、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手である。
日本ではヤクルトスワローズ、近鉄バファローズの2球団で両チームの初優勝に大きく貢献する活躍を見せ、メジャーでもフィラデルフィア・フィリーズにて監督を務め、チームをワールドチャンピオンに導いた。
概要
OB | |
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チャーリー・マニエル Charles Manuel |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ウェスタバージニア州 |
生年月日 | 1944年1月4日 |
身長 体重 |
193cm 88.5kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1963年 |
引退 | 1981年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校時代は主にアメリカンフットボール等の選手として活躍していたが、高校卒業直前に父親が自殺したため、家族を養うために進学を断念してミネソタ・ツインズに入団する。
1969年にメジャー初昇格を果たすも定着は叶わず、74年からはロサンゼルス・ドジャースに所属するもなかなか出場機会を得られないでいた。
転機となったのは1976年、日本球界に1973年、ヤクルトスワローズに入団したジョー・ペピトーンが様々な問題行動を起こし、このペピトーンの行動によって日本のプロ野球界関係者、そして野球ファン全体に、「メジャーリーガーを排除するべき」という空気が生まれる。
このため多くのメジャーリーグ関係者が日米プロ野球間の関係悪化を懸念。メジャーリーガーの信用を回復させるために、まじめで、尚且つ活躍が期待できる選手をヤクルトに派遣することを決定し、かくして、マニエルはこの派遣選手に選ばれたことによってヤクルトスワローズへの入団が決まる。
ヤクルト1年目の1976年は打率.243、11本塁打32打点と期待に応えたとは言い難い成績だったが、日本球界に慣れた1977年は打率.316、42本塁打97打点と大活躍を見せチームの2位進出に貢献。
そして1978年は若松勉、大杉勝男と共に強力クリーンアップを形成してチームを引っ張って、打率.312、39本塁打103打点という成績でヤクルトの初優勝に貢献。ヤクルトはこの年初の日本一も達成した。
ただ打撃タイトルにはいずれも届かず、MVPには若松勉が選ばれている。
以上のようにヤクルトではチームの躍進に大きく貢献したが、監督の広岡達郎には「守れない、走れない選手はいらない」と評価されていなかった。マニエルはシーズン中に指名打者制のあるパ・リーグへのトレードを志願しており、シーズン終了後に「希望叶って」近鉄バファローズへのトレードが成立した(マニエル・永尾泰憲←→神部年男・佐藤竹秀・寺田吉孝)。
近鉄バファローズではヤクルトと違い、近鉄監督の西本幸雄に高い評価を受け、そんな西本とマニエルはカタコトながら会話するほどの関係を築いている。
1979年、パ・リーグ球団の近鉄ではDHの存在により守備のことを考えず打撃に専念できたためマニエルは開幕から長打を量産し、5月には月間15本塁打を達成。だが6月9日のロッテ戦、5回裏に相手投手の八木沢壮六のストレートが顎に直撃する不運に見舞われ、戦線を離脱する。
この時点でマニエルは51試合で打率.371、24本塁打60打点と絶好調の打撃でチームを引っ張っていたため、近鉄には大きな痛手となった。
実際、マニエル離脱前までは近鉄は34勝13敗4分と圧倒的な強さを見せていたが、離脱後は12勝14敗3分と急失速してしまい、近鉄の優勝も難しくなったと思われた。
しかし当初は後期も絶望と言われたマニエルはわずか2か月後の8月4日、特注のフェースガード付きのヘルメットを着けて復帰すると、その試合でいきなり逆転の口火となる2点タイムリーを放ち、再び近鉄は息を吹き返してリーグ初優勝を達成する。
結局1979年は97試合の出場に終わったが、打率.324、37本塁打94打点という成績で本塁打王とMVPを獲得した
1980年は前年打率.200と苦手としていた対左投手を打率.300にまで引き上げて完全に克服。
前年以上のペースで打ちまくり、打率.325,48本塁打129打点という自己最高の成績で本塁打王と打点王を獲得し、近鉄の2連覇に貢献した。
だがオフには複数年契約を求めるマニエル側と単年契約を提示する近鉄側で交渉が折り合わず、結局マニエルは近鉄を退団し、81年は再びヤクルトスワローズに復帰する。
当時ヤクルトで通訳を務めていた中島国章氏は、近鉄の通訳から「マニエルは愛人がいることがバレ、奥さんと相当揉めている」という情報を掴み、当時の武上四郎監督に獲得を思いとどまるように説得したという。しかし、武上はこれを聞き入れず、獲得に踏み切ってしまった。結局、本塁打12、打点36と前年の4分の1ほどの数字しか残せず、契約を1年残しながらも離婚問題を理由に1年で解雇された。
引退後
引退後はクリーブランド・インディアンスにて打撃コーチを務め、自身の経験から日本流の指導を取り入れて結果を出し、2000年には監督に昇格。すると翌2001年にはアメリカンリーグ中地区優勝を達成したが、2002年はシーズン途中で解任された。
2005年からはフィラデルフィア・フィリーズの監督に就任し、2008年には、リーグチャンピオンシップシリーズでロサンゼルス・ドジャースを破ってリーグ優勝を達成・そしてワールドシリーズでは4勝1敗で当時岩村明憲が所属していたタンパベイ・レイズを破り、見事チームをワールドチャンピオンへと導いた。
翌2009年もワールドシリーズに進出するが、先発のペドロ・マルティネスが絶好調の松井秀喜に打ち砕かれる等の誤算もあり、ニューヨーク・ヤンキースの前に2勝4敗で敗れ、2年連続のワールドシリーズ制覇は成らなかった。
その後もフィリーズを率い、2010年・2011年は2年連続で東地区優勝を達成したが、ワールドシリーズまでは進めず、2013年8月16日、チームが低迷していたこともあってかフィリーズより監督解任が発表された
人物・プレースタイル
日本では「赤鬼」の通称で知られ、フィリーズでは監督時代、選手たちから「レッド・デビル」と呼ばれていた。
広岡達郎、西本幸雄の二人に対してはそれぞれ「ヒロオカはあえて選手を怒らせる。いまではヒロオカのやり方も少しは理解できるよ。性格は合わないけどね」、「西本監督が選手に敬意を払って接する姿に心打たれた。父のように尊敬していた」と話している。
打撃では右に引っ張る打撃で本塁打を量産したが、反面左に流す器用さも持ち合わせており、西本幸雄は「見惚れた、体が柔らかく、単なる馬力じゃない巧さがあった」と語っている。
反面足は遅く、守備面も常に不安を抱えた状態だったため、広岡達郎からは酷評され「守備を真剣にしなければ使わない」とまで宣告されたこともある。
成績
通算打撃成績
通算:12年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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MLB:6年 | 242 | 432 | 384 | 25 | 76 | 12 | 0 | 4 | 43 | 1 | 0 | 6 | 40 | 2 | 77 | 7 | .198 | .273 |
NPB:6年 | 621 | 2440 | 2127 | 368 | 644 | 69 | 2 | 189 | 491 | 6 | 1 | 18 | 273 | 21 | 364 | 55 | .303 | .385 |
通算監督成績
通算:12年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | |
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MLB | 1827 | 1000 | 827 | .547 | Aクラス10回、Bクラス2回 |
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関連項目
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