四条貞子単語

シジョウサダコ
1.0千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

四条貞子とは、鎌倉時代貴族女性である。

スリップ事故で崩御した四条天皇を勤めた。

年:建久7年(1196年) - 正安4年10月1日1302年10月22日

(1196-1302)

( д)

(つд⊂)ゴシゴシ

(;д)

数字の打ち間違いではない。

日本の歴史で(信憑性のない話ではなく)、100年以上生きたことが確実とされる最初の人。

系譜

・曾祖()は平清盛

・夫(西園寺実氏)の方の祖母は坊門(源義朝源頼朝の同。)

・実氏との間に2人のける。

上の(姞子)は後嵯峨天皇の中宮で、後深天皇亀山天皇

下の(子)は後深天皇の中宮。

  後嵯峨天皇

    ├─後深天皇

貞子┬姞子  │

  └────子 (※叔母甥婚)

概要

貞子が生まれた建久7年(1196年)は、鎌倉幕府ができて間もない頃。当然、源頼朝北条時政北条政子も、幕府創建時の重鎮たちもって存命。NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人」の時代。

鎌倉時代の大事件の大半は、貞子が存命の内に起きた(承久の乱元寇など)。

貞子が存命の間に、北条時政の子孫は爆発的に増え、幾つもの北条氏の流ができた。

・ 建長6年(1254年)、准三后を宣下される。

※准三后=太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇

安8年(1285年)、九十賀(90歳の祝い)がやかに行われる。

なお、賀が行われたという記録はない。─筆者思うに、おそらく、当時の常識では寿命限界が90歳で、その先の祝賀を考えてなかったからじゃないかと。貞子健康的な事情かもしれないけど。

・晩年は北山に壮麗な邸宅を構えて「北山准后」と呼ばれた。

・正安4年(1302年)享年107

前年(1301年)、貞子の孫(後深天皇)の孫(後伏見天皇)が、孫(亀山天皇)の孫(後二条天皇)に譲位して上皇になっている。

※ちなみに、後二条天皇後醍醐天皇。従って、後醍醐天皇貞子の孫の孫(玄孫)で(ゲシュタルト崩壊)。

・同じく1301年、北条貞時(時政の孫の孫の孫!)が、執権従兄弟の師時に譲っている。

間もなく「太平記」の時代となり、鎌倉幕府は滅亡してゆく。貞子には、もっと長生きして新しい時代を見てほしかったなあ。

余談

貞子が晩年に暮らした北山は、後に足利義満西園寺から譲り受け、な寺を建てることになる。

鹿苑寺金閣である。

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

シャミ子が悪いんだよ (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: 夕陽
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

四条貞子

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 四条貞子についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!