四条天皇
(しじょうてんのう 1231年3月17日~1242年2月10日)とは、自らのいたずら心がもとでお隠れになられた日本の第87代天皇である。諱は「秀仁(みつひと)」。
概要
1231年2月12日に、後堀河天皇と九条道家の娘(藻璧門院)との間に第一皇子として生まれる。
同年4月11日には親王、同年10月28日には立太子され、1232年10月4日に父の後堀河天皇の譲位により12月5日に即位した。
幼児の身であった為、即位後2年間は実父の後堀河上皇が院政を敷き、上皇崩御後は、外祖父にあたる九条道家や西園寺公経が政務をとりしきり、1241年1月5日元服した。しかし翌1242年2月10日に不慮の事故によりお隠れになられた。
あまりに突然の崩御により、称徳天皇から光仁天皇の間の55日間の空位から472年振りに、11日間の空位期間が発生した。
トリビア
インターネット上にも転がっている「いたずらが原因で崩御した天皇」こそ四条天皇である。
まだ12歳と言うお子様だった四条天皇は、近習や女房達を転倒させようとして御所の廊下に滑石を捲いた。しかし誤って自らがその滑石を踏んで転倒してしまい、この時の怪我が元でお隠れになられたのである。
あまりにも(不敬罪の可能性があるので削除)な理由の為、天皇関連のニューススレでネタとして出てくる率が高い。
四条天皇をとりまくあれこれ
…とまあ、あまりにもそのあんまりにあんまりすぎる死因と年齢からネタ扱いされがちな天皇だが、当時の政治史における主要人物にとっては、彼の死はとてもじゃないが笑い事にならないほど、とてつもなくとんでもないことだったのである。
まず、彼の父親とは後堀河天皇…そう、承久の乱で勝利した鎌倉幕府が、皇族から後鳥羽院の縁者をあらかた遠方に飛ばした結果即位させた、後鳥羽院の血筋にない後高倉院の系統にあたる人物である。その後堀河天皇はすでに1233年に23歳の若さで亡くなっており、さらに母親である藻璧門院竴子も四条天皇の出産の際に故人となり、四条天皇が幼い段階で、後高倉院から続く後堀河天皇の血縁者は、彼一人になっていたのである。
さてそんな四条天皇の治世中、1239年に後鳥羽院も隠岐で亡くなった。その後しばらくに三浦義村、北条時房といった承久の乱のキーパーソンたちが相次いで亡くなり、後鳥羽院の怨霊問題が朝廷で取りざたされるようになっていった。そんなさなかの四条天皇の急死である。幕府としては宿老クラスを失っているさなか、せっかく擁立した後高倉-後堀河-四条の系統が断絶してしまったのである。
こうして何が起きたかというと、後鳥羽院の系統しか皇族が残っていなかったのである。そこで次の天皇にだれを据えるか、という問題が生じる。候補に挙がったのは、順徳天皇の息子・忠成、土御門天皇の息子・邦仁の二人である。
さて、ここで新たな登場人物が登場する。それは摂関家かつ鎌倉将軍の父親たる九条道家である。彼の姉・東一条院立子は順徳天皇の中宮であり、鎌倉将軍・藤原頼経の父親でありながら、後鳥羽院派の貴族の結節点でもあったのだ。
当然九条道家としては自分の血縁者にあたる、忠成が天皇になることを望んでいた。幕府との交渉役、関東申次である西園寺公経もこの件に関してはあまり異論はなく、朝廷では忠成が即位することは揺るがないはずだった。しかしこれに対して幕府は未だ存命中、かつ承久の乱ではタカ派だった順徳天皇の復権は望まない選択肢だったのである。そして幕府は土御門定通の推す邦仁を即位させる要求を、安達義景を派遣して朝廷に突き付けたのである。土御門定通は執権・北条泰時や六波羅探題・北条重時の血縁者であり、さらに土御門天皇といえば、後鳥羽院の息子でありながら、承久の乱には全く関わっていなかった人物であったため、これがベターな選択肢であった。
というわけでこうして邦仁が即位して後嵯峨天皇となり、北条泰時はこれを見届けるようにして亡くなり、すべてが丸く収まった………ん?、後嵯峨天皇?
そう、ここでピンと来た人は鋭い。後深草天皇と亀山天皇の系統に両統迭立させる原因となり、最終的に後醍醐天皇という存在を生み出したあの人である。幕府の苦労が全くの水泡に帰すことになるとはこの時誰も予想だにしていなかった…
…というわけで長々と説明してしまったが、四条天皇の転倒が、当時の政治史にとんでもないことを引き起こす原因となる傷跡を残してしまったことは、彼の名誉のためにもここで述べておこう。
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関連項目
86代 | 87代 | 88代 |
後堀河天皇(ごほりかわてんのう) 1221~1232 |
四条天皇(しじょうてんのう) 1232~1242 |
後嵯峨天皇(ごさがてんのう) 1242~1246 |
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