塚田泰明(つかだやすあき)とは、将棋棋士である。大内延介九段門下。棋士番号148。東京都出身。
1964年生まれ。九段。タイトル1期(王座)。弟子に藤森哲也、塚田恵梨花。昭和後期~平成初期を代表する強豪棋士の一人。
概要
竜王戦最高位1組
順位戦最高位A級(7期連続)
1981年3月四段(9連勝)※1980年度(昭和55年度)にプロ入りした強豪グループ、いわゆる「55年組」の一人。
1983年五段(C級1組昇級)
1985年六段(B級2組昇級)
1987年七段(B級1組昇級)
1988年八段(A級昇級)
2000年九段(勝数規定)
四段デビュー後、順位戦で
5-5,10-0(C級1組昇級),
8-2,10-0(B級2組昇級),
8-2,8-2(B級1組昇級),
10-2(A級昇級)
とデビュー7年でA級到達(この間に王座獲得)
しかし、30代にA級を陥落すると、そこからバタバタと降級を繰り返し、C級1組まで最短ペースで陥落している(55年組で最も早くC級1組に陥落した棋士となってしまった)。その後は次点に到達したことがあるが、昇級を逸すると翌年には降級点を取ってしまうなど、波が激しくなった(その後降級点を解消している)。
しかし、36歳0ヶ月で九段に昇段しており、これは勝数規定による九段昇段者の中では史上最年少記録である。
棋風と評価
「攻め100%」「昇天流」と呼ばれる攻めの棋風で、相掛かり超急戦法の「塚田スペシャル」は
80年代半ばに登場し、公式戦22連勝やタイトル獲得の大きな原動力として一躍話題となった。
南の島事件
妻は、女流棋士の高群佐知子。
結婚前、二人で極秘に沖縄旅行に行ったが台風で帰れなくなり、テレビ収録の仕事を二人ともキャンセルした。
高群は「今、沖縄にいまして、台風で帰れない」と連絡、一方の塚田が「今、南の島にいまして、台風で帰れない」と連絡したが、すぐに交際が公になってしまった(親しい棋士仲間は気付いていた)。
このエピソードは、「南の島事件」と言われている。この話は結婚式でも披露されたが、すでに棋界の中に知らない人はいないのであった。
電王戦での激闘
第2回 将棋電王戦では第4局で Puella α と戦った。
序盤から劣勢に立たされるも、Puella α の弱点を突こうと入玉を窺いながらの攻めに転ずるが、
なんと Puella α も玉の早逃げを敢行。相入玉模様となり、いわゆる「持将棋」へともつれ込むかと思われた。
しかし146手、相入玉となった時点で塚田が獲得した駒は17点分ほど。立会人裁定が入る256手までに残り7点分の駒を獲得出来なければ敗北と言う絶望的状況に追い込まれる。
Puella α は既に大駒3枚を確保しており、結果は誰の目にも明らか…のはずだった。
だが塚田は諦めず、持将棋と言うレアケースの対応に問題を抱える Puella α の弱点を突いて馬の奪取に成功。
その後も小駒を地道に獲得し、222手めにして引き分けに必要な24点分の駒を確保。
最終的に230手にて持将棋が成立し、奇跡的に引き分けへと持ち込んだ。
終局後のインタビュー、記者会見で、「投了は考えなかったのか?」との問いに「自分からは(投了できなかった)、団体戦で自分が負ければプロ側の敗北が決まってしまうから…」と、言葉を詰まらせ涙した。
以後、電王戦で大きく名が売れ、「塚ぽん」というあだ名が付けられ、解説の常連の一人となっている。
その他
NHK杯戦史上初めて、豊川孝弘対田村康介戦で二歩を目の当たりにし、思わず「打っちゃった、打っちゃったよ!!」とブラウン管の前で叫んだことで有名。
また、若い頃は二枚目棋士として世間を騒がせ、故真部一男や島朗などと並び、棋界屈指のアイドル棋士として名も売れた時期がある。また、ファッションセンスにも強いこだわりを持っていた。
棋界きってのスモーカーでもある。
近年は愛娘の塚田恵梨花女流がニコ生の聞き手常連にもなっており、彼女から父親のエピソードが色々紹介されている。それによると、彼女と母親の説得によりニコニコ動画のプレミア会員に入会した、子供の頃から読売ジャイアンツファンであるなどがカミングアウトされている。
関連動画
第2回将棋電王戦PV
塚田泰明九段インタビュー 第2回将棋電王戦
第2回将棋電王戦 第4局 塚田泰明九段 vs Puella α PV
塚田スペシャルの解説
関連生放送
第2回 将棋電王戦 第4局 塚田泰明九段 vs Puella α
関連項目
関連リンク
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