概要
派閥の呼称は、
池田派─>前尾派─>大平派─>鈴木派─>宮澤派─>加藤派─ | ┬>小里派─>谷垣派┬ | ─>古賀派─>岸田派 |
└>堀内派─>丹羽・古賀派┘ |
という順で変遷している。
派閥分裂時はどちらの派でも「宏池会」と名乗ったため、同じ名称の派閥が2つ存在するという現象が発生した。
自由党・吉田茂の吉田学校(吉田派)をルーツに持ち、同門の佐藤栄作と派を分ける形で池田勇人が1957年に結成した保守本流派閥である。
結成時に大蔵官僚だった池田をはじめとして、前尾繁三郎・大平正芳・宮沢喜一など官僚出身者を中心に集まった経緯があり、伝統的に政策通な議員が多く所属する。
しかし同じ保守本流の経世会などと比較すると政局には弱いところがあり、しばしば「公家集団」と表現される事もある。
思想的には党内の中道派であり、ハト派な傾向を持つ。
谷垣派と丹羽・古賀派の再結集の際には、党内の右傾化に反発するように意識的にリベラル派をアピールしていた。
「宏池」の出典は、後漢の学者・馬融が上奏した『広成頌』における、「高崗の榭(うてな)に臥し、以って宏池に臨む」の一文である。
また、池田勇人の出身地の広島に掛けて「宏」の字と、苗字の「池」を組み合わせたという一説もある。
歴史
池田派(~1965年)
前尾派(1965~71年)
- 1965年 前尾繁三郎が会長に就任。
- 1968年 前尾が党総裁選に出馬するも3位に惨敗。
- 1970年 佐藤栄作首相より前尾派優遇を条件に、前尾が党総裁選出馬を見送り。
→しかし佐藤は内閣改造を見送ったため、派内から猛反発を受けた前尾の求心力は大きく低下した。 - 1971年 「大平クーデター」により、前尾が会長辞任。
大平派(1971~80年)
- 1971年 大平正芳が会長に就任。
- 1972年 大平が党総裁選出馬。「三角大福」で争って3位。
- 1976年 福田赳夫と「大福密約」を結んで党総裁選出馬を見送り。
- 1978年 大平が党総裁選出馬。田中派の支援を受けて勝利する。(第一次大福戦争・第二次角福戦争)
- 1978~80年 大平正芳内閣。
- 1979年 第35回衆議院選にて自民党敗北。福田・中曽根・三木派の反発を受けて「四十日抗争」発生。
衆議院首班指名において、自民党から大平・福田の2名が首相候補となる事態が発生。(第二次大福戦争) - 1980年5月 大平内閣不信任決議案が、福田派・三木派議員の大量欠席により可決される。(ハプニング解散)
- 1980年6月 衆参同日選の10日前に大平正芳急死。
五・一五事件で犬養毅が暗殺されて以来48年ぶり、戦後初の現職総理大臣の死去だった。
鈴木派(1980~86年)
宮澤派(1986~98年)
- 1986年 宮澤喜一が会長に就任。
就任直後に旧・新自由クラブ党首の河野洋平が入会。 - 1987年 宮澤が後継総裁を安倍晋太郎・竹下登と争うが、中曽根裁定によって竹下登に敗れる。
- 1988年 リクルート事件発生。
事件に関係していた宮澤が大蔵大臣を辞任。安倍晋太郎や渡辺美智雄らと共に次期総裁候補からも外れる。 - 1991~93年 宮沢喜一内閣。
- 1993年 河野洋平が党総裁選に出馬して勝利。
→しかし自民党は下野中だったため、史上初の総理大臣に就任していない自民党総裁となった。 - 1995年 河野洋平が党内支持を得られずに総裁選出馬・再選を断念。
→同じ派内の加藤紘一なども公然と小渕派(平成研究会)の橋本龍太郎を支持していた。
加藤派(1998~02年)
- 1998年 加藤紘一が会長に就任。
派の後継者争いをしていた河野洋平は派閥を脱退。河野グループは翌年「大勇会」を結成。 - 1999年 加藤が党総裁選に出馬するも小渕恵三に敗北。党内では非主流派に転ずる。
- 2000年 低支持率で喘ぐ森内閣に対する不信任決議案に同調する構えを見せる(加藤の乱)。しかし不発に終る。
→加藤派45人・山崎派19人が造反すれば成功すると言われていたものの、宮澤前会長・鈴木元会長など宏池会の源流となる人物は反対を表明。
党幹事長・野中広務ら執行部による切り崩し工作も効果を発揮し、派内で加藤派と反加藤派(堀内派)に分裂した。 - 2002年 加藤事務所の代表が所得税法違反で逮捕。この責任を取って加藤が離党・議員辞職した。
小里派(2002~05年)
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堀内派(2000~06年)
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- 2008年 宏池会の流れを汲む派閥が合流する宏池会結集構想が浮上する。
・中宏池会構想…ともに「宏池会」を名乗る谷垣派・古賀派の合流構想。
・大宏池会構想…上記の2つに加え、さらに旧河野グループの流れを汲む麻生派(為公会)を含めた合流構想。
→麻生・谷垣という強力な総裁候補がそれぞれいたため、結局麻生派が宏池会に合流する事は無かった。
古賀派(2008年~2012年)
- 2008年 古賀誠を派閥会長、谷垣禎一を代表世話人として2つの「宏池会」が合流した。
- 2009年8月 第45回衆議院選挙後、清和政策研究会(町村派)を抜いて党内第一派閥となる。
- 2009年9月 谷垣禎一が党総裁選に出馬・勝利する。
→就任時に首相にならなかった党総裁としては河野洋平・橋本龍太郎に次いで史上3人目である。 - 2012年 谷垣禎一が党内支持を得られずに総裁選出馬・再選を断念。
→同じ派内からは林芳正が出馬するも5位に終わる。旧谷垣派の議員の一部が、古賀が谷垣への支援を行わなかったことに対する不信などから、宏池会から脱退し総裁の座を降りた谷垣と共に「有隣会」を旗揚げ。古賀は派閥の再分裂を引き起こしたことや林芳正の惨敗により面目を潰され派閥会長を辞任。
岸田派(2012年~)
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