小野寺義道単語

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小野寺義道(おのでら・よしみち 1566 ~ 1646)とは、出羽の戦国大名である。知略一桁定評のある人情

概要

出羽・仙北[1]を支配していた戦国大名小野寺氏の最後の当。腕っぷしには自信があるのだが、知略の方はとても残念という、要するに脳筋な人物であった。

隣接する大名は最上義光戸沢盛安といった知勇兼備の名将たちであり、次々と領地や臣を攻略され、が築いた広大な所領は大きく削られてしまう。それでも豊臣政権下で大名としてなんとか存続した。

が、関ヶ原の戦いにおいて周囲360度全てが東軍という状況にも拘わらず、最上氏に奪われた領地を取り戻すべく西軍に参加する。この結果、戦後易となり小野寺氏は滅亡した。

いかにも猪突猛進を滅ぼしてしまった人物という印だが、情や恩義に篤いエピソードも残る。

生涯

小野寺輝道)は、滅亡寸前の小野寺氏を復させ、仙北広大な所領を築き上げた名君だった。小野寺義道はの次男として生まれる。1582年、は上して織田信長に謁見した後に隠居する。小野寺は庶長子だったらしく、次男の彼が督を継いだ[2]

…が、これをとして小野寺氏は落の一途を辿る事になる。

戦乱の世で

当時の出羽はしい戦乱の世であり、南には「羽州の最上義光が、北には叉九郎」戸沢盛安が登場して、支配地を大きく広げつつあった。

督を継ぐ前後の時期である1581年には、長年従ってきた鮭延秀綱が最上方に寝返る。同時期、西に隣接する由利地方人衆・由利十二頭と争ったが敗れ(大沢合戦)、由利へのも大きく落としてしまった。

1588年、この状況を打破するべく今度は北の秋田氏を攻めようとするが、それを察知した最上義光に逆に背後から攻められてしまう。義秋田攻めの兵の一部を引き返させて対最上に当てるが、兵を分散させた小野寺軍は結局、秋田でも対最上でも敗北するという最悪の結果を招く。ちなみにこの時の最上軍を率いていたのは先の鮭延秀綱で、彼の呼びかけで更に寝返る者が続出したらしい。

…とまあ、こんな感じで勇猛果敢な人物ではあるものの、知略や戦略という部分にはどうにも欠けていた。臣が離反し、勢弱体化、その結果更に臣が離れ…という負のスパイラルを止められず、最上義光の謀略に見事に踊らされてしまう。なお余談ながら、同じく最上由利衆と対立していた大宝寺義氏とは同盟関係にあった。類は友を呼ぶというやつだろうか。

豊臣政権下

そんな猪突猛進な小野寺義道ではあったが、豊臣秀吉小田原征伐にはちゃんと参した。なんだか意外である。が上するなど昔から小野寺氏は中央との一定の繋がりを有しており、お陰でここはちゃんと空気を読めたようだ。

こうして事に所領安堵となったのだが、その後の太検地に小野寺下の領たちがしく反抗し、一を組んで反乱を起こす事件仙北が勃発してしまう。この一に義自身は一切関与していないが、罰として所領の一部をボッシュートとなった(※この領地は最上氏がいただきました。この時、責任をとって自害したという。

そんな斜陽小野寺だったが、という忠臣がまだ残っていた。智謀に優れた将として名高く、かつて義小野寺輝道助けてと拡大に大きく貢献した、忠義篤き長年の功臣である。……が故に最上義光ターゲットとされてしまった。

最上臣・楯満茂によって「八為が最上に内通している」というウワサが流されると、義はこのにまんまとハマってしまい、実の為を誅殺してしまうあれ? どこかで見たような展開)。そして為の排除に成功した楯満茂は1595年に湯沢を攻め落とし、硬軟織り交ぜた最上方の攻撃で小野寺は更に衰えてしまう。この後も湯沢周辺を巡る争いはしばらく続いたが、湯沢を奪回する事は出来ずにいた。

関ヶ原の戦い/慶長出羽合戦

関ヶ原の戦いでは当初、東軍への参加を表明していた。が、出羽における東軍の官はあのにっくき最上義光である。内心では沸々としたものがあったのは想像に難くない。

そして、最上軍が上杉軍相手に苦戦しているのを見た義は、ここで西軍への寝返りを決意。かつて奪われた領地を取り戻そうと燃えていた。ちなみに周辺勢は依然として360度全て東軍である。流石すぎないか。

南から攻める上杉軍と挟み撃ちする形で、小野寺軍は北から最上領へと侵入、因縁の湯沢へと攻め寄せる。だが小野寺氏の動きをやっぱり予想していた最上義光は、楯満茂を北方への抑えとして湯沢に残していた。結局湯沢は落ちず、逆に上杉撤退後は最上氏の逆襲を食らい、全方位から攻め込まれフルボッコにされている。

こうして小野寺義道の関ヶ原は終わり、小野寺氏は易処分となる(※この領地も最上氏がいただきました。義小野寺は、はるかはるか遠い石見和野に配流される事になる。

その後

関ヶ原後に和野となったのは、宇喜多直家の甥である宇喜多 坂崎直盛だった。義は流刑人の身であったが直盛は良く接してくれたらしく、良好な関係を築く。だが、直盛は大坂の陣の後にトラブルを起こして切腹となってしまった。

その後は新たに和野となった亀井氏に仕える事になるが、一方で直盛への恩義は忘れていなかった。とは言え、幕府から見れば罪人である直盛の事を堂々と称える訳にもいかず、ほとぼりのさめた十三回忌の時に直盛の墓を建てた。

戦国大名としては量不足と言わざるを得ないが、色々と人間味のある武将であった。大名に生まれなければ、その実をもっと活かせたのかもしれない……。

子孫はそのまま幕末まで亀井氏に仕えたが、次男・小野寺宮内系は和野を離れ、その子孫が赤穂浪士の一人・小野寺十内であると伝わる。

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補足

信長の野望」(PCシリーズにおける小野寺義道の力一覧。

全なる脳筋天翔記の智才22は下から2番、ワースト5タイ数字である。そしてそれ以降は6回連続で知略1桁という、ある意味清々しい数値が並んでいる。本文で述べている通り、関ヶ原では少し離れた上杉以外に西軍の味方がいないという孤立した状況から始まり、寿命はまだ長いとはいえ非常に厳しい勢となっている。

軍事 内政
戦国群雄伝 戦闘 政治 野望
武将風雲 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 53 戦闘 64 智謀 11 政治 20 野望 68
天翔記 戦才 146(A) 智才 22(C) 政才 80(C) 53 野望 68
将星 戦闘 63 智謀 8 政治 40
烈風 采配 25 戦闘 51 智謀 8 政治 23
世記 采配 34 智謀 4 政治 14 野望 49
蒼天録 統率 54 知略 3 政治 18
下創世 統率 54 知略 5 政治 24 教養 39
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 62 武勇 61 知略 2 政治 27

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関連項目

脚注

  1. *現在秋田県南東部に相当する地域
  2. *は既に戦死していたとする説もある

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小野寺義道

1 ななしのよっしん
2016/04/12(火) 19:49:19 ID: kg5FVehtEi
まさか記事が有ったとは・・・作成者です!

かなりのバカ殿なんだろうが人間味もあるからいまいち憎めないんだよな
矢島も八も失って領地はズタズタな末期でも最上への徹底抗戦姿勢は崩さない所は好き
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2 ななしのよっしん
2017/02/02(木) 04:51:12 ID: GdlqDP0vAO
戦う事を避けたり、有利な側につくが優秀で
勇敢に敵に立ち向かうバカ扱いされる戦国の世で
最後まで抗い続けた彼の生き様は他の武将も見習うべきである
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3 ななしのよっしん
2018/01/11(木) 20:35:22 ID: fmloj4wknC
大志で久々に知略2桁だ!・・・それでも最低ライン(27)
創造で知略1桁仲間今川氏真一条兼定(3人併せて知略5・・・)と大志を駆け巡ろう!
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4 ななしのよっしん
2019/12/22(日) 01:42:16 ID: DN5S5Y+R90
関ヶ原で最上攻めこんだのは長年の因縁もあるだろうけど上杉キタ!これは勝つる!といった感じの火事泥棒に見えるんだよなあ
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5 ななしのよっしん
2020/02/14(金) 09:23:54 ID: RS/r721ipL
多少盛られてるかもしれないけど義の時代でも小野寺は諸合戦で6000~8000の動員があったって記録が多いからそれなりの勢ではあったんだろうな…いかんせん相手が悪かったってだけで
上杉~大宝寺~(由利党)~小野寺っていう
外交ラインも一応保持していたわけだし
白鳥寒河江らの山形の反最上とも結んでるしな…
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6 ななしのよっしん
2023/01/24(火) 01:34:03 ID: fAabmvq9hY
ちなみにFCナムコ独眼竜政宗では最上より強い
このゲームをやったことがある人と信長の野望のみやったことがある人とでは小野寺の印180度違う
じわじわとを蓄え訓練度を100にして羽の北端で守りを重視し、最上以上の軍備を備えて政宗を待ち構えるその姿はとても知略2とは思えない存在感がある
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