有明海とは、九州北西部の長崎県・佐賀県・福岡県・熊本県に囲まれた海域である。
別の呼称として「島原湾」があるが、官庁によって定義が異なる。
概要
明治までは統一した呼称はなく、地域によって「筑紫海(潟)」「有明沖」「前海」と呼ばれていた。明治になると北部の海域を「筑紫海」、南部を「島原海湾」と呼ぶようになったが定着はしなかった。1951年の地形図で北部が「有明(筑紫)海」、南部を「島原海湾」と記載され、「有明海」「島原湾」の名称が用いられるようになった。
阿蘇山の火山灰により大きな干潟が出来ている。干満差は6メートル以上あり、これは日本一である。大潮の干潮時には約8600ヘクタールの干潟が姿を見せる。陸に囲まれた内海である為1年を通じてほとんど荒れることがなく、0.5m前後の波が多い。高くても3~4m前後である。
このような日本では特殊な環境が形成されているため、生態系もムツゴロウやシオマネキなど独特な生物が生息している。また、港湾設備も工夫が必要であり、三池港は閘門式が、熊本港は人工島式が採用されている。
諫早湾干拓事業
1952年、当時の西岡竹次郎県知事が食糧難を解決する方策として有明海内の諫早湾を干拓するという政策を発案した。
当時、諫早市を流れる本明川は度々氾濫して水害の原因であった。特に1957年の諫早大水害では500人以上が犠牲となった。諫早湾の干拓はこうした水害による被害を防止するという効果が期待された。また、諫早市は長崎県でも有数の農業地域であり、農業用水の不足にも悩まされていた。本事業は農業用水の確保という側面もあったのである。
1989年から諫早湾干拓事業の工事が着工され、潮受け堤防が建設された。その堤防の水門が閉じられて以降、2000年には有明海の養殖海苔が不作となり、2002年に有明海の漁業者が工事を中止するよう訴えを起こした。2004年に佐賀地裁は漁業被害と干拓事業の関連を一部認め、工事中止の仮処分も下されたが、控訴審では仮処分を取り消され、工事が再開した。
工事は2007年に完了し、潮受け堤防内側の調整池が淡水化して干拓地の農業用水として利用されたほか、高潮や水害の被害も減少した。
しかし、有明海の漁業者は本事業によって漁獲高の減少や海苔の色落ちなどの影響を受けたと主張し、工事の中止や堤防の開門を要求する運動を展開した。これに対し国は2002年に28日間の開門調査を実施したが、環境が改善されることはなかった。短期の開門では効果が現れないという指摘もあったが、国は開門による漁業被害の対策に多額の費用がかかることを理由に調査を実施しないと説明した。
2010年、福岡高裁は漁業者の主張を一部認め、国に5年間の常時開門を命じる判決を下した。当時の菅直人首相は本事業を無駄な公共事業の一つだとして批判的であり、国として上告は行わず高裁判決に従うという決定を下した。この判断には政府内の仙谷由人官房長官や鹿野道彦農水大臣、諫早市町宮本明雄らが待ったをかけたのだが、結局菅の独断により高裁判決が確定した。長崎県は菅の判断について一切報告を受けておらず、一方的なものとして猛反発した。
2013年から福岡高裁の命令を実施するため、開門に向けた調査や工事を実施することになったが、地元住民や地元議員が集結して工事ができない事態となった。
それと同時期に長崎地裁は開門が営農者の生活基盤に重大な影響をあたるとして開門の差し止め命令を下した。加えて、2014年4月には佐賀地裁が開門しなければ国は制裁金を支払えとという判決を下したが、同年6月には長崎地裁が開門したら制裁金を支払えと命じるという矛盾する判決が出た。翌年、最高裁はどちらの判決も有効だと認めたことで国は開門しようがしまいが制裁金を支払わなければならなくなった。
専門家は漁獲高の減少や海苔の色落ちなどの現象が本事業と関連していると指摘しているが、2015年9月7日の福岡高裁判決では他の要因もあるとして損害賠償は認めたものの、開門請求は退けている。
また、開門することによって逆に環境を悪化させたり、干拓地の農家が被害を受ける可能性もあるため、裁判所は開門せず間接強制金[1]の支払いや基金を通じた解決を促している。2018年までに福岡県・熊本県・佐賀県の漁協が基金による補償案に同意した。2024年現在国と争っているのは佐賀県と長崎県の漁業者である。
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関連項目
脚注
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