海軍甲事件とは、大東亜戦争中の1943年4月18日に発生した山本五十六長官が戦死した事件である。
概要
背景
時に1943年2月。ガダルカナル島争奪戦に敗れ、帝國陸海軍は同島から撤退。防衛線を下げ、来るべき連合軍の反攻に備えていた。しかし日本軍は予想上に戦力を損耗し、次期攻勢作戦を立てられずにいた。一方の連合軍は潤沢な物量を武器に攻勢を開始し、瞬く間に制空権を奪取。ニューギニアの帝國陸軍をほぼ孤立させるに至った。このままではガ島の二の舞になり、更なる悲劇を呼び込む事になる。そこで海軍はありったけの航空機を投入。練成中の空母艦載機まで剥ぎ取り、約350機の航空機で制空権の奪還を狙う「い号作戦」を開始した。
作戦の総指揮には山本五十六大将が選ばれた。山本長官はトラックに在泊中の戦艦大和から無線で指揮を執るつもりだったが、宇垣纏参謀長の提案で最前線のラバウル基地へ赴いて陣頭指揮を執る事に。また宇垣参謀長はブカ、ブイン、ショートランド、コロンバンガラなどを視察して将兵の指揮を盛り立てる案を具申し、これも取り入れられた。4月3日、連合艦隊司令部はトラック島からラバウルへ移動。4月7日から15日にかけて行われた航空攻撃の指揮を執った。駆逐艦1隻、コルベット艦1隻、油槽船1隻、輸送船2隻撃沈し、敵機25機撃墜の戦果を得た。損害は約60機撃墜だった。
山本長官は現地の将兵を鼓舞して回り、陸軍第17軍にも挨拶回りを行った。各拠点への視察は4月18日から始める事とし、山本長官の行動予定をD暗号に変換してラバウルから各基地へ打電された。しかし暗号文は長文であり、第11航空戦隊司令は敵に解読される恐れがあるとして視察中止を具申した。だが途端の苦しみに喘ぐ前線の将兵を鼓舞したい山本長官はこれを却下した。しかも暗号文には古い乱数表が使用されており、案の定アリューシャン列島ウラナスカ島ダッチハーバーにあるアメリカ軍無線傍受所に察知されてしまう。4月14日早朝には真珠湾のハイポ支局に回され、午前8時2分に太平洋艦隊司令ニミッツ大将の知るところになった。ニミッツ大将は「日本海軍には山本長官の代わりになる人材がおらず、山本長官を殺害する事で日本海軍に大きなダメージを与え、しかも国民の士気を阻喪させられる」と判断。ニューカレドニア島のヌーメア基地にいるハルゼー中将に撃墜作戦を練るよう命じた。
命令を受け取ったハルゼー中将は、ヘンダーソン飛行場を管轄するミッチャー少将に「作戦の実行は可能か?」と問い合わせたところ、可能だと返答があった。こうして極秘裏に作戦が発動し、ワシントンの海軍省にも転送。ノックス海軍長官は深夜にルーズベルト大統領と会談し、政治的問題の有無を確認したうえで撃墜計画を推進した。ニミッツ大将はこの作戦をデリンジャー(復讐)作戦と名付け、作戦命令をハルゼー中将に出した。ノックス長官も「ソロモン方面部隊は全滅してでも山本長官機を撃墜せよ」という電報をミッチャー少将に送った。機密保持のため電報のコピーと保存は禁止、作戦後は破棄を命じられた。
経過
1943年4月18日午前6時、山本大将を乗せた一式陸攻1番機と、参謀長宇垣纏少将を乗せた2番機が離陸。護衛に零戦9機がついた。しかし故障により3機が引き返している。バラレ基地まで後15分まで迫った頃、突如18機のP-38が襲来。直ちに零戦が応戦し、2番機は海側へ、1番機は内陸側へとそれぞれ退避。零戦隊は必死に陸攻を守ろうとするが、多勢に無勢。午前7時50分頃に1番機が被弾して火を噴いた。1機の零戦が1番機に接近すると、指揮官席に座る山本長官の姿が見え、軍刀を握って瞑想しているようだった。やがて火勢が強くなり、陸攻の機体を包みこんだ。コントロールを失った機は錐もみ状態となり、モイラ岬のジャングルの中へと墜落。密林に爆発の花を開かせた。2番機も被弾して墜落しているが、こちらは海に不時着水したため宇垣少将は助かっている。山本長官の死を招いたこの事件は「海軍甲事件」と呼ばれ、約1ヶ月間かん口令が敷かれた。長官の死が明かされたのは5月21日だった。
山本長官の死については諸説あり、機上で即死した説、墜落後もしばらくは生存していた説など未だに議論は絶えない。ともあれ救助隊が駆けつけた頃には既に亡くなっていた。遺骨は戦艦武蔵によって5月17日に帰国。そして6月5日に国葬が厳かに執り行われた。
アメリカ軍は偶発的な戦闘で撃墜したと見せかけるため、「一式陸攻2機撃墜」としか発表しなかった。
関連静画
関連項目
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