照月(秋月型駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造した秋月型駆逐艦2番艦である。1942年8月31日竣工。南太平洋海戦と第三次ソロモン海戦に参加した。12月12日、サボ島北北西で自沈。
概要
1939年度海軍軍備充実計画(通称マル四)にて、乙型一等駆逐艦第105号艦として建造が決定。三菱重工長崎造船所で1940年11月13日に起工、1941年10月25日に駆逐艦照月と命名され、11月21日進水。1942年7月22日に艤装員事務所を開設。8月31日に竣工を果たし、佐世保鎮守府に編入。佐世保に回航された後、9月6日に出港。残工事完遂のため横須賀に回航され、9月8日に到着。横須賀工廠に入渠し、9月30日に工事完了。10月7日、第3艦隊第10戦隊隷下に第61駆逐隊を新編。1番艦秋月とともに編入され、照月は司令則満宰次大佐が乗艦する旗艦となった。戦局は竣工したばかりの照月に十分な時間を与えてくれず、ガダルカナル島の陸軍総攻撃に合わせて10月10日に横須賀を出港。ソロモン戦線に投入された。10月14日、トラック諸島に到着。その日のうちに出港し、ソロモン北方で先行していた南雲機動部隊と合流。10月22日、敵情を探るため重巡洋艦利根とともに本隊から分離。機動部隊南方を捜索したが、敵影は無かった。翌23日に本隊と合流。
10月26日、南太平洋海戦に参加。照月は旗艦翔鶴と瑞鳳の直衛となり、米軍機の猛攻から空母を守って奮戦。しかし瑞鳳は中破、翔鶴は大破した。海戦後の夜、PBY飛行艇からの爆撃により艦橋右舷部に至近弾を受けて損傷。7名の戦死者と36名の負傷者を出した。10月29日にトラックへ帰投し、工作艦明石に横付けして応急修理を受ける。11月8日、照月は前進部隊挺身攻撃隊本隊に編入。翌9日15時43分、トラックを出撃。戦艦比叡と霧島を中核としたヘンダーソン飛行場砲撃部隊に加わる。11月12日23時30分、米第67任務部隊と会敵して第三次ソロモン海戦に参加。主砲弾160発と25mm機銃弾200発を発射し、敵機3機を撃墜する戦果を挙げた。海戦後、戦艦霧島を護衛して一旦北方に退避する。その後、第10戦隊司令木村進少将からの命令で大破航行不能状態に陥った比叡の援護に向かう。11月13日午前6時頃、沈没寸前の比叡と合流。しかし比叡がいる場所はヘンダーソン飛行場に近く、敵機から波状攻撃を受ける。駆逐艦雪風、時雨、白露、夕暮とともに対空戦闘を行って比叡を守ろうとするが、ついに放棄が決定。比叡から生存者数十名を救助して離脱した。19時53分、戦艦霧島率いる艦隊と合流。再びヘンダーソン飛行場砲撃に向かうべくサボ南水道方面に突進する。ところが道中の22時3分、戦艦2隻を含む米第64任務部隊から奇襲を受けて会敵して第2ラウンドが幕を開けた。照月は敵戦艦サウスダコタを砲撃したが、魚雷発射の機会には恵まれなかった。米駆逐艦プレストンとウォークを撃沈し、ベンハムを大破させる事には成功したが、ワシントンから猛攻を受けた霧島は死の淵に立たされていた。既に曳航も不可能だったため、11月15日午前1時25分に照月、朝雲、五月雨の3隻が生存者を救助。計1098名を収容し、照月には70~80名が移乗した。11月18日午前8時、トラックに帰投。再び明石に横付けし、11月28日に整備完了。
12月1日、南東方面部隊外南部隊に転属。12月3日、出港しようとした時に南水道で触礁し、推進器を損傷。修理を受ける。2日後に修理を終えてトラックを出発。ショートランド泊地に回航された。12月7日、ショートランド入港。駆逐艦長波から田中頼三少将が移乗して照月は第2水雷戦隊旗艦となり、空襲で大破した駆逐艦野分を救援すべく夕刻出港。僚艦に付き添われている野分と合流し、ショートランドまで送り届けた。12月10日、泊地にB-17が襲来して対空戦闘。空襲後、損傷した富士山丸と東亜丸の救護にあたった。
最期
12月11日13時30分、第四次ドラム缶輸送に参加して出撃。駆逐艦11隻が参加する大規模なもので、照月は警戒隊に属した。道中で敵戦闘機6機と急降下爆撃機20機に襲われたが、照月、嵐、長波による迎撃で2機を撃墜した。22時頃、輸送隊はエスペランス岬に到着。物資を揚陸している間、北方3kmの沖合いで警戒待機。23時、米魚雷艇PT-37とPT-40から2本の魚雷が伸びてきて、左舷後部に命中。舵と左舷主機が使用不能になり、重油タンクへの誘爆によって乗員8名が死亡。23時33分、田中少将以下56名が長波に、140名が嵐に移乗。艦首部に接舷した嵐が消火活動を行ったが、復旧は絶望的としてキングストン弁を開いて自沈。12月12日午前1時15分に総員退去が終わり、午前2時40分にサボ島北北西12.4kmで沈没した。則満司令や艦長以下156名は搭載艇でカミンボに上陸。
関連項目
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