ボーイング B-17とは、アメリカ陸軍が第二次世界大戦時に運用した重爆撃機である。
概要
4発のエンジンを搭載した大型爆撃機である。量産型(B-17F)ではM-2機関銃を11挺も装備して死角を解消し、燃料タンクや搭乗員の周りに防弾を施しており、主翼や胴体に大穴が開いても飛行を続けられるほど頑丈な機体だった。
開発
1930年1月、マッカーサー陸軍参謀総長とプラット海軍作戦部長が協議し、アメリカの沿岸防衛については、陸軍航空隊が一義的な責任を負うことになった。この経緯から1934年に陸軍航空隊は、ハワイ、パナマ、アラスカを含む西半球のアメリカ領土を防衛するための大型爆撃機を開発する計画「プロジェクトA」をスタートさせた。プロジェクトAは900キログラムの爆弾を搭載して8000キロメートルの航続能力を持ち、洋上まで進出して飛来する敵艦載機を排除し、侵攻する敵艦隊を精密爆撃で撃破する、というコンセプトになっていた(3社から提案があったが、最終的にはいずれも採用には至らなかった)。[1]
プロジェクトAはそれを実現するための爆撃機の大型化、四発化はコストの上昇やそれに伴う就役機数の減少など、ひとつ間違うと航空隊の戦力に致命的な結果をもたらしかねないリスクも含んでいたため、この時期から航空隊の爆撃機装備計画はプロジェクトAの超重爆と、現実的なマーチンB-10の後継機である中型爆撃機という2本立てとなった。[2]
中型爆撃機計画にはマーチン社、ダグラス社、そしてボーイング社が名乗りを挙げた。マーチン社はB-10の発展型のモデル146、ダグラス社は自社の大ヒット旅客機であるDC-2を爆撃機に改造したDB-1を提出した。2社が双発機、それも既存の機体の改造品で済ませた一方で、ボーイング社はプロジェクトAで開発していた超巨大爆撃機XB-15を小型化したような四発機を新規に設計し、翌年の1935年に後のB-17の原型となるモデル299を初飛行させた。この初飛行の際、試作機を見た新聞記者が当時まだ珍しかった胴体側面のブリスター銃座を見て、銃眼を備える砦を連想し「フライングフォートレス(空飛ぶ要塞)」と呼んだ。ボーイング社は宣伝に丁度いいと考えてこの愛称を正式採用したが、5年以上も後にこの「空飛ぶ要塞」が愛称に相応しい大活躍をすることはまだ誰も予想していなかった。
コンペは3社の試作機を実際に飛ばして性能を比較することで行われ、新設計かつ大型のボーイング・モデル299はライバルを航続距離と爆弾搭載量で圧倒し、速度も互角以上と優秀であった。この結果を見た陸軍航空隊はコンペが終わる前にB-17を65機発注することを決定し、ボーイング社とモデル299がこの爆撃機発注競争の勝者となるかと思われた。しかしコンペ終了間際にささいなミスからモデル299は墜落してしまい、必須の飛行試験を全て完了できなかったボーイング社は失格となってしまう。それでもボーイング社や将軍たちは高性能なボーイング機を何とか採用させようとしたが、ダグラス社のDB-1の価格が1機で58200$だったのに対しモデル299は1機99620$と(凝った新規設計なうえに発動機の数が2倍なので当然といえば当然なのだが)倍近い高額であり、万国共通の軍隊最大の敵、予算によって結局コンペの勝者はダグラス社となり、DB-1がB-18として正式採用・量産されボーイング社は受注を得られなかった。
それでもボーイング機を諦めきれない陸軍航空隊の将軍たちは、抜け道として増加試作の名目で1936年にモデル299の発展型をYB-17として13機のみ発注させることができた。13機のYB-17は直後にY1B-17と名を改め、その後数年間陸軍航空隊唯一の近代的大型爆撃機として飛行試験や洋上爆撃の訓練を続けることになる。なお、このY1B-17飛行隊で航法員として乗り組み長距離洋上飛行の訓練で頭角を現していた一人の中尉が、後に対日戦で戦略爆撃の指揮を執り空軍大将にまで昇進する「鬼畜ルメイ」ことカーチス・ルメイその人であった。
その後、欧州で戦争の気配が近付くとともに貧乏に苦しんでいた陸軍航空隊にも予算が増額されていく。1937年にY1B-17とターボチャージャーつきの試作機Y1B-17AがそれぞれB-17とB-17Aに名を改め増加試作から正規の採用機扱いになったのと同時に、B型以降の改良型が順次発注され、1939年から配備されていくこととなる。1939年に第二次世界大戦が勃発すると、B-10などの旧式爆撃機や安価なだけで低性能のB-18やB-23などではとても欧州での戦争に使えないと判断され、B-25、B-26、そしてB-17の代替を目指した四発重爆撃機B-24などの新世代爆撃機の開発と生産が急がれる中で、B-17の発注数も大幅に増し生産は加速した。わずか13機の増加試作から始まったB-17の生産は最終的に1945年5月まで続けられ、12731機もの大量生産が行われることになる。
運用
欧州戦線へ
B-17の初の実戦参加はアメリカ陸軍によるものではなく、C型に相当する機体をフォートレス Mk Iとして購入したイギリス空軍によるドイツの軍港への爆撃だった。しかし、1941年夏から実戦投入されたフォートレス Iはアメリカ製の高性能なノルデン式照準器がなく、さらに防御機銃の数も5挺のみと少なかったため、一連の爆撃は戦果を挙げられず損害ばかりを増やす結果となった。この失敗からイギリス空軍はフォートレスでの昼間爆撃を早々に断念してしまう。B-17はこの時点ではまだ「強力な防御力を備えた撃墜が難しい爆撃機」とは言えなかったのだ。このフォートレス Iの戦訓からD型以降は防御銃座と装甲板の強化が行われる。1942年にアメリカは垂直尾翼を大型化し武装も強化したE型を持ち込み、後にF型も加わった。
B-17は排気タービン過給器付きエンジンを装備していたので高空飛行性能に優れており、実用上昇限度はF型で11200メートルを記録していた。ところがB-17には与圧装置が無かったために作戦飛行高度を上限まで上げられず、常用作戦高度は7000~7500メートルになった。ドイツのBf109やFw190はこの高度であれば性能的に余裕を持って迎撃することができたので、B-17の搭乗員は氷点下40度前後の厳寒の中で防寒服に酸素マスクを装備し、ドイツ機と凄まじい銃撃戦を繰り広げなければならなかった。[3]
他の戦線が小康状態になった1943年から爆撃作戦は本格化したが同時にドイツ空軍の迎撃も激しくなり、未帰還率が25%を超える日も出るなどB-17飛行隊は膨大な損害を重ねるようになってしまう。しかし前述の防御銃座と装甲の強化が行われ、1944年以降の主力となったG型では実に13挺もの12.7mm機関銃を装備し、密集編隊の弾幕でドイツ空軍を苦しめた。さらに1944年からはP-51やP-47などがドロップタンクを装備してB-17の爆撃行に随行するようになり、護衛戦闘機の登場によって濃密な迎撃の中でも被撃墜率は7%未満に抑えられるなど、損害を減らすことに成功した。B-17は実に約64万トンもの爆弾を投下したと記録されており、ドイツの継戦能力を確実に削いでいった。
余談だが、B-17の機内にはアイスクリームを作る機械が備え付けられていた。戦闘で生じる振動により、帰還する頃には美味しくなっている事から多くの搭乗員から好まれた。
1943年6月4日、イタリアに圧力をかけるためシチリア島爆撃に向かったB-17の編隊があった。作戦後、手ひどくやられたB-17はよろよろと地中海を飛行していた。すると背後から機影が迫った。敵、と思いきや正体は味方のP-38だった。安堵した乗員たちはそのP-38に護衛を依頼すると、快く承諾。しかし間もなくして機体に激しい振動が襲った。なんとP-38がこちらに一斉射しているではないか。満身創痍だったB-17はトドメを刺され、そのまま海へと墜落した。実はP-38は鹵獲機で、イタリア軍のパイロットが運用していたのだった。これまでにも数機のB-17が餌食となり、乗組員は全滅していた。今回、一人だけ奇跡的に助かった事で鹵獲機の存在が露わになった。
太平洋での戦いと鹵獲されたB-17
太平洋戦争開戦時、フィリピンやオーストラリアなどにE型を中心に少数のB-17が配備されていた。しかし日本軍の電撃的な侵攻作戦を前に目立った活躍が出来なかった。
1941年12月8日、真珠湾攻撃が行われた。この報告を受けたフィリピン駐留アメリカ軍のブレリトン少将は、B-17を以って日本の航空基地がある台湾の爆撃を具申したが、天候不順と濃霧を理由にマッカーサー司令が中止を命じた。これが仇となり、日本側に先手を打たれた。濃霧の隙を突いてきた零戦隊がフィリピン上空に現れ、クラーク及びイバ飛行場に駐機していたB-17爆撃機35機中18機が地上撃破されてしまった。開戦前にミンダナオ島のデルモンテへ二個飛行隊が移動していたため、被害を免れたB-17は侵攻して来る日本艦隊攻撃に差し向けられた。しかし台湾に最も近く、B-17の発着も出来るクラークフィールドが破壊された影響で台湾を爆撃する事は不可能になった。
1942年1月4日、占領したダバオのマララグ湾に展開していた日本艦隊を爆撃。停泊していた重巡妙高を中破させる戦果を挙げたが、一方でアメリカ国民に無敵の高性能機だと喧伝されていたB-17は日本軍機に撃墜されてしまい、軍上層部に衝撃を与えた。この頃に戦果誤認と熱狂するマスコミによる伝言ゲームの結果在比米軍のB-17が「戦艦ヒラヌマ(架空の艦)を撃沈」「戦艦榛名(当時マレー沖に居た)に特攻をかけて撃沈」と様々な誤報が出回り、戦死したB-17の搭乗員コリン・ケリー大尉が英雄に祀り上げられた。その後も戦争中期までは日本軍拠点への爆撃や偵察を担い、また珊瑚海開戦やミッドウェー海戦など初期の主要な海戦の際も日本艦隊に対する爆撃を試みたが、零戦ではほとんど追いつくことができなかった高高度からの対艦爆撃は撃墜されるリスクが極めて低かったものの、爆撃の命中率も1%未満と散々だった。具体例を挙げると、6月5日に行われたアリューシャン沖での戦闘では5機が日本艦隊を攻撃したが、命中弾はゼロだった。同時期に行われたミッドウェー海戦においても南雲機動部隊に攻撃を仕掛けたが、全て外れている。
ガダルカナル島を巡る戦いでは、B-17は拠点爆撃や哨戒に奔走。日本側の作戦に制約を課した。ガ島近海で遭遇した九七式飛行艇を圧倒したという記録も残されている。1942年10月4日、第17爆撃隊所属のB-17がショートランドを爆撃。この時、迎撃に上がった水上機母艦千歳所属の零式水上観測機に主翼を切断され、撃墜されている。新鋭とはいえ水上機に重爆撃機が敗北した希有な例と言える。
夜間爆撃にも従事し日本軍拠点のラバウルを執拗に攻撃したが、斜銃装備の月光の出現により被害が出るようになってきたため中止された。太平洋戦線にはB-17より航続距離が長いB-24の方が適していると判断されたため既に1942年中には機種交代が始められており、ごく少数の救難機や偵察機を除き、1943年中にはB-17は太平洋戦線から姿を消している。
なお、開戦時フィリピンに在機していたB-17はD型が1機、E型が2機完全な形で日本軍に鹵獲されている。鹵獲されたB-17は陸軍研究所などで解析されたり、日の丸に塗り替えてテスト飛行をしたり、鹵獲機を集めた全国行脚に加えられたりした。緒戦の日本軍戦闘機にとってB-17の防弾性能は非常に厄介で中々撃墜させられなかったが、鹵獲機を使った模擬戦で弱点や防御銃座の死角が研究され、多数のB-17が零戦に撃墜されている。また解析で得られたデータや構造設計は陸海軍の様々な重爆撃機の開発に応用されたがいずれも幻に終わり、海軍の四発陸上攻撃機である連山だけが唯一試作機の完成までこぎつけたが、量産されることなく終戦を迎えている。強力なB-17に対抗すべく双発機天雷の開発がスタートしたが、試作機を6機作ったところで開発中止。終戦まで残ったのは6号機だけだった。ドイツ軍も鹵獲したB-17を模擬戦や特殊任務に用いた他、機体性能の優秀さから輸送機としても使用した。
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関連項目
脚注
- *「アメリカ空軍の歴史と戦略」源田孝 芙蓉書房出版 2008 pp.38-39
- *「巨人機ものがたり (別冊航空情報)」 酣燈社 1993 pp.92-93
- *「ドイツ本土戦略爆撃」 大内健二 光人社FN文庫 2006 p.132
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