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高木豊(たかぎ ゆたか、1958年10月22日-)とは、山口県出身の元プロ野球選手(二塁手)である。現役時代は横浜ベイスターズ、日本ハムファイターズに所属。
概要
OB | |
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高木豊 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県山口市 |
生年月日 | 1958年10月22日 |
身長 体重 |
173cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 二塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1980年ドラフト3位 |
引退 | 1994年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
多々良学園高校、中央大学を経て、1980年のドラフト3位で横浜大洋ホエールズに指名され入団。同期入団に市川和正がいた。
横浜時代
1981年(1年目)は控え選手だったが4月から一軍で起用され、外国人選手が外れてサードの田代富雄がファーストに回る機会が増えた後半戦からはサードでスタメン出場する機会も増えた。
関根潤三に監督が交代した2年目の1982年、基満男の控えとしてセカンドを守っていたが、後半戦に突如外野手にコンバートされて先発出場を続けた。
1983年は開幕スタメンこそ基に譲ったものの、2戦目にセカンドで先発出場してからはそのままスタメンに定着した。前半戦は2番打者、後半戦は1番打者としてチームを引っ張り、自身初の3割にしてリーグ6位となる.314の高打率を記録した。盗塁も27記録している。また、初のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)にもセカンドで選出された。
1984年は開幕戦こそショートで出場したが、2戦目からはセカンドに戻った。打率はやや下げた(.300ジャスト)ものの、56盗塁を記録し初の盗塁王に輝いた。高木を育てた関根監督はこの年、チーム不振の責任を取る形で辞任した。
近藤貞雄が監督に就任した1985年、ショートの山下大輝とのポジションの入れ替えが行われ、また加藤博一、屋鋪要と共にスポーツカートリオ(スーパーカートリオ)の一員となった。タイトル奪取はならなかったものの3年連続の3割にしてリーグ6位となる.318の高打率を記録し、盗塁も42記録した。また、初のベストナインにもショートで選出された。
1986年は後半戦に加藤博一が故障し、スーパーカートリオが崩壊した。4年連続の3割にしてリーグ6位となる.310の高打率を記録したものの盗塁は24に激減した。
1987年からは古葉竹識が監督に就任し、セカンドに戻された。打率3割は途切れ、チーム成績同様個人記録も冴えなかった。
1988年は2年ぶりの3割にしてリーグ5位となる打率.300を記録したものの、やや欠場が多い年となった。
1989年はボロボロのチーム状態と呼応するように成績も低迷し、レギュラー定着後最低となる低打率に終わった。
1990年からは入団当時の二軍監督であった須藤豊が監督に就任した。この年もやや欠場が多かったものの、チームメイトのパチョレックに次ぐリーグ2位の高打率.323を記録した。2回目にしてセカンドとしては初となるベストナインにも選出された。
1991年は全試合に出場し、リーグ3位の高打率.333を記録。2年連続3回目のベストナインにも選出された。
1992年はシーズン途中で須藤が辞任するなどドタバタはあったものの、2年連続で全試合に出場し、リーグ10位となる打率.300を記録した。ただ、大事な場面で打たずどうでもいい場面での固め打ちが目立ったのも事実で、フロントの評価は低く年俸調停を申請する事態となった。
近藤昭仁が監督に就任した1993年、守備範囲が狭くなったことを理由にサードにコンバートされた。しかし弱肩でエラーを連発し、5戦目からファーストにコンバートされた。レギュラーの座こそ守り続けて全試合に出場したものの成績は低迷し、この年のオフに屋鋪、山崎賢一、市川和正、大門和彦と共に自由契約を通告された。当時は球団に対して否定的な意見が目立ったが、あの解雇はチームが強くなるためには必要だったと評価する意見も現在では増えている。
日本ハム時代
その後「親分」こと大沢啓二監督に拾われ日本ハムファイターズに移籍するものの、出場機会に恵まれないまま1994年に現役を引退した。
通算成績は実働14年で1628試合、1716安打、打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。通算8回の打率3割は球団新記録であった。二塁守備でも名手として知られ、1987年には二塁手として守備率のプロ野球記録となる.997を達成している(ところがこの年ゴールデングラブ賞に選ばれず、物議を醸した)。
引退後
一時芸能人に転向したが、その後野球解説者になる。
2001年には横浜の内野守備走塁コーチに就任したが、「機密情報を漏らした」として1年で退団に追い込まれている。その後アテネ五輪野球日本代表の内野守備走塁コーチを務め、2012年からは横浜DeNAベイスターズのヘッドコーチに就任。中畑清監督とはアテネ五輪以来のコンビとなった。チームの最下位の責任を取る形で2013年からはチーフ兼打撃コーチに配置転換となり、その年のオフに退任した。
2018年からはYiouTubeチャンネルを開設し、元プロ野球選手史上初のYouTuberとなった。
人物
3人の息子は全員サッカー選手で、「高木三兄弟」と呼ばれ、長男の高木俊幸(浦和レッズに所属)と次男の高木善朗(清水エスパルスに所属)はプロとして活躍している。そのため「サッカー通の野球解説者」とも呼ばれ、レギュラー出演していたフジテレビの「すぽると!」では本職の野球のほかにサッカー解説を担当することもあった。
成績
通算打撃成績
通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1628 | 6711 | 5782 | 877 | 1716 | 316 | 40 | 88 | 545 | 321 | 99 | 44 | 747 | 39 | 816 | 79 | .297 | .378 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | ||
---|---|---|
最多盗塁 | 1回 | 1984年 |
表彰 | ||
ダイヤモンドグラブ賞 | 1回 | 1983年 |
オールスターゲームMVP | 1回 | 1985年 |
ベストナイン | 3回 | 1985年、1990年、1991年 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 8回 | 1983年-1986年、1988年、1990年-1992年 |
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関連項目
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- 北海道日本ハムファイターズ
- 中畑清
- 屋鋪要
- 駒田徳広
- アートネイチャー - CMキャラクターを務めた。
外部リンク
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