高橋直樹とは…
この項では1.について取り扱う。
- プロ野球選手一覧 > 高橋直樹
高橋直樹(たかはし なおき)とは、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手である。
概要
OB | |
---|---|
高橋直樹 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 大分県佐伯市 |
生年月日 | 1945年2月15日 |
身長 体重 |
183cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1967年ドラフト3位 |
引退 | 1986年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
津久見高等学校へ進学。3年夏には甲子園大会に出場したが、1回戦で敗退している。
大学は早稲田大学に進学。12試合に投げて2勝2敗の成績を残す。1967年ドラフト3位で東映フライヤーズから指名された。
だが、プロで通用する自身のなかった高橋は交渉権を保留したまま日本鋼管に入社。日本鋼管では1968年の都市対抗野球大会にエースとして出場。後にヤクルトのエースとなる松岡弘相手に投げ勝っている。その後、ドラフト入団の最終期限であったこの年の10月に入団を決めた。
1年目の1969年から先発ローテーションを任され、13勝13敗、防御率2.42の成績を残す。
1974年は9勝11敗と負け越すも、1試合で勝利とセーブ両方を記録するというNPB唯一の珍記録を達成(ルール改正により現在では達成不可能)。
1975年、17勝13敗、防御率2.95と好成績を残し、チームのエースピッチャーとなる。
1979年、20勝11敗、防御率2.76とキャリアハイの成績を残す。リーグ最多の21完投に加え、パ・リーグ記録の無四球試合11を樹立した。
1981年、江夏豊とのトレードで広島東洋カープに移籍。江夏の代わりということで抑えの役割を求められたものの、セ・リーグのリズムに合わず、2シーズンでわずか2勝に終わる。
1982年途中、トレードで西武ライオンズに移籍。移籍直後に2勝を挙げル活躍を見せ、西武移籍初年度は7勝をマークし優勝に貢献。広岡達朗監督からは「(移籍直後の2勝は)1000万の価値がある」と称賛された。
1983年には開幕投手を任されるなどローテションの中心を担う。シーズン途中には11連勝を記録し、最終的には13勝3敗、勝率.813をマーク。自身初の個人タイトルとなる最高勝率のタイトルを獲得した。
1986年読売ジャイアンツに移籍。しかし、わずか4試合の登板に終わりこの年限りで現役を引退した。
引退後は野球解説者として活動した後、横浜ベイスターズの投手コーチを2年務めた。
その後、メジャーリーグ中継の解説者を務めた後、カンザスシティ・ロイヤルズの投手コーチに就任し、MLB初となる日本人コーチとなった。
帰国後はメジャーリーグ中継の解説者に復帰し、流通経済大学のコーチも務めた。
人物・エピソード
長身を折り曲げるような独特のサイドスローから、多彩な変化球や抜群の制球力で打者を打ち取る技巧派。時にはアンダースロー気味に投げたりスリークォーター気味に投げたりと、変化をつけることもあった。
他の選手のフォームや球種を観察し盗むことによって多彩な変化球を身に着けていった。
ヒゲとメガネがトレードマークであり、ヒゲは1979年頃から生やし始めた。理由としては、北海道に行った際、日ハムのエースだったにもかかわらず誰も高橋のことを知らず、一方で巨人の選手は二軍の選手でも知っていることにショックを受け、特徴が必要と思い生やしたとのこと。
学力が高く、高校入試はトップの成績で合格。早稲田大学にも一般入試で合格している。
成績
通算投手成績
通算:18年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 493 | 141 | 23 | 169 | 158 | 13 | --- | .517 | 2872.2 | 473 | 1391 | 1204 | 1060 | 3.32 | 1.11 |
タイトル・記録
関連動画
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt