龍造寺長信単語

リュウゾウジナガノブ
1.4千文字の記事
  • 1
  • 0pt
掲示板へ

「龍造寺長信」りゅうぞうじ・ながの1539 1603)とは、肥前クマー龍造寺隆信の同で、衰退した龍造寺の為にに従って各地を転戦し、有馬氏や松浦氏への備えとして西肥前に展開して、龍造寺氏の勢力拡大に貢献したものの、の戦死の後は、鍋島直茂政をしきり、実権を得ていく事に対抗できず、最終的に鍋島氏への龍造寺氏の権限委譲を認めたクマ

概要

龍造寺の子に生まれる。龍造寺隆信と同だった為、異龍造寺信周よりも中での扱いは上だったといわれ、不幸定評のある大内義長偏諱を受けて龍造寺長信と名のった。

滅亡フラグはここか?

竜造寺氏により滅亡に追い込まれた少弐氏に同調した多久宗利を降した際に、多久氏の居・梶峰として龍造寺長信が着任したが、その後、一度は龍造寺氏と敵対した小田の子で赦免された小田に梶峰を譲ると、龍造寺長信は小田氏の居を自らの居にした。

※なお龍造寺長信の妻は小田である。

その後は、戸・原方面に展開して有馬氏や松浦氏に備え、大江神大神宮の再寺や岩軒寺の建立といった伝統的な宗教勢力との良好な関係を築くことにあたって龍造寺氏の領統治の安定を図ったが、龍造寺隆信沖田畷で島津家久釣り上げられて五人揃って四天王と共に戦死すると、の子で病弱定評のある龍造寺を補佐した。

龍造寺徳川家康許可を得て、政治的権限を鍋島直茂に移譲してすると、後を継いだ龍造寺高房の元、鍋島氏から権限の返還をめる動きがあったが、江戸幕府によって聴取の為に、異龍造寺信周や一族の龍造寺と共に呼び出された龍造寺長信は、鍋島直茂息子龍造寺賢康(のちの多久安順)に娶らせる等、鍋島氏との関係を強化していたこともあってか、肥前の支配を鍋島氏が行うことを承認した為、肥前は正式に鍋島氏のものとなった。

こうして龍造寺戦国大名から消え去るのにあわせて、龍造寺長信の一族は多久姓を名のるようになり、後多久氏の祖となった。

その他「龍造寺長信」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。exit

関連動画

▼異龍造寺信周セット扱いをうけている「律子の野望」。おまえらは「ざ・たっち」か!

▼最古の信長の野望革新プレイ動画龍造寺九州定」。※通称は「龍造寺四天王憂鬱」。政治力低!

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける龍造寺長信の力一覧。

軍事 内政
戦国群雄伝 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 58 政治 47 魅力 68 野望 52 教養 63
覇王 采配 69 戦闘 61 智謀 39 政治 52 野望 43
天翔記 戦才 122(B) 智才 108(B) 政才 124(B) 魅力 64 野望 43
将星 戦闘 60 智謀 51 政治 65
烈風 采配 51 戦闘 50 智謀 53 政治 60
世記 采配 41 智謀 40 政治 48 野望 21
蒼天録 統率 46 知略 45 政治 56
下創世 統率 45 知略 46 政治 56 教養 57
革新 統率 59 武勇 51 知略 54 政治 63
統率 59 武勇 51 知略 54 政治 63
創造 統率 55 武勇 56 知略 55 政治 62
大志 統率 54 武勇 55 知略 56 内政 61 外政 58

 

関連商品

関連コミュニティ

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 1
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

ニコニ広告 (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: ivy
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

龍造寺長信

1 ななしのよっしん
2014/01/16(木) 22:37:46 ID: LxI4YNylmy
記事作成乙

鍋島に取り込まれたというより、龍造寺の重鎮だった長信たちが直茂を担いだとみるべきかもね
江戸時代を通じて佐賀龍造寺一門を祖とするが幅を利かせたし
👍
高評価
0
👎
低評価
0

おすすめトレンド