U-848とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1943年2月20日竣工。日本占領下のペナンに向かっている道中の同年11月5日に航空攻撃を受けて沈没。
概要
IXD2型は、今までのIXA~C型とは全く異なる船体を持った遠距離航洋タイプのUボートである。
IXD1型に搭載していた魚雷艇用エンジンの信頼性が低かったため、IXC型と同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に変更し、新たにMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリア近海まで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で水上速力19ノットを発揮する。IXD型はD2(前期型)とD1(貨物艦用に改修した後期型)に分かれており、U-848は28隻生産された前者に当たる。
攻撃を受けている最中、敵機に便乗していたカメラマンからK-20カメラで撮影されており、鮮明な写真が複数枚現代に残されている。そのためかUボート関連の書籍の表紙に使用される事も少なくない。
諸元は排水量1616トン、全長87.58m、全高10.2m、喫水5.35m、出力9000馬力、最大潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、最大速力20.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名または64名、燃料搭載量441トン。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、10.5cm甲板砲1門、3.7cm甲板砲1門、2cm対空砲1門。捕虜の証言によるとU-848には一人乗り用ローターカイトであるフォッケ・アハゲリスFa 330が装備されていた。
戦歴
1941年1月20日発注、1942年1月6日にブレーメンのヴェーザー社で1054番船の仮称を与えられて起工、10月6日に進水し、1943年2月20日に無事竣工を果たした。
艦長にはヴィルヘルム・ロールマン大尉が着任。彼はU-34艦長時代に英駆逐艦ホワールウィンドと潜水艦スピアフィッシュを撃沈し、騎士十字章を授与された上、第2潜水艇教育訓練師団の教官を務めた経験豊富なベテランであった。竣工と同時に訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。シュテッティンを拠点にバルト海で慣熟訓練に臨む。8月1日よりボルドーに本拠を置く第12潜水隊群へと転属した。
司令塔には地球儀の絵が描かれ、その周りにはラテン語で「et quo volverunt!(そして彼らはどこに転がったんだ!)」と記入。このエンブレムを使用したのはU-848だけであった。
大西洋での通商破壊作戦に行き詰まりを見せていたドイツ海軍は、同盟国日本の協力を得て、日本占領下ペナンに新たな基地を設けてモンスーン戦隊を新設、連合軍の対潜警戒が甘いインド洋で通商破壊を行おうとしていた。1943年6月より第一波11隻が逐次出撃してインド洋へ向かったが、連合軍の卓越した対潜技術や哨戒網によってU-200、U-506、U-509、U-514、U-533、U-843が撃沈され、U-516はフランスに引き返し、無事ペナンまで辿り着いたのは4隻だけだった。
損失を補うべくU-848を含む第二波5隻がペナン行きを命じられる。
9月18日、モンスーン戦隊に合流するため第二波の第一艦としてキールを出港。9月20日から翌21日にかけてドイツ占領下ノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港して燃料と物資を補給したのち、ノルウェー南西部、アイスランド・フェロー諸島間を通って北大西洋に進出、このまま南下を続ける。
10月5日夜、U-848は位置情報をBdUに送信した後、敵水上艦から爆雷攻撃を受けたが何とか切り抜ける。同時期、BdUはアゾレス諸島近海を航行していたU-848へ向けて、「アゾレス諸島が連合軍に占領された」という警告信号を送り、たまたま近くにいたU-841も偶然受信した。というのもアゾレス諸島は去る8月8日にイギリス軍が進駐し、北緯30度以北の大西洋は連合軍の分厚い航空哨戒に覆われていたのだ。余談だがU-841は10月17日に撃沈されている。
11月2日15時40分、アセンション島北西で、鉄鉱石を運搬しながら単独航行中の英武装貨物船バロン・センプル(4573トン)を雷撃により撃沈。船長、乗組員55名、砲手6名、すなわち乗組員全員が戦死した。後の生存者はこの時の様子を「3000トンの船がこんなに美しく沈んでいく」と語った。撃沈戦果をBdUに報告するU-848であったが、この通信を連合軍に傍受された事で、アセンション島のアメリカ軍が警戒態勢に入り、すかさず刺客が送り込まれる。
ちなみに11月中にUボートが撃沈した連合軍船舶は僅か6隻(2万3000トン)だけであった。
最期
1943年11月5日午前11時10分、アセンション島の航空基地から飛び立ったB-24が、アセンション島南西約550kmにて、15ノット以上の速力で東進しているU-848を発見。付近の哨戒中の味方機を呼び寄せるとともに奇襲を仕掛けてきた。奇襲を受けたからか甲板上には十分な人数がいたにも関わらず満足に対空砲火を上げる事が出来なかった。
奇襲から立ち直ったU-848は激しい対空砲火を撃ちかけるが、3回の投弾、12発の爆雷投下でU-848は損傷させられ、大量の燃料を血のように垂れ流しながら潜航不能に追いやられる。それでも決死の反撃で1機の左側垂直尾翼に命中弾を与えて小規模な火災を生じさせた。
燃料を流失しながらもU-848は南方に舳先を向けつつ、4~5ノットの速力でよろよろと逃走しようとする。そこへ容赦なく機銃掃射と爆弾が浴びられた。13時30分に針路を西に変更、20分後には敵機2機から5発の投弾を受けるも、幸い被害は殆ど無かった。艦内では応急修理が行われ、15時15分に漏油が止まって速力が10~12ノットに上昇。15時45分、B-25が高度1200mより爆弾を投下、しかしあまりにも高度が低かったためか、炸裂する前に海中へ没して全て失敗に終わる。
16時55分、B-24が2回の接近で9発の爆弾を投下、この攻撃でU-848はトドメを刺され、17時2分にとうとうバラバラに艦体を砕かれて沈没。沈むまでにB-24爆撃機リベレーター3機とB-25爆撃機ミッチェル2機による合計10回に及ぶ波状攻撃を受け、爆雷33発と爆弾12発が投弾されていた。生存者約20名は3隻の救命艇に分乗して脱出したが全員行方不明となった。敵機は付近の商船にU-848の沈没地点を知らせ、救助要請を行ったところ、ある商船から受信を伝えるメッセージが届けられたが、結局商船は遭難海域に現れなかった。
1943年に失われたUボート199隻のうち140隻が航空機によるものであり、いかに航空機がUボートの脅威であったかを物語っている。またペナン行き第二波のうち目的地まで辿り着いたのはU-510ただ1隻のみだった。
12月3日18時、米軽巡洋艦マーブルヘッドが救命いかだに乗って漂流中の生存者、瀕死の重傷を負った主任操舵手ハンス・シャーデを救助。翌日マーブルヘッドがブラジルのレシフェに入港した際に陸上の海軍病院へと搬送された。しかし彼は錯乱ないし昏睡状態に陥っており、彼の意識を戻すためにあらゆる手段が講じられた結果、およそ15分間だけ正気に戻り、その間に尋問を受けて再び昏睡状態となった。そして12月5日に最後の生存者が亡くなった事で艦長を含む63名全員が戦死。翌6日、彼はサント・アマラ墓地にて軍葬を以って手厚く葬られた。
ハンスの証言を得られるまでアメリカ軍は「11月5日に撃沈したのはU-195なのでは?」と思っていたとか。
関連項目
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