どうしてこうなった(野球選手) 単語

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どうしてこうなった(野球選手)とは、全盛期と現役晩年・不調時の活躍の差がしいプロ野球選手のことをして言う言葉である。

概要

本項ではに、以下のような選手を挙げる。

  • チーム優勝時などには大活躍をしていたのにもかかわらず、一転して不調に陥った
  • 将来を期待されていたにもかかわらず、その期待通りの活躍ができずじまいだった
  • 力の衰えや度重なる怪、他球団の研究により、全盛期べて見違えるように変わってしまった

主な「どうしてこうなった」選手達

太字は現役。投手水色捕手黄色内野手外野手

名前 所属球団 理由
鈴木尚典 横浜1991年-2008年 1997年1998年首位打者き、順満帆かと思いきや、四番起用という球団からの無茶振りしてか、2001年ごろから調子を落とし、いつの間にかセカンドラーになってしまった。
斉藤和巳 ダイエー
ソフトバク(1996年-2010年)
沢村賞2回、最優秀防御率2回、最高勝率3回、最多奪三振1回、ベストナイン2回とまさにホークスエースとして君臨も、2008年以降は怪2年連続で一軍・二軍とも登板なし2010年にはタレントとの交際をスクープされ厳重注意を受け、球団からのコーチ就任の打診を受け入れ一時的な現役引退状態になっていた。
して2013年に現役復帰を諦め、正式に引退することを表明。
清水隆行 巨人1996年-2008年
西武(2009年)
2002年最多安打スタンドの観客が逃げるほどの弾丸ライナーは晩年まで健在も、打撃不振や怪でこちらもセカンドラーになってしまった。
今岡誠 阪神1997年-2009年
テ(2010年-2012年)
2003年首位打者2005年打点王2005年まで阪神看板選手としてプレーしていたが、怪や打撃不振、若手の台頭により、レギュラー剥奪戦力外全盛期には想像もできない苦労人となってしまった。
岩村明憲 ヤクルト1997年-2006年
ズ(2007年-2009年)
パイレーツ(2010年)
アスレチッス(2010年)
天(2011年-2012年)
ヤクト(2013年-2014年)
福島ホース(独立)(2015年-)
ヤクルト時代にベストナイン2回ゴールデングラブ賞6回受賞し、MLBに移籍した後も、1番打者としてチーム勝利に貢献し、ワールドシリーズにも出場。2009年にはWBCにも出場した。しかし2010年から打撃不振に陥り、2011年から楽天日本球界復帰するも、楽天では103試合、打率.190、1本塁打、14打点という別人のような成績を残し、戦力外通告を受けた2015年独立リーグ福島ホープス選手兼任監督に就任。2016年には球団代表も兼任へ。
松坂大輔 西武1999年-2006年
レッドソッス(2007年-2012年)
ツ(2013-2014年
ソフトバク(2015年-2017年)
日(2018年-)
甲子園での活躍から平成怪物と呼ばれ、鳴り物入り西武へ入団。プロ入り後もルーキーイヤーに16勝を上げ最多勝新人王を獲得。以降は西武の絶対的エースとして活躍した。
一回WBCでは日本エースとして大会最多勝となる3勝、防御率1.38の成績を残し、第一回WBCMVPを獲得。2006年オフポスティングを行使、交渉権60億、6年契約61億の大契約MLBへ移籍した。
メジャーでも2007年15勝2008年18勝を上げ、2009年WBCでも日本優勝に貢献し、2大会連続MVPに選ばれた。
しかし以降は故障も重なり思うような活躍ができず、2014年オに放出。
2015年からは王貞治の鶴一声もあり3年12億大型約でソフトバンクへ移籍。9年ぶりの日本球界復帰となったが、度重な怪我に見舞われ、投球練習すらできない状態に。8月に右肩関節唇の修復手術を行い、結局一軍登板はなかった
手術明けの2016年も開幕直後に風邪を引き、5に登板した広島2軍戦では1回2/3 9失点ノックアウト。その後本人が右手違和感を訴えたため、実戦登板は行わずリハビリを重ねる日々。
楽天戦(シーン最終戦)で登板したが、元同僚の松井稼央に死球、1暴投5失点と散々な復帰戦となった。前述の型契約にも関わら、二軍ですらろくに登板できなかった姿から平の怪物の影はなく、2017年シーズン終了後、ソフトバンを自由契約となる。その後は中日ドラゴンズが獲得を表明し、入団テストで合格し入団した。
2018年のシーズンが始まると、4月30日のDeNA戦で4241日ぶりの勝利オールスターファン投票1位選出と、一軍と二軍を行き来しつつも先発として戦力になり、最終的に11試合の登板で6勝4敗、防御率3.74と復活を果たした。
G.G.佐藤 西武2004年-2011年
ボローニャ(イタリア)(2012年)
テ(2013年-2014年)
2009年まではチームとして大活躍も、2010年三振が増加、本塁打6本、打率.206どまりとレギュラー獲得後では最低の成績となり、外野手の座をこの年大ブレイク高山久に明け渡してしまった。
して2011年、球団から戦力外通告をされた。その後イタリアに渡り、ボローニャに入団し活躍したが、遠征に帯同しなかったため解雇された。
小松聖 オリックス2007年-2016年 2008年15勝3敗防御率2.51で新人王、翌年のWBC選出と大活躍しオリックス2位躍進に大きく貢献。2009年開幕投手となりそのままエースとなるかと思われたが、この年は大炎上を繰り返して1勝9敗防御率7.09エースどころか先発ローテの座すら失いリリーフに配置転換など苦しんだ。
新垣渚 ダイエー
ソフトバク(2003年-2014年)
ヤクト(2014年-2016年)
2004年最多奪三振2006年まで3年連続2桁勝利を挙げるも、2007年に暴投王(ARAKAKI)になってから、持ち前の制球難が顔を出し、2010年はついに一軍登板がなかった
2014年にトレードされヤクルトに移籍したものの、セ・リーグでもARAKAKIは健在で、ファンに深い哀しみを背負わせた。
2015年には15試合に先発し、ヤクトの優勝に貢献する貫禄の9暴投で暴投王を獲得した。
佐藤剛士 広島2005年-2010年 秋田商業高校時代の3年甲子園に出場し、ダルビッシュ有(現テキサス・レンジャーズ)、木村正太(現読売ジャイアンツ)と並び、東北ビック3と呼ばれたまた、同期には横浜高校から西武ライオンズに入団した涌井秀章もいて、エースとして成長するのをもが期待した・・・はずだったのだが、一軍登板ルーキーイヤーの1試合のみ、しかもその試合で9失点するという散々な成績で、その後は二軍生活が続いた。故障が多く、2010年も肘の故障が癒えず、戦力外通告を受けた。
辻内崇伸 巨人2006年-2013年 大阪桐蔭高校時代には内最速(当時)の156キロマーク、1大会における通算奪三振は65(坂東英二の83に次ぐ2位を数えるなど、超高校級投手として全に名をかせた。すんなり行ってればダルビッシュ田中将大と投げ合っている・・・はずだったのだが、怪や制球難もあり、入団してから一軍公式戦での登板が一度もなかった。当初15だった背番号も、15→39→98と次第に大きくなり、結局2013年戦力外通告を受け、そのまま現役引退することを表明した。

他に知っている方、加筆お願いします。

「どうしてこうなった・・・」関連動画

動画の大半が全盛期の物です。ご了承ください。

その他の「どうしてこうなった・・・」選手

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