フリードリヒ・エンゲルス(1820〜1895)とはドイツの思想家である。かのカール・マルクスの盟友として有名。
マルクスにとってエンゲルスとは、親友であり、同僚であり、パトロン(経済支援者)であり、戦友であり、そして何よりマルクスの一番の理解者であった。マルクスにとってのエンゲルスは、サトシにおけるピカチュウ、ハッピーセットにおけるしょぼいおもちゃのように切っても切れない存在である。
エンゲルス、本名フリードリヒ・エンゲルスは1820年11月28日に当時プロイセン領だったラインラント州バルメンの『カスパル・エンゲルスとその息子達』という名前の商社を営む有力な紡績資本家の家に長男として生まれた(マルクスの2つ下)。要するにブルジョワ出身である。エンゲルスは文学が好きで頭脳明晰な青年であり現在でも彼が若い頃に書いた海賊の物語、宗教詩、ギリシャ風叙事詩が残っている。彼は大学への進学を希望していたが1837年彼が18歳になった時にギムナジウム(ドイツのエリート養成所、日本の高校生くらいの歳)を退学し経営者としての道を歩み始める。その後、彼はブレーメンで通信員として働きながら、地方新聞に詩を投稿して文筆家としての才能を開花させ始める。彼は一生を通じて深淵ではないが速筆を活かして多量の文章を残している。
1841年10月兵役に召集されたエンゲルスは、12ヶ月間ベルリンのクプファーグラーペンの砲兵隊に送られた。この時に彼は軍事に関して興味を覚え、これを人生の趣味とする。彼は軍務の間にベルリン大学の聴講生としてヘーゲル左派の洗礼を受けた。後、マルクスも世話になったバウアーなどのベルリンのインテリゲンツィア達と交際を持った。彼は1842年の前半に『ライン新聞』やルーゲの『ドイツ年誌』に原稿を送ったりしていた。1842年の秋に兵役期間が終わると、エンゲルスはマンチェスターの『エルメン・ウント・エンゲルス』社に勤務すべく出発した時に、彼は『ライン新聞』の事務所を訪ね、マルクスとの初対面を果たす。後に一生の友人となる二人であったが、マルクスは誰かを批判することに全力を尽くしていた時期であったし、エンゲルスもそんな奴には腹を割って話さなかったので、始めての邂逅は冷たいものであったという。エンゲルスはマンチェスターでも勤務の合間をぬって『ライン新聞』にイギリスの社会経済に関する論文を送り続けた。更にイギリスの急進主義者の仲間を見つけ、これと仲間になっている。
イギリスに来て一年ちょいが経ったころ、彼は父親に呼び戻され途中立ち寄ったパリでエンゲルスはマルクスに運命の再会を果たす。二人は意気投合しすぐに友人同士になった。人付き合いがへたくそで、ほとんどの友人とけんか別れをしていったマルクスにとってエンゲルスは唯一の一生と通じての友達であったと言えよう。エンゲルスは当時マルクスが企画していた『独仏年誌』に原稿を寄稿したが、残念なことにこの雑誌はわずか一号で廃刊になってしまった。
その後、彼は予定通り父親の経営する会社で働いていたのだが、働くことにほとほと嫌気がさしており、マルクスにグチの手紙を何通か書いている。そのストレスを彼はドイツの社会主義者モーゼス・ヘスの仲間達とつるむことによって発散していた。当時ヘスは労働者階級の利益と『我が国の工業的、農業的その他の住民の状態の容赦なき暴露』に尽くすような新しい新聞の創刊を計画していた。エンゲルスはこの時に大著『1844年における労働者階級の状態』を完成させた。この著作によって彼はイギリスブルジョワジーの集団的殺害、窃盗、その他罪を公然に暴露する。これは後のマルクスの歴史的大作『資本論』にも強く影響を与えている。
1845年エンゲルスはマルクスがパリを追放されたというニュースを耳にする。彼はマルクスが移住するために西ドイツのシンパから大金をかき集めて援助した。ブリュッセルに移住したマルクスは、パリ時代にエンゲルスが書いていたブルーノ・バウアーらとの古い論争を扱った小冊子を5倍の長さに拡大してこれを『神聖家族。ブルーノ・バウアー会社に対して』と題して出版した。これは二人の始めての共著となる。一方働くことが心底嫌になったエンゲルスは父親に直談判。息子に甘かったエンゲルスパパはこれを許したので、エンゲルスはマルクスの待つブリュッセルに飛んでいくのであった。
ブリュッセルでマルクスと合流したエンゲルスはそれからマルクスに頼まれてパリへと向かう。エンゲルスはパリでの退屈な生活と任務に勤しみながら、恋や趣味である外国語の勉強に精をだす。その後マルクスとともに『共産主義者連盟』の指導者となるも1848年の革命によりドイツに亡命、そしてドイツでも追放されスイスへと更なる亡命の旅に出る。1849年の初めにはドイツに帰ってきたエンゲルスはにバーデンとプファルツで募集された反乱軍に参加したが戦闘を一度したきりで戦争は敗北し、再びスイスへと亡命する。
1849年の終わりにスイスからロンドンへ行きマルクスと再び合流。それから彼は収入を得るために父親と和解して嫌々ながらもマンチェスターの事務員の仕事に就き、マルクスに経済援助を送り続けた。
外見に無頓着であったマルクスとは対照的にエンゲルスは人当たりのよい紳士であった。性格はハツラツとしており、変化を恐れずどんな環境にも馴染むことが出来る才能を持っていた。ミリオタであり、ディープな軍事知識を持っていたためマルクスの娘たちから「将軍」というあだ名をつけられる。学習意欲豊富で数学を初めとした自然科学や、そしてなにより人生を通して哲学と語学(古代英語、古代北欧語、ゴート語、ペルシャ語など)に熱中した。
マルクスのコミュ障ぶりを示すエピソードとして、エンゲルスが同棲中の彼女が亡くなったことをマルクスに知らせた時、マルクスは返答として「君の彼女が亡くなったのか、そりゃ残念だね。でも私も今借金生活ですごく辛いんだ。君も辛いが僕も辛い。おあいこだね。というわけで早く金を送ってくれないか?(意訳)」という手紙を送った。流石にこの手紙にはエンゲルスも怒って"四日ほど"マルクスを無視したらしい。
エンゲルスは生涯まともな職業を持たなかったマルクスに経済支援をし、自らも共著(『聖家族』、『ドイツイデオロギー』)、あるいは編纂(『資本論二巻、三巻』)という形でマルクス思想の形成に参加した。中には共著といいつつそのほとんどをエンゲルスが書いた著作もある。例えばマルクスの著作として名高い共産党宣言であるが、これを書いたのは9割方がエンゲルスである。『ドイツ・イデオロギー』も下書きはほとんどがエンゲルスによって書かれている。マルクスの思想の普及に関する貢献も大きく、マルクス用語の『唯物史観』や『空想社会主義』などはマルクスでなくエンゲルスが用いた言葉であった。
これらのことから、マルクス主義は、別名マルクス=エンゲルス主義と呼ばれることがあり、「エンゲルスの思想≒マルクスの思想」と捉えられることが多い。要は「どの本をどっちが書いたか分からないなら一緒にしちまおーぜ」ってことなのだが。
一方で現代の目線からエンゲルスへの批判も存在する。エンゲルスがいかにマルクスを信奉し、思想を汲み取っていたとしても所詮は別の人間であり、結局のところ『マルクス理論≠エンゲルス理論』という主張である。「スターリンの始まりはエンゲルス(「マルクス思想の歪みはエンゲルスから始まった」という意味)」と言われることもあり、マルクスとエンゲルスの思想を引き離して研究する動きも見られる。
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最終更新:2025/12/08(月) 11:00
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