『ドイツ・イデオロギー』はドイツの哲学者カール・マルクスが自らの「歴史観」、「経済観」そして「ヘーゲル左派に対する批判」をまとめた膨大なメモ集である。
マルクスは執筆する途中でこれらのメモ集を出版する意思を失ってしまったため、最初メモ(正確にはボーゲンという)の束は彼の書斎で「ネズミの批判」を受けるのみであった。ネズミの批判を受けるとは要するにネズミに齧られていたということであるが、それをマルクスの死後にまとめて世にだされたのが本作『ドイツ・イデオロギー』である。
ドイツ・イデオロギーの元となったメモにはページ番号がついていなかった。そのため編纂者によってページ順がバラバラであり、当然それによって受け取り方が変わってきてしまう。これを「ドイツ・イデオロギーの編集問題」と呼ぶ。最初はリャザノフ版が出版されたが、その後、リャザノフがソ連で失脚したので、アドラツキー版が広く普及することになった。歴史的には一応アドラツキー版が主流ではあるが、現在ではリャザノフ版の再評価や1960年に出たバガトゥーリャ版、さらに日本の廣松版など新解釈で編集されたものが多く出版されている。
ドイツ・イデオロギーに限らないが、マルクスの文字はひどく下手くそである。乱筆な上に乱雑な注釈が本文の隣りに並立して書かれており、メモの半分を注釈が占めることもある。その上、無関係の落書きまであったり、とどめにネズミに齧られているので読みにくさはこの上ない。マルクスの文字を読めるのは親友であるエンゲルスだけであったのだが、エンゲルスもすらすら読める訳ではなく、この遺稿の読解には苦労したという。というかマルクス本人も自分で何て書いたか読めなかったというからふざけている。
ドイツ・イデオロギーは分厚い大著であるが、基本的に問題となるのは第一巻の第一章『フォイエルバッハ』のところである。上記の編集問題でもここが重要視される。というのは、他の章はヘーゲル左派の著作について、逐次的な批判を行っているのに対して、フォイエルバッハの章ではマルクスの経済視点からの歴史観。いわゆる唯物史観が詳細に書かれているからである。その他の部分は研究者でもない限り一生読む事はないだろう。読みたい人は大学か大きい図書館にいってマルクス全集を探してみよう。
タイトルにある『イデオロギー』とは現在よく使われる意味の「政治的思想」ではない。ここでいうイデオロギーとは「虚偽意識」「観念的存在」つまり「実在しないもの」のことを指している。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』の中で、当時の社会の「実在するもの=本質」と「実在しないもの=イデオロギー」の転倒について解説する。イデオロギーがはびこるドイツ社会を批判し、現実的かつ実践的な問題の能動的解決の重要性を示す本書。マルクスが目指したのはまさに実践的で能動的な運動、つまり共産主義革命である。
以下に『ドイツ・イデオロギー』のフォイエルバッハの章を扱っていくが、先述したようにこの論文は元々はバラバラのメモを無理やり書籍にまとめただけであるため、前後に文章が繋がっていなかったりもするので注意。また、読解の助けになるように、文章の区切りにおいて自分の判断で小見出しをいれておいた。これも本文には載っていないものなので留意してもらいたい。
人間の本質はヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)がいうような神ではない。彼らの主張は観念論である。しかしそんな幻想がドイツでは支持されてしまっている。本書の目的は彼らヘーゲル左派の正体を暴く事にある。
ヘーゲル左派たちが哲学を武器に戦っている相手は、現実の影である。彼らは現実そのものではなく、空虚と戦っている。ある男が「人間が水に溺れるのは重力のせいだ」と言って「故に私たちはこの観念論的な重力と戦って取り除かなければならない」と主張したとしよう。ヘーゲル左派の言っていることはこの男と同じなのだ。
ヘーゲル左派は自分たちの活動を過大視している。確かにそれはドイツで評価の高い哲学的運動であるが、所詮ヘーゲル左派は偏狭な観念論を唱えているだけにすぎない。それを明らかにするために、このヘーゲル左派の活動をドイツの外から見てみることが必要である。
私たちが前提とするのは空想の世界ではない。私たちの前提は現実的な世界、すなわち物質的な生活諸条件である。
全ての人間史において、第一の前提になるのはもちろん、生きた人間である。したがって、人間史を見るにあたりまず最初に視線を注ぐべきは、この生きた個人の物質的組織と、自然に対するそれらの関係である。物質的組織とは、1人の人間が生きていくために必要な食べるもの、住む場所、その他の必要物資であり、自然との関係とは、それらを自然の中からどのように獲得するかの様式である。全ての歴史研究は、このような人間の生存の基礎となる自然と、その自然に対する人間の行動、そしてその両者の変形の観察から始めなければならない。
観念論者は、人間と動物を区別するものは「意識」や「宗教」だと言うが、これは間違っているだろう。真に人間と動物を区別するものは、「生活手段を生産しているか否か」である。人間は生活手段を生産することによって、間接的に自分たちの現実的、物質的生活を生産している。
人間が生活手段を生産する様式は、とりあえずは彼らが今現在生産している生活手段に依存する。原始時代には原始時代の生活にそった生産をし、中世には中世の生活にあった生産を人間は行う。生活手段の生産は、個人の肉体的存在の再生産、つまり個人がただ生きていくことだけを目的としない。生活手段の生産は、その個人の生命全ての表出なのである。これは「人間という存在は、自らが生み出す生産物と等しいものである」ということを意味する。生活手段の生産は人口の増加と共に始まり、その増加は人と人の間で起こった交通[1]を前提とし、この交通の形態は再び生産によって発展する。つまり生産と交通はお互いに影響を与え合っていることになる。
ドイツのヘーゲル左派はヘーゲルを批判するフリをしつつも彼に依存し、ヘーゲル哲学の根本的な批判はけして行わなかった。
彼らのヘーゲル批判、あるいはヘーゲル左派同士での論争の仕方はいつも一緒である。ヘーゲル哲学体系の中からお好みのカテゴリーを一つ取り出して、それをヘーゲル哲学全体と戦わせたり、他の者が取り出した別のカテゴリーと戦わせたりするだけだ。最初は「自己意識」のような純粋にヘーゲルな哲学カテゴリーが取り上げられていたものの、後には「類」とか「人間」[2]とか「唯一者」[3]みたいな俗っぽい名称に改名されて世に出されることになった。
ヘーゲル左派の例として、シュトラウスやシュティルナーをあげることができる。彼らの哲学批判の要点は「人間とは宗教的なものだ」ということにあった。ヘーゲル左派の論敵であるヘーゲル右派(老ヘーゲル派)はあらゆる研究対象をヘーゲルの論理に当てはめる。一方ヘーゲル左派はあらゆる対象を宗教的諸観念に当てはめる。ヘーゲル右派は観念を人間の絆であるというが、ヘーゲル左派は逆に観念を人間の絆を妨害するものだという。右派も左派も、問題の中心に「観念」を置いてしまっている時点で同じ穴の狢である。
ヘーゲル左派は大言を吐いているが、彼らのするのはせいぜいキリスト教的な理論を打ち立てることくらいである。そこに哲学的な発展はない。彼らの中に一人としてドイツ哲学とドイツの現実の関係についての問題意識を向ける者はいなかった。
ある国の発展具合をもっとも明瞭に示すのは、国内の分業と国外の交通の発展具合である。分業と交通が発展している国は、国そのものも発展しているといってよい。
農業は、工業的労働と商業的労働に分業され、都市と農村はそれぞれ役割を分け、その上でそれぞれに利害の対立を発生させる。そうして分けられた各分野の中にさらに分業が発生し、それに交通を通じて分業はさらに広げられていく。
それでは、ここで人類史を「分業の発展」と「所有の形態」という観点から見ていくことにしよう。
人類史における所有の第一形態は人々が牧畜や農村、あるいは狩猟を行っている「部族所有」である。私的所有はなく、公的所有がメジャーな時代である。地球には未開墾がたくさん残っていて、分業もほとんど進んでいない原始時代。社会は家族の延長線上にあり、家父長的部族長が家族と奴隷を支配する。このような社会がたくさんの戦争と交易を経ることによって第二段階へと進む。
所有の第二段階は、古代的な共同体所有、すなわち国家の誕生による国家の所有である。これは家族的に暮らしていた部族たちが、平和的に結びついたり、あるいは侵略によって統合した古代社会だ。この段階ではまだ奴隷制が存続し、私的所有も発展し始めているものの、それはまだ公的所有に制限されたものである。とはいえ曲がりなりにも私的所有が生まれたことにより、民族共同体の力は弱まることになる。分業は既にかなり発展し、社会の各部署は利害対立を生み始める。自由市民と奴隷の階級が形成され、私的所有の強まりと共に、ブルジョワとプロレタリアの分離の萌芽が起きる。
第三の段階は、封建的所有、または身分的所有である。第二段階の古代が都市から始まったとすれば、この第三段階は農村から始まった。封建的所有もまた共同体所有に基づいているが、ここでは古代のように奴隷ではなく、小作農たちの所有が社会の基礎となる。貴族たちは土地所有による自らの特権階級を固定するために、武装騎士団を編成し、農奴への支配力を維持した。直接に生産を行う奴隷と農奴階級を抑圧するという点では古代と似ているが、古代よりも発展した生産諸条件(生産の仕組み)がその所有形態の違いを生み出している。
農村がこのような所有をしている一方で、都市では同じく封建的所有として、同職組合的所有(ツンフト)が発展することになった。ツンフトは職人の数を都市内で制限し、徒弟制度をとることによって階級を固定し、封建化する事に成功した。
以上の農村の農奴制度と、都市でのツンフトによる徒弟制度が封建時代における主要な所有の形態であった。この農村と都市の所有形態は、中世の未熟な生産諸条件。つまり農耕や手工業技術の未発展によるものであった。この段階では分業はほとんど発展せず、土地貴族達は封建的王国に統合され、自分たちの上に王を頂くことになった。
分業 |
所有形態 |
社会形態 |
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第一段階 |
部族所有 |
ほとんど進んでいない |
公的所有 |
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第二段階 |
国家の所有 |
かなり発展している |
|||
第三段階 |
封建的所有、身分制所有 |
以上のことから「社会や国家というものは、労働者(生産者)個人から生まれる。しかし労働者はその社会や国家の政治の下で活動している」ということができる。そこにはヘーゲルやその弟子達(ヘーゲル左派)が言うような観念や思弁は一切存在しない。
観念や思弁が生み出される行為は、物質的な人間たちによる物質的な活動、つまり現実的な生活の中の、やはり物質的な「言語」の中に組み込まれている。政治、法律、道徳、宗教といった精神的生産についても同じことがいえる。あらゆる精神活動は物質的制約を受けた現実の人間から生まれるものなのだ。
ドイツの哲学者たちは逆に「観念から人間や物質が生まれる」という。これが間違いであることはもう明らかであろう。精神活動はそれ自体が歴史を持ったり発展したりするのではなく、物質的人間の発展が、その現実と共に精神観念をも同時に発展させていくのである。経済条件の中で生きる現実の人間に目を向けた時、歴史学は空想から、実践的な科学になるのである。
[1]交通。普通よりももっと広い意味を持つ。人間と人間との間の物質的関係だけでなく、精神的な結びつきのことを指す。生産諸関係と言い換えられる。
[2]類、人間。ヘーゲル左派のフォイエルバッハが用いた言葉。ヘーゲル哲学においても見られる。人類の類から来た言葉で、人間の普遍性という意味。
[3]唯一者。ヘーゲル左派のシュティルナーが用いた言葉。著作『唯一者とその所有』から。[2]の語と合わせ、ヘーゲル批判のために用いられた言葉であるが、いずれもヘーゲル哲学の域は出ていないとマルクスは指摘する。
ヘーゲル左派がいうような自己意識の問題を解決したとしても、人間の解放に向けて一歩も前進しはしない。腹を空かせている人を救うために必要なのは意識の改革ではなくパンである。人間の解放は物質的世界でのみしか成し遂げられないのだ。
実践的唯物論者(共産主義者)にとって重要なのは、現実の世界を扱うことである。フォイエルバッハは一部この意識を持っていたものの、彼はほとんど物質的改革(政治活動)に興味を示してくれなかった。それではフォイエルバッハ哲学の問題点とは何であったか以下に見ていこう。
フォイエルバッハは「世界」を観察するにあたり、現実的な「ドイツ人」の代わりに抽象的な「人間」を用い、またその手段に「感性」と「直観」を取り上げた。しかし彼が「感性的世界」の「直観」をしようとしたとき、彼は必然的に「意識」と「感情」に矛盾する現実的な問題に突き当たる。そこでは彼が前提とする「感性的世界」の調和、とりわけ彼が重視する「人間と自然」の調和は脆くも崩れさってしまう。そこでフォイエルバッハは、これらの矛盾物をとりのぞくために二重の直観、つまり「明々白々なものだけと見て取るありふれた直観(全体の流れでなく、目の前のものだけを見る行為)」と、「事物の真の本質を見て取るいっそう高度な哲学的直観(より抽象的で現実からかけ離れた思索をする行為)」に逃げ込んでしまうのだ。
彼の失敗は、人間をとりまく「感性的世界」が、いずれの時代においても普遍的なものではなく、産業と社会の歴史によって生み出されたものだと気づかないことにあった。フォイエルバッハはいかなる「世界」もその前の時代が発展したものに過ぎないことを見過ごした。ヘーゲルの言う原始の観念「感性的確信」でさえも同様に、産業と商業交通によって生み出されたものなのだ。
フォイエルバッハに欠けていたものは何より「歴史」の観点であった。彼が主張するような観念的な「自然」と物質的な「人間」の対立と統一なんてものは、産業においてありふれたものであった。フォイエルバッハは自然科学者のように目の前にあるものを観察するが、しかしそのような自然科学的観点も、産業と工業の発展に影響を受けた歴史上の人間の「感性的活動」[4]によって初めて与えられるものである。フォイエルバッハは確かに人間も「感性的対象」であると発見した点で優秀な思想家ではあったのだが、彼は人間の「感性的活動」を見つける事はできなかった。フォイエルバッハ哲学の最大の問題はここにある。彼は人間を現実的な社会の中で把握できていないのだ。このせいでフォイエルバッハのいう「人間」は抽象物にとどまり、「現実的な人間」を感覚の中で認めるだけになってしまった。フォイエルバッハは「愛や友情」[5]に基づく抽象的な人間を見つけただけで、現実的な「人間の人間に対する関係」を知らないのだ。故にフォイエルバッハは、例えば重い病を負いながら過重労働に苦しむ人々を見たとしても、「より高い直観」と観念的な「類における和解」[6]に逃げ込むことしかできないのである。
フォイエルバッハは唯物論者であるが、彼は歴史と唯物論を分離させるという失敗を犯してしまった。歴史にはフォイエルバッハの知らなかった3つの前提がある。まず第一の歴史の前提は「人間は歴史を作るためには生きている必要がある」ということだ。人間が生きるためには衣食住その他が必要である。よって人間の歴史の第一は、それらの生活手段を生み出すことなのだ。この普遍法則から、歴史家が歴史を把握するとき、まっさきに見るべきはその大前提「生活手段の生産の様式」ということができる。この点でドイツ歴史学者は英仏から遅れてしまっている。
歴史の第二の前提は、人間の生物としての生存が満たされるとき、人間により高度の欲求が生まれるということである。「人間が生きる」ということは当たり前すぎるため、この新しい欲求こそがある意味で最初の歴史的行為といえる。人はまず生存しないことには歴史を作ることすらできないからだ。これに対してドイツの遅れた観念論的歴史学は、実践的な歴史を生み出さず、それ以前の空想的な先史時代について語っているだけである。
この第二の前提を踏まえる事によって、人間は自分の生命を維持することに成功すると、人口が増え始めるという第三の前提がでてくる。こうして増えた人間は「家族」という原始の社会的関係を構築し始める。増大した人間の欲求が新しい社会関係を生み出し、また人口が増えて欲求も増えていき、従属的な社会関係になっていくのだ。
以上の三つの歴史の前提は、異なる段階において発生したわけではなく、歴史の最初から現在に至るまで同時に存在するものであった。
第一の前提「労働による自己の生命の生産」、第二の前提「生殖による他人の生命の生産」。これらは歴史的段階を経て「自然的な関係」と「社会的な関係」の二重の性格を持つようになる。
「社会的な関係」というのは、大人数による労働の協力(恊働)の発生を意味している。そのため、生産様式(例えば工業)の発展段階は常に恊働の様式の発展具合と結びついていて、この恊働の様式の発展具合こそが「生産力」であるということが分かる。生産力の多寡は、社会の発展具合を決定する。よって、人間の歴史は常に工業と交易の歴史の関連の中にあるのだ。
以上に「自己の生産」「他者の生産」「社会の誕生」「恊働の誕生」という歴史の4つの側面を考察した。これによってようやく私たちは人間が「意識」を持つ事を見いだす。しかしそれはもはや純粋な意識ではなく、物質の制約を受ける精神である。というのは、意識はまず喉の動きや空気の振動を用いる「言語」という物理運動によって表されるからだ。「言語」の歴史は意識と同じくらい古い。「言語」は意識と同じく、他人とコミュニケーションしたいという欲求、必要から生まれた社会の産物である。よって、その言語によって表現される「意識」もまた最初から社会的な産物であったのだ。それは今後も変わる事はないだろう。
もちろん「意識」の始まりには社会的なものだけでなく、自分の周りにあるモノを感性で捉える意識であり、同時に人間を超越する自然神に対する意識でもある。そこに、他人と結びつく必要性という社会的な意識が加わるということである。意識が生まれた当初は原始的であったが、それが生産性の発展と人口の増大によって自然に分業という形をとる。
分業は肉体労働と精神労働の分割から真に始まる。この分業が発生すると、精神労働を担った意識は「実践の意識」から離れ、現実世界から解放されることになる。こうして意識は形而上学的な理論、神学、哲学、道徳を生み出していく。これらの空想物が矛盾したとすれば、それは現実社会と生産力の間に矛盾が生まれている事を意味する。
この矛盾は一つの社会の内部だけでなく、国家間においても発生する。例えば、イギリスやフランス人が実践的な意識を持っているときに、ドイツ人がそれとは逆の観念的意識を持っていたとする。このとき、ドイツの内部では意識の中だけの矛盾として現れるので、その思想的闘争は極めてレベルが低いものになる。
以上のことから「生産力(経済)」、「社会の状態」、「意識」の三つの契機はそれぞれ矛盾、対立するものであるという結論が導きだせる。というのは分業が発展することによって、働き生産する者と、その生産物を消費する者が別々になるという現実があるからであり、その矛盾がない社会とは分業がない世界だけだ。最も原始的な社会である家族の中でさえ、未熟ながらも「所有」[7]が存在するのだ。
さらに分業は、個人や家族間だけでなく、個人と公共の利害対立までも発生させる。人間の力の集合体である「公共」が、個人に対して対立する力となり、人々を押さえつけるのだ。つまり分業の結果、それぞれの人間は公共から強制労働をさせられる。 漁師は魚を釣ることを強制され、猟師は獣を穫る事を強制され、批評家は筆をとることを強制される。彼らはそこから逃げ出そうとしても、生きていくためには賃金のために働くしかない。
一方で、共産主義社会では、それぞれが自分の好きな領域で労働をすることができる。その社会では、計画経済により生産を社会が規制することによって、私は気の向くままに、朝には漁師として魚を釣り、昼には狩りをして獣を捉え、夜には批評家として筆をとることができる。
資本主義社社会の下では、個人は極めて強い強制力を受ける。それはまさに人間の敵なのだ。だがそれはまた次の歴史を生み出す契機となる。分業による恊働で生まれた生産力は、人間の意思によるものではなく、自然発生したものである。それゆえに分業による生産力は人間の力ではなく、むしろ人間から疎遠になり、人間の上に立つ力となる。例えば、お互いを幸福にするはずの貿易が、苛烈な国際競争において人々を疲弊させてしまうことがある。一方で、私的所有を廃止し、生産手段を皆で管理する共産主義社会であるならば、人間たちはもはや彼ら自身の生産物から支配を受けることはなくなる。需要と供給システムは崩壊し、全ての人間は神の見えざる手ではなく、自分の意思をもって生産と交換を楽しむことができるのだ。
ここまで私たちは、人間的活動の一つの側面、つまり「人間による自然の加工」だけを考察してきた。そこで次に市民社会の中にある「人間による人間の加工」について見ていこう。それは国家の起源。そして「国家」と「市民社会」の関係の考察である。
そもそも歴史とは、親から子への世代の連続に他ならない。それぞれの世代は親からもらった、親世代の経済的条件の下で行っていた活動を継続したり変化させたりする。それこそがまさに歴史なのである。
歴史というものは目的を持たない。例えば、コロンブスがアメリカを発見したのはフランス革命を起こすためであるというなんてことはありえないだろう。そんな後付けで歴史を人格化するような目的意識は歴史の抽象化である。さらに、人間の交易が活発になってくると、国際的分業が発生し、世界は普遍化していく。つまり地域史が世界史になるのだ。その結果、インドで生まれた機械によってインド人が餓死したりもする。歴史が世界史になるのは、ヘーゲルのいうような「自己意識」なんてもののせいではない。歴史が世界史になるのは、国際的な交易のせい。もっと言えば、私たち生きた人間が食べたり飲んだりするような物質的な行為が原因なのである。
歴史が世界史になるにつれて、世界市場の力はますます人間達を押さえつけるようになった。これを精神世界の謀略などというのは明らかにおかしい。しかし、共産主義革命によって現社会を転覆することができれば、私的所有が廃棄され、人間達は解放されることになる。人間の精神の豊かさとは物質的豊かさに依存するものである。そこで共産主義社会では、人々を民族や地域の制限から解放し、全世界の物質的、精神的生産物を享受することを可能にする。人間を支配する国際的分業の自然力を、共産革命によって、人間が支配する人間的力に生まれ変わらさせるのである。
さて、以上みてきた歴史観より以下の4つの結論が導き出せる。
①生産力の発展が進むにつれ、その生産力は現社会と矛盾し、むしろ社会を破壊する力となってしまう段階に至る。それと関連し、社会の負担を負わさせる階級も、生産力の発展と共に誕生していく。この階級はやがて社会の多数派をなし、社会のラディカルな改革の意識を持つようになる。その意識こそがまさに共産主義の意識なのだ。
②革命的闘争は現社会を実践的にも観念的にも支配する階級に対して行われる。
③これまでの革命闘争は、労働そのものではなく「誰がどれだけ働き、どれだけ受け取るか」という労働と分配の再編成ばかりにこだわっていた。それに対して、共産主義は、労働そのものに改革の目を向け、あらゆる支配と階級そのもの共に廃止する。というのは、この共産革命は社会の中で階級として認められていない階級によって成し遂げられるからである。
④共産主義革命を成功させるためには、大規模な人間の意識改革が必要であり、またその意識改革は革命の中だけで起こりうる。つまり革命が求められるのは、単に支配階級を倒すというためだけでなく、革命を通じて人間の意識を改革するためでもある。
宗教や哲学、道徳などといった「観念論的意識」もまた生産様式に基づく市民社会から説明することである。意識に関する問題は、精神的批判によってではなく、その問題のベースとなっている唯物的な社会関係の解決によってのみ解消できる。唯物論的な社会関係の解決とは何かというと、それは革命である。批判ではなく革命こそが観念論的問題を打破することができるのである。
歴史は精神的な自己意識な完結するのではなく、親から子へ物質的成果を受け継ぎ、作り出していく行為である。物質的成果は人間と自然との関連の中で現れる。人間は自然をつくり、自然もまた人間を作るのだ。こうして生み出された「生産力」と「交通」の発展。これこそがヘーゲル左派がいうような観念の基礎なのである。彼らがいくら「自己意識」や「唯一者」のような精神的概念を100回振りかざしたとしても、物質的条件が整っていなければ社会的変革には少しも影響を与える事はない。
これまでの歴史は現実的な生活から切り離され、超現世的なものとして見なされてしまっていた。人間生活と自然に対する関係は排除され、自然と歴史の対立が生み出される。この歴史把握では、歴史は政治と宗教の活動記録となり、幻想化する。そうして彼らは、歴史上の人物の行動は全て「政治」あるいは「宗教」に基づいているとしてしまう。しかし本当はこの「政治」や「宗教」というものは、その時代の現実的な生産諸力(経済)の生み出したものにすぎない。それなのにドイツでは歴史を純粋精神の産物と捉え、神の国などというものを夢想するが、プロレタリアにとってそんな国は存在しない。
自称共同人(共産主義者)であるフォイエルバッハであるが、彼が主張するのは「人間は互いを必要としあっている」という現実的な問題についての意識だけだ。真の共産主義者ならば現実的な事実を変革することが必要になる。確かにフォイエルバッハは現実的な問題を認めることができたという点で、他のヘーゲル左派よりも優れている。しかしそれでもまだ彼は「精神」の枠内に留まってしまっている。
フォイエルバッハは「人間の生活は、人間の本質が満足するところのものである」と言ってのけるが、それではこの社会に数多いるプロレタリアートが自分の生活に満足がいっていないとしたら、それは自分の本質であるので、彼らはじっとその生活に耐えるしかないのであろうか? その答えは否である。共産主義はそういうものではない。共産主義者は、プロレタリアートの存在を彼らの本質に、実践的活動(革命)をもってして一致させるのである。フォイエルバッハはこれができず、プロレタリアートの苦しみに目を背け、観念論的自然の中に逃げ込んでしまうのだ。
[4]感性的活動。フォイエルバッハにかんするテーゼに出てくる語。実践的な人間の活動のこと。
[5]愛や友情。フォイエルバッハ哲学においては「感性」と同義。
[6]類における和解。フォイエルバッハの著作『キリスト教の本質』に出てくる語。個人は有限であるが、類(人類全体)においては人は無限になることができるという意味。この場合は、その病人個人は病で苦しんでいても、類(人類全体)では病を克服することができる、と言ったところだろうか。
[7]この「所有」という語は、他人の労働力に対する支配力という意味である。また、分業とは私的所有と同じことを指している。その違いは前者が労働との関連であり、後者は労働の生産物との関連で言われている点にある。
歴史上どの時代でも、物質的支配者の持つ思想こそが、社会を支配する思想である。物質的生産を掌握する階級は、思想の生産も管理することが可能であり、それゆえ物質的支配者は思想・精神もまた支配することが可能であるのだ。そしてそれとは逆に、物質的生産手段を持たない人々は、頭の中の思想すら支配階級の支配下に置かれる事になる。
社会を支配する思想とは、見かけは無形だが、実際にその本質にあるのは社会を支配する物質的な諸々の関係、つまり経済である。社会の物質的生産(経済)を掌握する階級の支配力を、観念論的な表現にしたものが精神的支配となる。その意味で、いかなる歴史の社会においても、自由な意思と思考を持つ事ができるのは支配階級の者のみである。
支配階級は思考する者として、思想の生産を担い、彼らの時代の思想の生産と分配を規制する。例えばフランス革命を見てみよう。フランス革命では王と貴族、ブルジョワが社会の支配権を巡って争い、その中でモンテスキューの三権分立という思想が生まれ、今ではその学説は永遠の法則とまでいわれるようになった。
歴史の主要な力である分業は支配階級の中にも物質的労働と精神的労働の分裂を生み出した。こうして支配階級の中の精神的労働を専門とする者が現れ、彼らは思想家と呼ばれるようになった。彼ら思想家は支配階級の思想を能動的に生み出すイデオローグ[7]となり、他の支配階級の者たちはそれを受動的に受け入れる。思想家は時に反体制や反権威を掲げ、他の支配階級と対立ようなことがあったとしても、所詮は支配する側の者同士の争いである。もし支配階級の支配が揺らぐようなことがあれば、そんな階級の分裂、すなわち思想家と体制の対立はひとりでになくなってしまう。つまるところ、思想が支配階級に対抗するというのは幻想にすぎないのだ。
以上のような「歴史における諸々の思想はその時々の支配階級から生まれた」という歴史観点を失ってしまう失敗。言い換えれば、思想の背景にある歴史的条件を無視してしまっては、歴史の真の姿は見えてこない。中世の貴族社会では名誉や忠誠という思想が独立して社会を支配し、近代のブルジョワ社会では自由と平等が支配すると見なすのは誤りなのである。しかし支配階級自身は、往々にしてこのように「思想が独立して社会を支配する」という誤った考えを信じ込んでしまうのだ。
革命において、時の支配階級に挑む階級は、自分たちの利害は理論に基づく社会の普遍的利害であると宣伝し、大衆を代表するものとして現れる。というのは、革命以前の社会においてはいかなる非支配階級も等しく支配されているため、それぞれの階級の特殊性を発展させることができないからだ。よって、革命の初期はあらゆる非支配階級の利害は、支配を取り除くという意味で一致することになり、実際に革命が成功した場合は、革命に勝利した階級のみならず、他の階級の利益にもなるのである。
ただしそれは、それらの階級が支配される側から、支配する側になったからにすぎない。フランス革命でブルジョワ階級が貴族階級の支配を覆したとき、プロレタリアの中には新たな支配階級となったブルジョワの仲間入りを果たした者もいたのである。このように支配階級の交代によって新しい支配階級が生まれるのであるが、しかしそれで社会から支配・被支配の関係がなくなったわけではない。むしろその対立は深く進行し、次なる支配階級の交代、つまり次の革命ではそれまでのいかなる革命よりもさらに決定的で根本的な社会の否定と改革が求められることになる。
以上のような物質的支配階級による思想の支配を、独立した思想の支配と見なしてしまうこの仮象(錯覚)は、普通は革命の後に勝利階級の利害が、社会の利害と一致しなくなると、勝手に消えてなくなってしまう。
物質的支配階級や生産様式(経済)を無視して、ある思想が独立して社会を支配するという間違った考えでは、ヘーゲルのように思想を歴史において自己展開する「自己規定」として捉えるということになってしまう。ヘーゲル哲学のことを思弁哲学というが、ヘーゲルは著作『歴史哲学』の中で歴史を捉えるにあたり、概念の進行だけで考察し、歴史の中で真の弁神論[8]を叙述したと述べている。
こうしてヘーゲルをはじめとした哲学者は、「概念」や「思想」は哲学者が生産するものと勘違いし、ついで哲学者が歴史を支配していたというとんでもない結論に達してしまう。彼ら哲学者は歴史の中で精神の独立性を証明するために3つの徒労のような方法を用いる。
⑴彼ら哲学者の経験を根拠として、思想を物質的支配階級から切り離し、思想の支配権を確認する。
⑵連続する支配的思想の支配の間にある観念論的、神秘的な関連を示し、秩序を持ち込む。これは思想を「概念の自己規定」として捉えることによって成し遂げられる。これが可能なのはそれぞれの思想が実際に関連を持っており、それらが独立した思想だと把握され、思考によって区別されるからである。
⑶この「自己規定する概念」から神秘的な外観を取り除くため、「自己意識」という概念的な人格を与えるか、唯物論的にその概念を象徴する哲学者を立てる。彼ら哲学者は今は再び歴史の思想的支配者となるのだ。しかし、それはただのうぬぼれなのだ。
次に取り上げるテーマは社会的分業の歴史的経緯である。私たちは中世の経済からスタートして、近代に至るまでに「資本」、「分業」、「所有形態」がどのように発展していったのかを以下に見ていくことになる。そして同時にその発展には「交通」の拡大があったことも同時に確かめることにしよう。
人間が労働するときに使う生産用具には「自然成長的な生産用具」と「文明によって作られた生産用具」が存在する。生産用具とは紛れもない資本の一種であるので、資本にも「自然成長的な資本」と「文明によって作られた資本」があることがわかる。それでは、それぞれの特徴を見ていこう。
自然成長的な生産用具(資本) |
文明によって作らせた生産用具(資本) |
|
蓄積された労働、すなわち資本 |
||
個人を結びつけるもの |
||
交換 |
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分業 |
||
所有者の非所有者に対する支配 |
人格的で共同体に基づく |
貨幣という第三者を介する物的なもの |
工業と分業 |
自然に従属する小工業のみで、分業はない |
工業は分業によってのみ存在する |
私たちはこれまで生産用具から考察をスタートし、そして一定まで工業が発展すると分業と私的所有が必然的に発生するということを明らかにした。大昔、まだ人類がドングリを集めていた採取産業においては、私的所有は存在していなかった。人々の労働と獲得は一致し、搾取はそこにはない。小工業と農業においても、所有とは現存する生産用具の必然的な帰結となる。一方で大工業においては生産用具と私的所有の矛盾。つまり生産した人と生産物を得る人が異なるという搾取が生まれる。このような矛盾が誕生するためには、大工業が発展していなければならない。よって私たちが目指す私的所有の撤廃は、以上のような大工業の発展が前提となる。
物質的労働と精神的労働の最大の分割は、都市と農村の分離である。そのような都市と農村の分業と対立は、社会が発展するにつれて始まり、そして今現在も続いている。
都市が生まれると、それと同時に行政や警察のような政治機構も同時に生まれる。これによってはじめて都市階級と農村階級の分化が発生することになる。そして、この分化のベースにあるのもまた分業と生産用具という経済的条件である。というのは都市と行政が生まれるためには、人間、生産用具、資本、消費需要などの集中が必要であるからだ。これとは対照的に、農村では以上のものの分散が起きてしまっている。
都市と農村の対立は、私的所有(分業)による個人への強制力が前提にある。その強制力は人間をそれぞれ固有の労働の中へ、つまりある人間を都市に閉じ込め、また別の人間を農村に追いやる。それにより、それぞれの人間は動物となり、相争うようになる。
以上のような都市と農村の対立を廃止することは、私たちの目指す(共産主義的)共同体に至るまでの最初の条件の一つである。この条件はやはり経済諸前提に依存していて、人間の意思でどうこうなるものではない。
以上のような都市と農村の分離は、資本と地主の分離として捉えることもできるだろう。かつて中世においては土地を持つ者こそが貴族として権勢を誇っていた。それが都市の労働と交易にのみ権威の基盤を持つ者が現れ、地主と対立することになったのだ。
ヨーロッパの中世時代、逃げ出した農奴によって多くの新興都市が築かれた。そうした都市で財産になるのは彼らの労働力のみであった。そんな新興都市の住民は、農村との対立や商売上の理由からツンフト(同職組合)を作り出した。
後発の逃散農奴達はこの強力なツンフトに支配され、下等労働を与えられた。労働者たちが団結して対抗しようにも、ツンフトに取り込まれた労働者は親方の言いなりであったし、ツンフトの外にある労働者は組織に属することのない日雇いの下層民となり、一つにまとまることはできなかったのである。都市には日雇い仕事が不可欠であったため、このような下層民を必要としたのである。
ツンフトは財産保全と団結の向上のために生まれた真の意味での結社であった。一方で、下層民は組織を持つこともできず抑圧された。ツンフトは戦争のための軍備を持ち、下層民を監視していた。ツンフト内の職人と徒弟はどの手工業部門でも、⑴職人の生活全般に対して親方が直接影響力をもち、⑵他の親方の下にいる労働者と結束することを防ぐという二重の権力をもった家父長的な親方(マイスター)に都合良く支配されていた。
これらの抑圧は窮屈なものであっただろうが、職人たちも将来自分も親方になりたいという夢があるために、これらの秩序に大人しく縛られていた。そのため、こうした都市の秩序に対する下層民や労働者の抵抗や暴動は小規模なものに限られた。農村では大きな暴動もあったのだが、農民の粗暴さと地域性のために、これも成果をあげることができなかった。
都市におけるツンフト間の分業はまだ自然発生的なものであり、一つのツンフト内部では職人間の分業はまったく行われていなかった。それぞれの労働者は自分の専門分野において1から100まですべてに通じていなければならず、道路の乏しさから都市間の分業も少なかった。そのため職人達は親方を目指して自分の仕事や技量を高めることに熱中し、時にはある種の芸術家のような自負をもつようになった。彼らは自分の仕事に対して心情的に隷属していたのっである。これは近代の労働者が自分の仕事に無関心なのとは対照的であろう。
こうした都市における資本は自然発生的であり、その内容は使い慣れた仕事場、道具、そして慣れ親しんだお得意様などなどである。この種の資本はお金には換えられない資本として父親から息子へと相続されるほかなかった。これに対して近代の資本は貨幣に換算できるものであり、その資本がどの商品の中に含まれているかという問題は資本にとってはどうでもいいことである。それに比べれば中世の資本は、所有者の特定の労働と直接的に結びつき、労働者と切り離せない資本であった。その意味では中世の資本は、身分制的な資本といえる。
そうした社会で生産と交通の分離。つまり作る人と売る人の分離が起きることよって分業も新しい発展を迎える。それを担ったのは商人という新しい階級であった。商人による生産と交通の分離は、古代都市でも行われていたが、新興都市においては古代のそれより素早く浸透した。商人の登場によって商業網が広く拡大する可能性を得ることになった。とはいえこの可能性が実現するかどうかは、交通路、治安、需要、文化レベルなどによって決まるものであったのだが。
交通が商人という特別な階級によって担われ、商業が拡大すると、ただちに生産と交通の間の相互作用が始まる。それぞれの都市は結ばれ、ある都市で新発明があると、すぐに別の都市にももたらされるようになった。生産と交通の分離により、やがて都市間での生産物の新しい分業を引き起こすようになった。これによってまもなく、中世的な分業の状況は解体されていく。
中世においてはどの都市も市民達は一致団結して貴族に対抗していたが、これが商業網の広がりと共に他の都市の市民とも繋がりをもち始めた。これが時間を経て最初の市民階級となったのである。彼らが強制されていた下層労働によって、彼ら市民は一人一人が持っていた生活条件を、集団の共通の条件として、個人と切り離した。つまり個人の利害から階級の利害というものが生まれたのである。この市民階級、すなわちブルジョワ階級は分業に応じて社会の至るところに散らばったが、やがてそれらはすべて工業資本と商業資本に姿を変え、ついには既存の所有階級をすべて自らのうちに取り込んでいくことになる。そしてブルジョワ階級の誕生は同時に無産階級(プロレタリア)も生み出していくことになった。
本来バラバラである個人が階級を形成するのは、彼らが別の階級に対して闘争を挑む必要ができたときだけである。団結するまで彼らはバラバラでむしろお互いに敵対し、一方で階級そのものも彼らを抑圧していた。人間は自分の階級を当たり前のものに感じ、その生活レベルを平然と受け入れる。これは人間が分業による支配を受けるのと同じ現象であり、この問題は私的所有と労働自体を廃棄することによってしか解消できない。このような個人の階級への従属が、同時にあらゆる種類の類へと発展しくことは何度も示した通りだ。
以上のような階級の発展を、歴史上の階級の誕生条件と、それらの条件において人間に強制された観念の中で考察すれば、それを類、あるいはフォイエルバッハ 的な「人間」の発展とみなす者もいるのだろうが、それはあまりにバカげたことだ。特定の階級の支配は、普遍的階級の誕生、つまり共産主義の実現までは廃止することはできない。
生産力の発展度合いは、交通の発展度合いに依存している。ある地域で新発明が生まれて生産力があがっても、交通がなければ他の地域に普及することはなく、戦争でも起きれば新発明は簡単に闇に消えてしまう。よって交通こそが生産力の向上の担保なのだ。
交通によって都市間の分業が生まれると、次にツンフトを越えたマニュファクチュア(工場制手工業)が誕生することになった。マニュファクチュア最初の仕事は、それまで農民の副業であった機械による織物であった。社会が発展するにつれ、織物の需要は高まり、この産業は一気に発展することとなる。この仕事は熟練度をほとんど必要とせず、分業が行われていたため、ツンフト的支配とは性格的に合わなかった。ツンフトを超越したマニュファクチュアは社会に好景気をもたらすこととなる。
ツンフトに属さないマニュファクチュアの登場で所有関係もまた変化を始める。ツンフト的、自然発生的な身分制資本は、商人の台頭によって克服された。彼ら商人の資本は流動性が高く、近代的資本の萌芽であった。商人の次に現れたマニュファクチュアもまた流動資本の量を増やし、ツンフトを順に駆逐していく。
もちろんマニュファクチュアにはいいことばかりではない。マニュファクチュアが中世的関係を破壊した結果、都市には浮浪者が溢れることとなった。しかし、これらの浮浪者は新産業であるマニュファクチュアに吸収されていった。
かつて戦争していなければそれなりに良好だった国家関係も、マニュファクチュアの誕生によって常に経済戦争の状態に置かれることになった。これにより貿易は単なる商人の活動だけでなく、政治的な意味合いを持つようになった。新大陸や植民地によって貿易戦争はますますその過激度を増していく。
マニュファクチュアにより、中世の雇用者と労働者の家父長的関係は、賃金労働者と資本家の金銭的関係にとって変わられた。
商業とマニュファクチュアが発展を続ける一方、ツンフトの自然発生的資本は停滞を続けた。前者は大ブルジョワ階級を作り出したが、後者は小市民階級となってほそぼそと暮らすようになった。今や社会の支配者は小市民ではなく、大ブルジョワであった。ツンフトはマニュファクチュアによって破壊されてしまったのだ。
上記の説明での交通の発展において、国家間の関係は3つの段階を経る。
まず最初のうちは国際的に金銀の流通量が少なかったため、貴金属に対して輸入禁止令がとられた。やがて都市人口が増加し、彼らの雇用とそのための産業が必要となった。そのような産業は外国から誘致されることが主であったが、こうした産業はその国から特権を受けなければ存続は不可能であった。
領主達は自国を通過する商人達を略奪から守る代償として彼らに課税をし、それがやがて関税となった。この関税は後に都市によっても課せられ、近代国家の貨幣収入の最も手近な手段となった。
その後、新大陸からの金銀流入、産業や商業の発展、ブルジョワ階級の誕生、貨幣経済の繁栄によって、国家はもはや貨幣なしにはやっていけなくなった。そのため国家は貴金属の輸出禁止措置を国家財政の観点から継続するようになる。輸出禁止策によって国内にためこまれた金銀はブルジョワの投機の対象となり、彼らを満足させた。従来の特権は政府にとっての収入源となり、金で売られ、やがて関税立法の中に輸出税が登場したが、これは産業にとっては邪魔でしかなく、純粋に国家財政上の目的から課されたものであった。
第二期は17世紀半ば〜18世紀末のことである。商業と交通がマニュファクチュア以上のスピードで拡大し、ついにマニュファクチュアは副次的な役割しか果たさなくなった。
欧州諸国は武力や経済において植民地戦争を繰り広げ、その勝者となったイギリスが商業とマニュファクチュアにおいても優位を得た。ここにもすでに資本の一国集中が見られる。
マニュファクチュアは国内市場では保護関税によって、植民地においては独占によって、また海外市場では差別関税を通じて、国家から保護された。マニュファクチュアは保護なしではやっていけないのだ。マニュファクチュアは比較的簡単に参入できるがそのぶん簡単に倒産する。大勢の雇用を支えるマニュファクチュアを自由競争で倒産させることは国家にはできなかった。よってマニュファクチュアが輸出産業にまでなってしまえば、マニュファクチュアが倒産するか否かは国家の貿易額によってすべてが決まった。逆にマニュファクチュアが貿易に与える影響は微々たるものであった。だからこそマニュファクチュアは商人の後塵を拝していたのだから。
国家保護と独占を誰より要求したのは商人、とくに船主であった。その度合いはマニュファクチュアへの欲求とは比べ物にならない。それにより商業都市、とりわけ湾岸都市は文明化され、ブルジョワ風となった。18世紀はまさに商業の世紀であったといえる。
この第二期には、金銀の輸出禁止措置の撤廃、貨幣取引、銀行、国債、貨幣、株式投資と公債投機、先物取り引き、貨幣制度一般の制度などが始まった。これにより中世の自然発生的資本は再び大幅に失われた。
17世紀には商業とマニュファクチュアがイギリス一国に集中した。これによってイギリスにとって一つの世界市場が生み出され、その市場においてマニュファクチュア製品への需要が生じた。この需要は最早いままでの産業生産力では追いつかないほどの大きさとなっている。そのことが中世以来の私的所有の第三段階をもたらす原動力となった。近代的な大工業の誕生である。
イギリスにおいては自由経済や近代科学技術など、大工業を生み出す条件が既にそろっていた。大工業においては機械と分業が徹底される。大工業を持つイギリスと競争しようと思うのならば各国は新しい関税を敷いて、自国のマニュファクチュアを守らなければいけないほどである。古い関税ではもはや大工業には太刀打ちできないのだ。
そして間もなく大工業も保護関税によって守られることになる。しかしそれでもなお大工業は国際的、普遍的な経済競争を可能にしたのである。競争とは要するに自由経済のことであるが、保護関税は国家による自由経済への対抗策の一つにすぎない。しかしそれも所詮は自由経済の枠組みの中でのものであった。
大工業は大規模な通信手段と近代的な国際市場を作り出し、商業を支配し、すべての資本を工業資本に変え、それによって貨幣制度の整備など資本の流動性をますます高めていった。
また、大工業は競争を通じてすべての人間に限界まで労働することを強制した。思想、宗教、道徳などを可能な限り破壊し、空虚なものにした。文明化された世界中の人々の欲望を煽り、すべての人間がもともと持っていた排他性を消し去り、自分に依存させるようにする。その意味では大工業こそが最初の世界史を生み出したと言える。中世的な資本や初期のマニュファクチュアすら破壊し、農村に対する商業の勝利を確実なものにする。
大工業の特徴はオートメーション・システムにある。オートメーション・システムは巨大な生産力を生み出したが、それにとって私的所有はジャマなものになった。
大工業は各々の国民が持つ個性を破壊し、どの場所でも同じような階級を生み出した。つまり国際的なブルジョワ階級と、それに敵対する同様に国際的なプロレタリア階級である。大工業経済の下でプロレタリア階級は資本家に支配されるだけでなく、労働それ自体が苦痛に感じ始める。
大工業が一つの国のすべての地域で同じ速度で発展するわけではないが、工業化が先鋭化した都市の労働者や大工業から排除された労働者が、プロレタリア階級の先頭に立つことによって階級闘争は全地域的に進んでいく。また工業化が進んでいない国も、国際貿易に巻き込まれ、工業国家の影響を受けざるを得ない。
確かに競争の激化はプロレタリアを団結させるが、それ以上に競争は人間を孤立させる。だからこそ、プロレタリアの個人個人が団結するまでには長い時間がかかるのである。そうでなくても、こうした団結が単なる地域現象に留まることなく広がっていくためには、大工業都市と大規模な交易網が必要である。孤立した人々の前には組織化された権力が立ちはだかっている。だからこそ、こうした権力は長い闘争を経なければ倒せない。
以上のような歴史上の経済の数々の形態は、それと同じ数の労働組織の諸形態であり、また所有の諸形態にほかならない。どの時期をとっても、現存する生産力の統合は、必要に迫られた範囲でしか生じなかった。
[8]弁神論。自由の理念の発展過程こそが、歴史の中に神が存在することを証明できるということ。ヘーゲルは歴史を、自由な精神の発展の運動とみなした。
これまでの歴史の中で、生産諸力と交通形態の間に矛盾が生まれ、それが社会の許容範囲を越えたとき、革命という形で爆発してきた。その時々において経済的矛盾は階級、思想、政治などという副次的形態をとっていたので、そのようなものが革命の土台と勘違いしてしまう人もいるだろうが、それはまちがいである。
革命が起きるためには、一つの国で矛盾が最大限に高まる必要はない。それは、グローバル化によって引き起こされた経済戦争によって、経済的矛盾の大きい国から小さい国へと矛盾の移動が起きるからである。例えば、ドイツのプロレタリアはイギリスの工業競争によって生み出された。
古代未開社会ですら、それぞれの家族は洞窟や小屋など、それぞれが分離した家屋で暮らしていた。その後、社会が発展して私的所有が進歩すると、ますます家族間の分離が必要とされた。農耕民族もまた未開社会と同じく、共同の家事経営はできなかった。時代が進み都市が建設され人類が大きく進化しても、私的所有と強く結びついた経営は、物質的条件の不足という観点からでも、やはり不可能であった。つまるところ、物質的土台のない共同家事経営ではまともな生産はできないのだ。このことから分離した経営の廃止が家族の廃止と切り離せないといえる。〔この段落は共産主義社会における共同経営の構想で、本筋からはズレている〕
人間の力から物的な力となってしまった分業を廃止するためには、観念の改革ではなく、個人がこの物的な力を自分たちに従わせることが必要である。これは共同社会(アソツィアツィオーン[9])でなければ不可能なことだ。共同社会だけが人間本来の要素を発展させ、人間に人格的自由を保証してくれる社会である。これまでの国家で人格的自由が持てるのは支配階級だけであり、国家は支配階級で構成される見せかけの共同体であった。そんな国家は支配される側にとってはまったくの幻想であるだけでなく、彼を抑圧する桎梏であった。
人間は真の連合の中で自由を獲得する。そもそも人間というものは歴史や社会の条件の内部で生まれ育ち、何からも独立した個人なんて人はいない。しかし歴史の中で分業の生み出す社会関係が人間から離れることによって、人間の人格的な生活と、労働内の条件に従属する生活の区別が現れる。こうして人間の人格は、彼が所属する階級によって決められるようになる。そしてその区別は彼がが他の階級と対立したり、彼らが階級を移動するときに出現するのである。身分制社会においてはこのことはあやふやであり、階級は固定されていた。それらの身分は彼らの生まれもった個性とは切り離せない人格的な社会関係であった。
人格的個人と階級的個人の区別は、ブルジョワジーの産物である階級の登場とともに初めて現れる。個人間の競争が、はじめてこの偶然性そのものを生み出し広がっていく。これによって、個人はブルジョワの支配の下で、私たちの生活はたまたまこうなっただけの偶然なものだという認識を持つようになる。しかし実際には彼らはよりいっそう物的な強制に支配されているのだ。
身分階級と近代階級の区別はブルジョワとプロレタリアの対立の中にもっとも現れる。都市の市民が封建制力に対抗して勢力を伸ばしたとき、彼ら市民の生存条件である動産と手工業労働は、封建的土地所有に対抗しながらも、同時に封建的な姿をしていた。
確かに都市市民の元となった逃散農奴たちは、その農奴身分を自分の人格とは無関係な偶然的なものとして扱った。しかし、それは彼らが支配から解放されたがっていただけであり、また彼らは階級としてでなく一個人として自分を解放した。その上彼らは身分制度の範囲からでたのではなく、新しい身分を作ったにすぎない。そして彼らは、これまでの彼らの労働様式を新しい身分においても保持し、既に社会にそぐわなくなっていた社会的制約からその労働様式を解放することによってより発展させたのである。
これに対してプロレタリアは、生活のための労働などの生活条件が、彼らにとってどんな組織でも制御できない偶然的なものになってしまった。彼ら労働者の中には、プロレタリアの人格と、押し付けられた労働との矛盾が現れる。それはプロレタリアが幼いときから強制労働を受け、階級を移動するチャンスすら与えられないからである。
封建的農奴制ではまだ農奴たちは動産の蓄積が可能であった。このため農奴が階級を移動させる可能性もあったし、また農奴たちの間で格差を生み出した。その意味で農奴たちはすでに半分は市民(ブルジョワ)なのである。よって農奴が逃げ出すのは彼らの生存条件を逆手に自由な労働を求めただけの話なのだ。
それに対してプロレタリアは、自らが人格的に認められるためには、社会と彼ら自身にとって必須である労働を廃止しなければならない。したがって、彼らは社会の住民がこれまで自分に全体的表現を与えてきた形態、すなわち国家機構に対して直接に敵対しており、そのためプロレタリアの人格性を救うためには国家を倒さなければならない。
以上のことから分かるのは、第三者に対する利害の一致から生まれた階級的共同関係では、構成員は常に平均的個人としてのみあり、また彼らが自分の階級の生存条件の中にいる限りでのみ所属できる。これはつまりその共同関係は、構成員が個人としてではなく、階級構成員として参加した関係であったということだ。
これとは反対に、自分たちとすべての社会構成員の生存条件を制御する革命的プロレタリアによる共同体の場合には、共同体には個人が個人として参加することになる。それはまさに個人の自由な発展と運動の条件を支配する個人の結合である。
もちろんその背後には今日の発展した生産諸力が条件として控えている。それらの条件はこれまで外から与えられた偶然的なものであった。それは人間同士が分離し、分業によって引き起こされ、人間の分離のために、人間にとって疎遠な紐帯となってしまった彼らの必然的な結合によって、人間から自立していたものであった。これまでの結合はルソーの社会契約論のような任意の結合ではなくて、これらの条件による必然的な結合である。一定の条件の中で自由に偶然を楽しんでもよいという権利は、これまで人格的自由と呼ばれた。この人格的自由を持つ条件は、もちろんその時々の生産諸力と交通形態でしかない。
共産主義はこれまでの社会主義と違って、すべての生産諸関係と交通諸関係(社会の経済諸関係)を根本的に覆し、歴史的に進歩して、後に人間から独立したすべての経済的前提を人間の手に取り戻す点にある。共産主義の本質は経済にあり、その進展は今の社会の経済条件から、人間が団結するための物質的条件を作り出すことを可能にする。その目的のために共産主義者は、これまでの社会経済によって生み出された物質的諸条件の弊害を、人間にとって非有機的なものとして取り除く(しかし、現実的な目的のために一応はそれらの物質的土台を非有機的なものとして取り扱う時期もあるはずだ)。
自由な人格的個人と、外部から強制された偶然的個人(職業的個人)の区別は単なる概念の問題ではなくて、歴史的な事実である。この両者の区別は異なる時代には異なる意味を持っていた。例えば18世紀では身分は個人にとって生まれた場所で決まる偶然的なものであり、また家族も大体そうであった。人格的個人と偶然的個人の区別とは現代人が勝手にしているものではなく、それぞれの社会の物質的な強制による区別なのだ。
生産諸力の発展と一緒に進歩した交通形態も同じく、生産諸力から規定された偶然的なもののように見えるがそうではない。交通形態に対する生産諸力の関係は、個人の行動に対する交通形態の関係である。この活動の基本はもちろん物質的活動であって、それに精神、政治、宗教などの非物質的活動がくっついてくる。もちろん物質的な生活の様々な形は、その社会における人間の欲求に依存する。またそれらの欲求を生み出すのも埋めるのも、それ自体が人間特有の歴史的産物であることも忘れてはいけない。
社会にまだ経済矛盾がない間は、個人が互いに交通しあう条件は彼らの内なる個性の一部であって、外から強制されるものではない。つまり経済矛盾のない社会においては、交易は人間の内なる欲求であるといえる。また、それらの条件は交通を担う人間の物質的生活と、それに関連するものを唯一生み出すものである。したがって、交通の条件は人間の自己活動[10]の条件であり、同時にこの自己活動によって生まれていると分かる。よって経済的矛盾がまだない社会の交通の条件とは、人間の一面的定在[11]に対応するのである。
またこの定在の一面性は経済の矛盾によってはじめて現れ、それゆえに後の人々にとってだけ定在するのである。経済矛盾によってこの条件は偶然的な桎梏として現れて、同時にそれが桎梏(矛盾)であるという意識を人々が持ち始める。
最初は自己活動の条件として、その次にはその自己活動への抵抗力となったこれらの様々な経済的矛盾は、歴史の中で交通形態に関連する一つの流れであって、その関連は現社会にそぐわなくなった前時代の交通形態に取って代わって、より発展した生産諸力となる。そしてその新しい生産諸力もいずれまた抵抗力となり、次の時代で更に新しい生産諸力にその地位を譲り渡すのである。
これらの抵抗力は、それぞれの時代の生産諸力の発展具合に対応するのだから、抵抗力自体の歴史は、世代ごとに進歩しながら受け継がれる生産諸力の歴史でもあり、さらには個人そのものの諸力の発展の歴史とみなすことができる。
この歴史の発展は自然成長的に進むのだから、それぞれの国のそれぞれの経済分野で独立して発展し、それから徐々に結合していく。この発展の速度は実にゆっくりである。というのは、古くなった歴史の段階は新しい歴史の段階によって克服されたわけではなく、前者が後者に従属させられているにすぎないからである。両者は数世紀もかけてだらだらと戦い続けることになり、その結果として、一つの国の中でさえ、国民は多様な発展の仕方を見せることもあるのだ。また古くなった交通形態は伝統という形をとって、なお存続していくということにもなる。
ここから次の問題が提起できる。やや一般的な総括を許す個々の問題点に関して、意識がときおり同時代の経験的な諸関係よりももっと先に進んでいるように見えることがあり、その結果、後の時代の諸々の闘争において、以前の理論化たちを権威としてよりどころにしうるのはなぜか?ということだ。
それに反して北アメリカ新大陸のように歴史を途中から始める国では発展は急速に進む。これは古い国で交通諸形態によってもっとも移住のモチベーションを与えられた人間の他にいかなる自然成長的な前提をもたないことが理由である。よってアメリカのような新しい国は、古い国の中でもっとも進歩した個人をもって、彼らに対応した交通形態からスタートする。
とはいえ、それはこの交通形態が古い国々で普及しうるよりもまだ先のことである。このようなことはアメリカだけではなく、ほとんどすべての植民地にあてはまる。また植民地だけでなく、侵略によっても同様に、完成された交通形態の輸入が起きる。この交通形態は、侵略する側の祖国ではいまだ前時代の利害、社会関係が残っているのに対して、侵略された側はいとも簡単に発展済みの交通形態が普及されるし、また普及されなければいけない。
以上のような歴史観は、征服という軍事行動は矛盾するように見える。人間史において戦争や侵略が歴史の推進力となっていたのは明らかであるので、ここで蛮族による古い文明の破壊と、その後の社会の新編成の例としてゲルマン人とローマ帝国の関連を見てみよう。先述した通り、戦争も一つの交通形態である。歴史をみれば、古い生産形態のもとで人口増加が新しい生産手段を求めるようになれば、より戦争という交通形態を利用したがるようになることが分かる。これとは逆にイタリアでは土地の集中と、その土地の牧場への転化によって自由市民も奴隷もいなくなってしまった。しかしそんな社会でも奴隷は全生産の基礎であった。自由民と奴隷の間にいる平民はけしてルンペンプロレタリアートの域を超えなかった。そもそもローマは一つの都市国家にすぎず、かろうじて属州と薄い政治的関係をもっていたにすぎない。
「歴史においてはこれまで奪取だけが問題であった」という考えを大勢の人が信じ、その観念に基づいて「蛮族(ゲルマン人)たちは征服によりローマ帝国を奪取し、そしてこの奪取をもって古代から封建的中世への移行が行われた」という歴史の説明がいままでなされてきた。しかし本当に問題なのは「占領される民族(ローマ帝国)が、現代人の場合に当てはまるように、工業生産諸力を発展させたのか?」それとも「彼らの生産諸力が主として彼らの結合と共同体だけに基づいているのか?」ということである。
さらに奪取は、奪取される対象によって条件づけられている。銀行家の持つ紙幣という紙切れは、奪取する側がされる側の生産条件と交通条件に従うことなしには、けっして奪われることはない。これは現代の工業国家の工業資本も同様である。
そして奪取というものは続けていればすぐに奪う対象すらなくなってしまい、そうなっては略奪者は自分たちで生産を始めなければいけない。このように生じる生産の必要性から、結果として略奪者は定住し共同体を作るために、征服したはずの者たちから言語、教養、習俗を教えてもらわなければならない。
つまり封建制はけっしてローマ帝国に侵入してきたゲルマン人がもたらしたものではなく、征服する側が軍隊の中にもっていた起源が、征服後にその土地の生産諸力をもってして、はじめて中世への封建制へと発展することができたのである。この征服者の定住共同体の形態がどれほど生産諸力によって条件づけられていたかは、カール大帝をはじめとする古代ローマのモノマネの失敗が示している。
大工業での労働と競争においては、人間の生存条件はすべて、私的所有と労働というもっとも単純な形態に支配されている。つまり、それぞれの交通形態と交通そのものが、貨幣によって、個人にとって外部から強制された偶然的なものにされているのだ。よって貨幣のうちに既に、これまでのすべての交通が特定の諸条件に過ぎず個人としての個人の交通ではなかったものが含まれている。これらの条件は、蓄積された労働(私的所有、資本)と現実的労働という2つのものに還元されている。また、これら2つのうち一つでもなくなってしまえば交通は停止することになる。
経済学者たちは、個人の連合を資本の連合に対立するものと認識していた。一方で、個人自身は分業の下に完全に従属させており、それによって個人はもっとも完璧な相互依存性に置かれている。
蓄積の必然性から発展していく私的所有が労働の内部で労働と向かい合う限り、最初はむしろ共同体的であるのだが、やがてその発展の中でますます現代的形態に近づいていく。分業によって既に最初から道具や原料といった労働諸条件の分割も与えられており、したがって蓄積された資本の様々な所有者への分裂。つまり資本と労働の分裂、および所有そのものの様々な形態が与えられている。分業が進めば進むほど、また蓄積が増せば増すほど、ますますこの分裂も進む。労働そのものは、この分裂という前提のもとのみで存続しうる。
以上のことから生産諸力は、諸個人から全く独立したものとして現れるということが分かる。というのは、生産諸力を生み出す個人自身は、分業によってお互いが疎遠になり対立して存在しているのに、一方でこの生産諸力そのものは、個人間の交通と関連の中だけでしか実現できない力であるからである。よって生産諸力の総合的かつ物的な姿は、個人にとってもはや彼のものにはならず、その力は私的所有のものとなる。
資本主義社会以前のどの社会でも、生産諸力が、個人としての個人の交通に対してこれほど無関係な姿になったことはなかった。それは昔の人間の交通そのものがまだ限られたものであったからだ。一方で、現代では生産諸力に対して大多数の個人が向き合っており、この力は彼らから引き離されて生活手段を奪っていく。しかしそのことによってはじめて現代人は相互に団結することができる境遇に置かれるのである。彼らがまだ生産諸力および自分の生存に対して持っている労働という唯一の関係は、彼らの自己活動のあらゆる楽しみを失って、労働が彼らの生活を貧しくしていくことによってのみ労働者は生きていくことが可能になる。過去の時代には、自己活動と物質的生活の産出とは、それらが別々の人物に属したことによって分けられていて、物質的生活の産出は個人自身の局限性のために低級な自己活動と見なされていた。ひるがえって、今日では一般に物質的生活が目的として現れ、この物質的生活の産出、つまり労働が手段として現れるほどに、自己活動と物質的生産の産出とはバラバラになっている。
したがって、いまや人間が自分の自己活動に達するためのみならず、そもそも彼らが食っていくためにだけでも、生産諸力の現存の総体を取り戻さなければならないところまできた。この奪還は、まず獲得されるべき一つの総体へと発展し、普遍的交通の内部にだけ存在する生産諸力によって条件づけられている。よって、その側面からだけでもこの生産諸力の奪還は、生産諸力と交通に対応する普遍的な性質を持たざるをえない。
この生産諸力の獲得は、それ自体、物質的な生産諸用具に対応する個人的諸能力の発展に他ならない。そしてこの理由からみても、個人自身における諸々の能力の総体の発展であることが分かる。さらに、この獲得は、獲得する諸個人によって条件づけられている。また生産諸力の奪還の担い手となれるのは、あらゆる自己活動から完全に閉め出されたプロレタリアだけである。
以前のあらゆる革命的獲得は限定されたものであった。制限された生産用具と制限された交通のために自己活動が限られた個人は、この制限された生産用具をわがものとして獲得し、それゆえにただ新しい制限にまで到達しただけである。彼らの生産用具は彼らの所有物となったが、彼ら自身は分業と彼らの持つ生産用具に従属させられたままであった。
これまであらゆる獲得の場合には、多数の個人がただ一つの生産用具に従属させられたままであったが、プロレタリアの獲得の場合には、多数の生産用具が各個人に、また所有が万人に従属させられなければならない。現代の普遍的交通は、それが万人に従属させられること以外には、個人に従属させることはできないのだ。
さらに獲得はそれが遂行されなければならないようなやり方によって条件づけられている。その獲得は、プロレタリアによる普遍的な結合と革命によってのみ遂行されうる。この革命において、一方では、これまでの生産様式と交通様式や社会的編成の力が覆され、他方では、プロレタリアの普遍的性格と獲得の実行に必要な彼のエネルギーとが発展し、さらにプロレタリアは、これまでの社会地位のためにまだ持っていたものをすべて捨て去る。
この段階ではじめて自己活動が物質的生活と一致するのであり、そのことは個人が総体的個人へと発展し、また一切の自然成長性の廃棄と対応する。そしてそのときには、労働の自己活動への転化と、そこれまでの制約された交通は、個人としての個人の交通へと転化が互いに照応しあう。結合した諸個人による生産諸力の総体の獲得とともに、私的所有は終わりを迎える。これまでの歴史においては、つねに特殊な条件が偶然的なものとして現れたのに対して、今や個人の分離そのもの、各個人の特殊な私的取得そのものが偶然的となった。
1、結合した生産者が主役
2、労働者の人間的性格「自己活動」の回復
3、諸個人の総体的諸個人への発展(人間の全面的発達)
もはや分業に支配されない人間を、哲学者たちは理想として「人間というもの」という名前をつけて、今私たちが展開してきた歴史の過程を「人間というもの」の発展過程としてとらえた。その結果、それぞれの歴史段階における住人に対して「人間というもの」という概念が押し込まれ、それが歴史の原動力になったと言い放った。こうして全課程が「人間というもの」の自己疎外過程として捉えられたのであって、その理由は、本質的に後世の平均的個人が前時代に押し込まれ、後の意識が前の個人に押し込まれたことにある。最初から現実的諸条件、つまり経済を度外視するこのような転倒によって、全歴史を意識の発展過程に変えることが可能であった。
市民社会は、ある発展段階にある生産諸力内の物質的交通をすべて含んでいる。そして、ある段階の商業的および工業的生活の全体を包括し、その限りで市民社会は国家と国民を越える存在となる。とはいえ、それは外からみれば国民性であり、内からみれば立派な国家なのである。
市民社会という言葉は所有諸関係がすでに古代や中世のものから抜け出していた18世紀には現れていた。市民社会はブルジョワジーと共に発展するが、しかしあらゆる時代に国家およびその他の観念論的上部構造の土台をなしていて、生産および交通から直接に発展する社会的組織は絶えず同じ名前で呼ばれてきた。
国家および法と、所有の関係について。所有の最初の形態は古代でも中世でも部族所有であった。古代部族の場合には、一つの都市の中にいくつかの部族が一緒に住んでいるので、部族所有は国家所有として現れ、そしてそれに対する個人の権利は単なる占有(Possesio)として現れるが、これは部族所有一般と同じように、土地の所有だけに限られた。本来の私的所有は、古代人の場合にも現代の民族と同様に、動産の所有とともに始まった。
時代が進み中世から、所有は封建的土地所有、ツンフト的動産所有、マニュファクチュア資本と様々な段階を通って、大工業と国際的競争によって条件づけられる現代的資本にまで至る。その社会では共同体の人間的外観が放棄され、所有の発展に対する国家のあらゆる抵抗力を排除した純粋な私的所有にまで発展する。この現代的な私的所有に照応するのが現代の国家であり、それは各種の税金を通じて次第に私的所有者たちによって買収され、国債を通じて完全に彼らの手中に納められる。そして国家という存在は、証券取引所の騰落の中で、私的所有者(ブルジョワ)のもつ商業信用に依存するようになってしまった。ブルジョワジーとは階級であって、もはや身分ではないという理由からでも、国家が社会の一部だけでなく国民的に組織され、ブルジョワの利害を普遍的にせざるをえない。
私的所有の共同体からの解放によって、国家は市民社会と並んで、かつ市民社会の外にある特別な存在となった。しかしそれはブルジョワたちが、外に向かっても内に向かっても、彼らの所有と利害の保証のために組織した形態に他ならない。よってブルジョワの支配を受けていない国などは、今日では身分がいまだ残っている国くらいしかなくなってしまった。フランスやイギリス、アメリカでは、国家は私的所有のためだけに存在するとみなされ、その事実はもはや日常的に認識されるようになった。
国家とは、支配階級の人間が自分たちの利害を市民社会全体の利害としてしまうための形態である。その帰結として、あらゆる共通の制度が国家によって媒介されて、政治的な形態をとることになる。このことから法律や人権といったものが、経済的土台から切り離された自由な意思に基づくかのような幻想が生み出される。
私法は、私的所有と同時に中世の自然成長的共同体の解体から始まった。私法においては「現存の所有諸関係は一般意思の結果である」と権威づけることができる。使用と消費の権利そのものが、一方では私的所有が共同体から完全に独立するようになったという事実を表し、他方ではあたかも私的所有そのものが単なる私的意思、物件の恣意的な処分に基づくかのような幻想をあらわす。実際には、処分は私的所有者が彼の所有物、つまり彼の処分権が他人の手に渡るのを見たくなければ、彼にとっては非常に明確な経済的限界を持っている。というのは、一般に物件とは、私的所有者の意思との関連の中だけで見られるときには物件とはいえず、交通の中で、また法から独立してはじめて現実的な所有になるからである。法を単なる意思に還元するこの幻想は、所有関係の一層の発展の中で、誰が物件を実際に持つことなく物件に対する法的権限を持ちうるかということに帰着する。例えば、ある土地の地代がなくなったとしても、その土地の所有者は確かにその土地に対する使用と処分の法的権利を持っている。しかし、彼がその都市を耕すに足る資本を持たない場合は、彼はその権利によってどうすることもできない。法律家たちの同じ幻想から、次のことが導きだされる。それは、個人が相互間で関係を結ぶこと。例えば法的契約を結ぶことは、法律家や法典にとってはまったくの偶然であるということであり、またこの法典にとってそのような関係は任意に結ばれることも結ばれないこともありうるような関係とみなされているということである。
工業と商業の発展によって新しい交通諸形態。例えば保険会社などが生まれるたびに、法はその都度、それらを財産獲得方法の中に加えざるをえなかった。
法律の中でブルジョワは階級として支配するからこそ、学問を使って自らに普遍的表現を与える。自然科学と歴史。政治、法、芸術、宗教、その学問の歴史は存在しない
なぜ宗教家、法律家、政治家、道徳家などイデオローグたちは一切を逆立ちさせるかということ。それらの職業に就く人々は自分の仕事が真実とみなし、その業績は現実に影響を与えるという幻想を抱いているが、彼らの仕事は事前にその性質によって条件づけられているのだから、それだけに一層その幻想は強くなる。経済諸関係は学問を通じ、意識の中でそれぞれの概念となる。それゆえに、それらの概念は経済諸関係を越えることはできない。例えば法律家は立法を独立した能動的な力であると考えるが、立法に力を与えているのは、それが社会の普遍的なものと関わりあいになっているからである。
[9]アソツィアツィオーン。英語でいえばアソシエーション。
[10]自己活動。対義語は労働の疎外。外部から押し付けられるのではなく、自分自身の活動として生産活動(労働)にあたり、労働の過程も、労働の生産物も自分に属し、その活動を通じて自身も発展することのできる生産活動のこと。この場合には、交通諸条件も生活諸条件も、労働者にとって外的なものではなく、彼に属する個性の一部となる。
[11]定在。ヘーゲル哲学の用語。本来は「規定された存在、質をもつ存在」という意味。
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最終更新:2025/01/14(火) 01:00
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