ロベルト・モレノ 単語


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ロベルトモレノ

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ロベルト・モレノとは

  1. ブラジル出身のレーシングドライバー
  2. スペイン出身のサッカー導者。元スペイン代表監督

本項では1.について解説する。


ロベルト・モレノ(Roberto Pupo Moreno, 1959年2月11日 - )とは、ブラジル出身のレーシングドライバーである。

の片鱗を見せながらもタイミング恵まれず、F1で弱小チームを転々とした苦労人』の代表格といえる人物。代役起用も多く『スーパーサブ』『代打』として活躍した。

経歴

F1参戦以前

1959年ブラジルリオデジャネイロで生まれる。

1974年15歳カートを始め、1979年に渡フォーミュラフォードへ参戦。

1981年からイギリスF3に参戦。1982年には3勝を挙げ、F3マカオGPで優勝するなど評価を上げる。この走りにをつけたロータスはモレノテストドライバー契約を結ぶ。

F1以降

F1レース以外の話題インデントを右へずらしています。

初挑戦~弱小チームでの苦闘

1982年オランダGPで、負傷欠場のナイジェル・マンセルに代わりロータスステアリングを握るも予選落ちレギュラーシートは得られず、ロータスでの挑戦はこの1戦限りに終わった。

その後は様々なカテゴリに挑戦し、1983年フォーミュラアトラティック、1984年ヨーロッパF2でいずれもランキング2位。その他に国際F3000、CART全日F2にも参戦した。

1987年終盤にAGSのシートを獲得し、5年ぶりのF1グランプリに挑む。初陣日本GPで予選は最下位の27番手。予選通過できるのは26台のため本来は決勝へ進めないはずだったが、ナイジェル・マンセルが予選中の事故で負傷欠場したため繰り上がりで出走を認められる。何かとマンセル(の負傷)に縁のある男である。

続く最終戦オーストラリアGPでは完走9台のサバイバルレースを生き残り6位入賞、自身およびチームにとって初のポイント獲得を果たす。

1988年フェラーリテストドライバーとしてマシン開発を務める。マシン当時の最新鋭技術であったセミオートマチック・トランスミッションを搭載する等、機密が満載であったがモレノ情報を外部へ漏らさず仕事をこなす。この姿勢がマシンデザイナージョンバーナーに評価され、後年のシート獲得(後述)の一因となる。

同年はF3000選手権にも参戦し、4勝を挙げてチャンピオンを獲得した。

1989年コローニのレギュラーシートを得るも、チームは資金もマシン戦闘力も乏しく予選落ちを繰り返す日々。決勝進出はわずか4回、完走0回と散々なシーズンを過ごした。

1990年ユーロブルンへ移籍するが状況は好転せず、第14戦までで2度の決勝進出がやっとの状態であった。チームの資金難も限界で、シーズン残り2戦の遠征(日本オーストラリア)に参加できるかも不透明な状況であった(最終的に参戦はわずチームは消滅している)。モレノは後年、チームは予選通過の意志を持たなかった。タイヤの消費やエンジン整備にかかる費用を惜しんでいた。exitしている。

束の間のトップチーム在籍

突然のベネトン入り、表彰台獲得

来季のシート探しが難航する中で、日本GPまで2週間を切った10月12日、モレノフェラーリ時代の旧知の仲であったジョンバーナードに連絡を取る。バーナードは当時ベネトンへ移籍しており、同チームオフィスでの再会の誘いを受ける。

バーナードとの面会中、オフィス内が慌ただしい雰囲気へ変わる。ベネトンレギュラードライバーであったアレサンドロ・ナニーニがヘリコプター事故で右腕を切断する重症を負い、わりのドライバー探しに迫られたためであった。バーナードはモレノに参戦の意志を問い、モレノは快諾。代役として当時の3番手チームであったベネトン入りが決まった。

日本GPではマクラーレンフェラーリ全滅も手助けとなり、チームメイトネルソン・ピケに次ぐ2位を獲得。初の表台を1-2フィニッシュで飾ったレース後に泣きながらピケとハグを交わし、表台では満面の笑みを浮かべ采を浴びた。

翌戦は入賞前の7位完走。これらの走りが評価され翌1991年ベネトンレギュラーシートを得た。

シート喪失

1991年は3度の入賞を重ね、第11戦ベルギーGPでは初のファステストラップ記録ピケには及ばずとも及第点の成績を残していた。

しかし同じベルギーGPでデビューしたミハエル・シューマッハの存在が、モレノシートを脅かす。

シューマッハは同GPで中堅チームジョーダンを駆り予選7番手を獲得する。この才を見込んだベネトン代表のフラビオ・ブリトーレシューマッハの加入を熱望し、違約金の支払いもいとわず獲得を論む。

折悪しくモレノベネトンに引き入れたバーナードはブリトーレとの対立かチームを去っており、後ろを失ったモレノに残留する術はなかった。

結局ベルギーGPを最後にモレノ放出される。ベネトンでの出走は13戦。在籍期間は1シーズン分に満たなかった。

再びの渡り鳥生活

以降は第12, 13戦をジョーダン、最終戦ミナルディから出走。いずれも同シーズンポイント獲得経験を持つチームだったが入賞はわなかった。

1992年シートを得られず浪人状態でシーズンを迎える。

第3戦の前に、古巣のコローニを買収したアンドレア・モーダからオファーが届き復帰する。しかしチームは買収時の手続きの不備から新設チームとみなされ、コローニ時代のマシンを改良する作戦を使えず。新開発するも第2戦は機材のみが到着し肝心のマシン未完成。未熟な体制に苦言を呈した2人レギュラードライバーを「批判的な態度」として解雇するなど、F1チームにあるまじき惨状であった。

レノは極めて悪い環境でも腐らず走り続け、第6戦モナコGPでチーム史上一の予選通過を成し遂げ周囲を驚かせた。しかしチーム体制は悪化の一途を辿り、保金の支払い拒否やチーム代表の逮捕(詐欺の容疑)などトラブルが続発。チームシーズン途中でF1から追放され、モレノはまたもシートを失ってしまった。

1993年以降はツーリングカーレースを中心に様々なカテゴリに挑戦する。

1995年、新規参戦のフォルティ・コルセに招かれ再三のF1レギュラー参戦。豊富な経験を買われての採用であったが、マシンは時代遅れの設計で重量過多のため戦闘力は望むべくもなかった。さらにチーム運営資金の大半がもう一人のレギュラードライバーペドロ・ディニスの持参金によって賄われていたため、モレノは実力に反してセカンドドライバー扱いであった。この年を最後にF1から離れる。

F1以降

アメリカを拠点に『スーパーサブ』生活

1996年からは戦場アメリカオープンホイールへ移し、CART舞台に活動。初年度のレギュラー参戦以降は代役参戦が立つ。少数だがIRL(CARTから分裂した片割れ現在インディカー)のレースにも出走している。

初優勝と名言

2000年パトリック・レーシングからレギュラー参戦。第9戦クリーブランドで初優勝を挙げ、インタビューにて以下のコメントを残す。(参考:インタビュー全文exit)

It's like somebody that one day thinks, 'Well, I can go to the moon,' but it's just a dream. And then that dream starts to become reality with the steps that you make. 

翻訳例としては「ある日、『そうだ、に行けるんだ』と思う人がいるみたいだけど、それはただのなんだ。そして、そのは自身の手で一歩一歩現実になっていくんだ。」[1]

長い苦労人生活の末に掴んだ栄を噛みしめる、モレノらしいコメントであった。

日本では同レース後にモータースポーツ雑誌のRacing Onが特集したページ[2]にて、上記を意訳したと思われる

「"に行きたい"と言って相手に
 されなくても、努力を重ね、とうとう
 に到達する。それが人生だと思う」

が見出しに掲載され、内でモレノ名言として広まっている。

以降はレギュラー・スポットをいずれも経験しながら2008年まで参戦を続ける。ラストレースチャンプカーシリーズ(CARTの後継が催した選手権)にとっても最後のレースでもあった。

人物・エピソード

関連動画

関連静画

関連項目

脚注

  1. *一部DeepLを使用。
  2. *2000年2月27日発売, No.324, P.123
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