南北朝(中国) 単語


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ナンボクチョウ

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南北朝(中国)とは、中国の時代区分の一つである。

12世紀の金、南時代を第二次南北朝時代と言うこともある。

概要

中国が南北で分かれた時代。439年に北華北を統一してから、589年にの文が統一するまで続いた。

では北、西、東、東斉、北周。南では、斉、梁、陳の王が生まれては消えて行った。

この辺はなんか色々とごちゃごちゃしているので世界史中国史分野でも苦労させられる所の一つだろう。有名人物には北の孝文と、宇宙大将軍侯景がいる。あと達磨大師とか。

北朝

五胡十六国時代の末期混乱を極める華北では鮮卑の拓跋氏の代が、諸部族を統一し386年、号を(北)と改めて398年にを都とした。北皇帝、太武帝人の名族、崔浩を相談役にして、北、北などの諸定して439年、華北全域を統一した。一方の南では東を倒したが存在しており、北は南下のタイミングを伺っていた。そんな中471年、北に名君が誕生する。6代皇帝孝文である。即位当初は孝文は幼かったために、祖母の文明太后が政治を行い、孝文は立皇帝となるために重臣のなどから王道教育を受けた。

南北朝時代は、華北北方民族の活躍が覚ましく儒教が衰えた事もあって、仏教が盛んになった。このような時に、仏教の発展に貢献したのが図澄(ブトチンガ)摩羅クマラジーヴァ)であった。両者ともにクチャ)出身の僧侶であり、図澄は4世紀はじめに後に、摩羅インドで学んだ後に前と後に仕えていた。北は初代、武帝の頃は仏教を深く信仰したが、太武帝の時代は崔浩謙之のすすめで道教教になっていたため仏教は弾圧された。孝文の時代には再び仏教を崇拝するようになっており、孝文祖父の文成開発を開始した崗石窟も孝文の時代に完成された。孝文自身も497年には門石窟の造営を命じている。

人の官僚を採用し、政治改革を行った。まず安世の提案で、民に土地を貸してそのかわりに税を取る均田制が採用された。また5軒のを「隣」、5隣を「里」、5里を「党」とし、隣長、里長、党長をおく三長制を開始した。

490年に文明太后が亡くなると孝文は翌年から政を開始した。孝文は更なる改革をめ、その第一歩として南に近い陽への遷都を反対を押し切って決行する。孝文の基本政策は化政策であった。まず胡を禁じ、また朝廷内での鮮卑語の使用を禁じ、更に胡人の姓までも禁止した。孝文自身も拓跋という姓をやめて「元」というの姓に変えた。鮮卑人と人の結婚が奨励され、自ら人のを迎え入れた。孝文化政策は底的であり、朝廷儀式から政治の仕組みに至るまで全てに改められた。こうした改革は当然反発を生み、499年に孝文が大軍を率いて南方遠征に行く途中に崩御すると、辺を守る将軍達の反乱(六鎮の乱など)が起こり、北は東西に分裂してしまう。

534年、高歓が孝静を迎え東を起こし、535年、文泰は文を建てて西を起こし、華北はまっぷたつに割れた。この二は度々争いを起こし、東では550年に、高歓の次男の高洋が孝静位を迫って文宣帝となって北斉を建てると、557年には文泰の子の文覚が西皇帝から譲を受けて孝(こうびんてい)となって北周を建てた。その後、華北は北周によって統一されるが、581年、北周の実権を握った楊堅が5代静から位を譲られてが建された。

南朝

江南では華北で五胡が争っている間に東が勢力を保っていたが、420年に裕に譲が行われ南最初の王った。この後、斉、梁、陳と続くが、南も北と同じく、どの王も政権が不安定で身内同士での内訌、暗愚のオンパレードであった。

502年、北の孝文が亡くなって間もなく、南では蕭(しょうえん)が斉(南斉)の和から位を奪って武帝となり、号を梁とした。武帝は門閥貴族からではなく、学問や実務力を重視して役人を登用した。武帝は孝文と同じく仏教を保護した。都の建康では同泰寺を建立すると、貴族達もこぞって寺を建てるようになった。この頃の著名な仏教人には達磨大師がいる。仏教中になった武帝は自ら「三宝の」と名乗り、同泰寺に出して全財産を寄進してしまった。しかしこれでは困るので、は同泰寺にお金を払って皇帝を返してもらっていたが、武帝はたびたび捨身してしまったのでの財政を圧迫することになった。

この頃、華北では東と西の二つに分裂し、それぞれ梁との間で武力衝突を起こしていた。梁はまず西と結び東を討ってから西に対抗しようとするも、東の猛将、侯景に頭を悩ましていた。そんなことをしている間に侯景が東を裏切って梁に投降してきてしまう。これを良い機会にと、梁は東に侵攻するが、東の高澄将軍が同じ仏教徒として和を申し込んできたために武帝はこれを承諾してしまう。548年に梁軍は建康に帰するも、その途中で侯景は離脱。その後、侯景は建康を包囲し549には占領、武帝閉され、侯景武帝の子の蕭網(しょうこう)をたてて簡文として実権を握った。しかし551年、侯景は武将の王僧弁や陳覇先に攻められて殺されてしまった。

その後、梁は各地の有力な王のうち建康を都とする梁と、江陵を都とする後梁に分裂し、557年、梁では陳覇先が敬から位を譲られて、武帝となり号を陳とした。この後、陳と後梁は華北を統一したの文によって滅ぼされ、南北朝時代は終わりを告げる。後漢の滅亡から約400年ぶりの中国の統一であった。

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