始祖は司馬炎(晋の武帝)。265年に司馬炎が魏皇帝から位を禅譲され、316年に匈奴と羯によって一度滅ぼされ、以後は司馬睿が江南で東晋を起こす。
三国時代を終わらせた王朝ではあるが、三國志演義の知名度の割にはあんまり知名度は高くないかもしれない。最近の三国志ゲームだと勢力の一つとして出て来ている。
三国時代の末期、魏の実権は司馬懿とその子の司馬師と司馬昭、孫の司馬炎ら司馬家三代に握られていた。249年、司馬懿はクーデーターを起して政治を完全掌握し、子の司馬師の時代には皇帝の首をすげ替えて、司馬昭は皇帝を殺して晋王を名乗った。更に司馬懿の孫の司馬炎は265年に、とうとう禅譲を受けて皇帝につき(武帝)、ここに魏が滅んで晋国が建国された。
晋の武帝は皇帝に即位した翌月、司馬氏の一族から27人を汝南、趙、成都、河間、楚などの国々の王に就かせ、皇室の藩屏(守護)としした。これは司馬一族の天下を確固たるものにする目的があったが、後に王朝権力の分散を招き、かえって晋の力を弱める結果になった。これは劉邦が建国した前漢でも同じ現象が見られる。
武帝は魏で始まった官吏登用システム九品中正(九品官人法)を継承した。九品中正とは地方で評判のいい人物を選び一品から九品までの九段階で序列をつけて中央政府に推薦するシステムである。しかし、これは長く続けると推薦される一族が段々と固定化され、その権力は地方貴族を生み出していった。地方では貧富の差が広がり、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という言葉も生まれた。そのため南北朝時代は貴族政治の時代と呼ばれ、貴族の勢いは大唐が滅びるまで続くことになる。
また280年には武帝は国の財政を豊かにするために今までの屯田制をあらため、占田法と課田法を取り入れた。これは、土地の広さに制限を加えて田祖や兵役を課した占田、国の土地を貸し与えて税収の確保を図る課田を実施し、全ての土地は公のものであることを確認することが目的であったのだが、実際には大土地所有者を押さえることが出来ず、土地を失って流民となる農民が続出していた。
280年、晋の武帝は諸王に命じて20万の大軍を派遣して呉の都、建業を落として呉を滅亡させ、後漢滅亡以来60年ぶりに中国を統一させた。
しかし天下を統一した武帝はその後、政治を怠って酒浸りの生活を送り、一方で疑心暗鬼の病に陥り、人気のあった斉王で弟の司馬攸(しばゆう)に無理難題を押しつけ、また汝南の司馬亮にも謀反の疑いを持つなど、宮廷は混乱した。当時武帝に仕えていた竹林の七賢人の一人である王戎は酒浸りの放楽生活を送り、それをとがめられると「皇帝と同じことをして何が悪い」と言い返したと言われる。この時代、王戎の他にも現実の政治から離れ文学や芸術を語り合う清談が流行していた。
290年武帝は体を壊して亡くなり、恵帝が後を継いだ。当時、日照りによる凶作で飢饉が発生したにもかかわらず恵帝は賈皇后の言いなりになり、毎日遊びほうけていた。恵帝の妻、賈皇后の一族は武帝の妻の楊皇太后の一族と対立し、全国の八王の力を借りた賈氏一族は楊氏一族を滅ぼすも、実権は汝南王の司馬亮に握られた。
こうして290年から始まった朝廷の内乱は各地の八王を巻き込んで以後16年に渡って続いて行く。これが八王の乱である。
291年には楚王、司馬瑋(しばい)が司馬亮を殺し権力を握ったと思えば、300年には趙王、司馬倫が賈氏一族を滅ぼし、更に翌年には斉王、司馬冏(しばけい)が司馬倫を殺し、更に更に翌年には司馬冏も長沙王、司馬乂(しばがい)に敗北する。休む間もなく同年司馬乂は成都王、司馬顒に討たれ、一方で303年河間王、司馬顒(しばぎょう)が長安で実験を握ったが306年に東海王、司馬越に敗北する。結局八王の乱は東海王の司馬越が勝利して、懐帝を即位させて乱は終わった。
しかし、八王の乱で各王が北方民族の力を借りたことがきっかけで、北方民族の中原への南下を許してしまった。その中でも最も力があったのは南匈奴の劉淵であった。304年、劉淵は漢王を称して、308年には山西省に漢(後の前趙)を建国した。311年に東海王、司馬越が亡くなると、匈奴と羯の連合軍は晋の都の洛陽を攻め(永嘉の乱)、懐帝は殺され、316年には劉淵の息子、劉聡は長安に攻め入って愍帝(びんてい)を捕らえ、ここに晋は滅んだ。
晋の皇族、司馬睿は江南に逃れ、浪邪王氏の協力の元、317年、呉の首都であった建康で元帝として皇帝の位につき東晋を建国した。司馬睿は華北回復のために江南の豪族と上手く付き合う方針を固め、また豪族も司馬睿を迎え入れた。この政権は亡命政権であったため、「王と馬とが天下をともにす」と評価されるほどに皇帝権力が弱く、政情が落ち着くと司馬睿は側近達の力を強めることによって豪族を抑えようとしたが、彼を補佐した王敦(おうとん)に反乱を起こされてしまい、詫びを入れてしまうほどだった。2代の明帝は名君で王敦の乱を鎮圧することができたが27歳の若さで病死。それ以後は皇帝は半ばお飾りと化し、重臣達が政権を運営していくこととなる。
一方華北の地は八王の乱、永嘉の乱と続く戦乱によってすっかり荒れ果てていた。ただでさえ洪水、日照り、イナゴの発生などにより苦しんだ農民達は当初、塢壁と呼ばれる土塁で自衛をしていたが、やがて異民族の侵入を受けるようになりやがて食べ物を求めて江南へと移住した。彼らは大河長江の恩恵を受けて、豊な暮らしを営むことができた。
東晋の時代、朝廷の貴族によって様々な文化が花開いた。353年、会稽の名勝の蘭亭で、東晋の地方官の王羲之が謝安、許詢、孫綽(そんしゃく)らを招いて宴を催した。この時に行われた曲水の宴は日本でも奈良・平安時代の貴族も真似たとされる。曲水の宴とは、川に杯を流し、目の前を通過する前に詩を作り、詠み終わったら酒を頂くという趣向である。王羲之は書聖とも呼ばれるほどの筆の名人であり、この宴で書いたものがかの有名な蘭亭序である。
東晋の軍はいくつかの戦争を経て、首都近郊に駐屯して北の守りを固める北府軍と、荊州に駐屯として西の守りを担う西府軍に集約されることとなる。この二つの巨大で同格の軍隊が微妙な均衡を保つことによって東晋は支えられていたが、桓温が台頭して西府軍を掌握すると東晋は簒奪の危機にさらされることとなる。
桓温は蜀で政権を築いていた成漢を滅ぼし、一時は洛陽も占領するなど実績を上げた。北府軍が北伐に失敗したこともあって桓温の名声は巨大になっていく。最終的には簒奪一歩手前までいったが宰相の機転によって失敗、その直後に病死したので危機は去ったかのように見えたが、もう一つの危機が迫っていた。
五胡がそれぞれの王朝で争っていた華北では前秦が370年に前燕、376年には前涼と拓跋氏による代国を滅ぼして華北を統一した。やがて前秦は東晋に90万の軍勢を率いて攻めて来たので、東晋の宰相、謝安は謝石、謝玄に8万の兵を与えて淝水でこれを迎え撃った。しかし、前秦の軍は様々な民族の混成軍であったためまとまりが悪く、先陣が敗北すると残りの軍勢も潰走してしまい、東晋は大勝利をおさめる。これが淝水の戦いである。この後、前秦の各部族は独立し、再び華北は分裂状態に陥った。そのため東晋は安寧を手に入れることができたが気が緩んだのか一気に堕落してしまう。
謝安の死、孝武帝が冗談を真に受けた妃の布団蒸しによって殺害され、一切の意志表示ができななかったといわれる重度の知的障害児の安帝が即位すると東晋は社会不安に襲われることとなる。その不安につけこむ形で五斗米道の孫恩が反乱を起こす。鎮圧はされたものの好機とみた桓温の息子で西府軍首領の桓玄が挙兵、北府軍の劉牢之を味方につけることによって易々と首都に入城した桓玄は政敵や劉牢之を粛清、やがて安帝を廃して自ら帝位についた。
が、あまりにも性急だったため北府軍の生き残りである劉裕が挙兵すると打ち破られて敗死。劉裕が安帝を復位させることよって404年に再興されるが、、実権は劉裕に握られていた。劉裕は孫恩の残党である廬循の一党を覆滅、南燕や後秦といった国々を滅ぼすことによって名声を高め、実績を積むと安帝を殺害して、恭帝を擁立、420年にその恭帝から劉裕は帝位を禅譲され、宋(南朝)を建国。ここに東晋は滅んだ。
掲示板
50 ななしのよっしん
2022/12/30(金) 20:53:11 ID: cg0TvHf0J4
51 ななしのよっしん
2023/03/23(木) 22:12:21 ID: j6FYZECpbF
(西)晋が評価するところないのは五胡十六国の荒廃で
記録も制度も何もかも継承できずに霧散したというのが大きいと思うから勘案すべきだと思う
まあ五胡十六国招いたのは西晋のせいだが
52 ななしのよっしん
2023/03/31(金) 23:32:55 ID: DpSHmb9X2R
まああえて挙げるなら国が滅茶苦茶に荒れたおかげで
儒教がすっかりガタガタになって仏教が本格的に台頭してきたって事だな
まあ仏教に先鞭付けたのは後趙の石勒だけどね・・・
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最終更新:2024/11/27(水) 02:00
最終更新:2024/11/27(水) 02:00
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