バキでたまに出てくるあのおっさんである。バキの愚地独歩や餓狼伝の松尾象山のモデルになった人と言ったほうが分かりやすいかもしれない。おっさんには空手バカ一代の主人公と言えば分かるだろう。
その溢れんばかりのエネルギーとゴッドハンドと呼ばれた圧倒的戦闘力から世界中を喧嘩しながら周り、極真空手を極めた。
彼の数々の伝説的エピソードは今でも多くの人々に語り継がれている。
1923年6月4日東京生まれ。少年時代に満州に渡りそこで神秘の古流中国拳法「借力」を学び、格闘技に目覚める。
14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。その後、拓殖大学、早稲田大学に入学し本格的に空手を学ぶ。
戦争に負けた日本で威張りくさるGHQの悪いアメリカ兵や、戦後の混乱期に跋扈するヤクザを相手に喧嘩を仕掛け全戦全勝。
昭和22年には全日本空手道選手権で圧倒的大差で優勝。その大会で披露した大山の空手は余りにも実践的過ぎたため寸止めルールを採用する伝統派から疎まれ、誰も大山の挑戦を受けてくれなくなってしまった。
そこで大山は人間ではなく牛を相手にし、47頭の牛を撲殺(そのうち4頭は即死)世間に名を知らしめる。
昭和27年には狭過ぎる日本を旅立ちアメリカへ。プロのレスラーやボクサーと対戦。真剣勝負7戦するも無敗。
31年大山道場をひらき、39年国際空手道連盟極真会館を設立。直接打撃制による極真空手でブームを生んだ。平成6年4月26日死去。
その修行は凄まじく、山に一年以上籠り空手と向かい合ったという伝説がある。その時大山は眉毛を剃っていたため付近の住人からは天狗とまで呼ばれた。
大山の空手チョップは石を割りビールビンを弾きとばし、凄まじい力は、十円玉を捩じ曲げたという。
強く愛国的であった大山は戦後の混乱期の中民衆に人気を獲得し、現在でも信奉者が多い大人物である。
1923年、朝鮮の裕福な家庭に生まれる。当時の朝鮮半島は旧日本と併合しており日本国扱いであったが、父親は日本中立派で(韓国では親日派は財産を没収されてしまうので中立派と呼ぶ)あったため日本の役人と仲が良く何不自由ない幼少期を送っていた。
学生時代の崔はYMCAでボクシングを学び、格闘技に目覚めていく。(けして借力などという訳の分からないものではない)
しかし儒教の影響の強い父親と自由を重んじる崔はそりが合わず、勘当されてしまう。その後、崔は日本の軍人になるために日本へ密入国を果たす(当時日本へ来る朝鮮人が余りにも多すぎたので入国制限がかられていた)。
だが、日本に着いたはよいものの軍人になるための学校の受験に失敗してしまった。それから1945年、終戦を迎え、朝鮮は日本の支配から解放されるが、祖国へ帰らず日本に住み着く朝鮮人も数多くいた。崔もその一人であった。
戦勝国であるアメリカ人から三国人(旧日本支配下の住民、在日中国朝鮮台湾人)として扱われた朝鮮人は抑圧の反動から戦後の日本で暴れまわっており、崔も愚連隊を結成しその大親分として広く名を轟かせていた。この争いはやがて朝鮮人同士での内紛へと発展し、その抗争は現在のヤクザの出入りとは比べ物にならない規模であったという。特に大きかったのは現在の在日朝鮮人総聯合会(総連)と在日大韓民国民団(民団)との間で起きていた抗争であり、崔はその実力からスカウトされ民団側の暴力グループのリーダーとなってた。
その他にも、
アメリカでレスラーと戦ったり(記録なし、ただし当時は記録がないのが普通)。
牛を殺したり(穏やかな性格の畜牛を一方的に屠殺、その後動物団体から怒られる)。
現在大山の伝説の多くは(詳細な部分ではまだ議論されているものの)大山が自分を大きく見せるための虚構だと言われている。
そもそも大山倍達は日本出身ではない。本名、崔 永宜(최 영의)という立派な韓国人である(日本統治下の朝鮮半島で生まれたので、「生まれたときから日本人」と名乗ってもウソでは無いが)。日本に不法入国を果たした大山は朝鮮民族運動に参加した後、日本に帰化し大山倍達と名前を変えたのであった。しかし日本に帰化したものの朝鮮の戸籍も残っており死ぬまで二重国籍者(違法)であり、大山はこの二重国籍を悪用し両国に家庭を持っていた。
大山は自分を大衆に知らしめるためにメディアを通じて自分の誇大な伝説を故意に世間に広めた。その最たるものが少年マガジンで連載されていた「空手バカ一代」である。このつのだじろう作の漫画によって大山のイメージは固定され、日本中に極真ブームを巻き起こした。生前大山は「噓も1000回つけば本当になる」と取材に答えている。
大山は、その伝説が形成される過程で大山は自分と朝鮮の関わりの全て(故郷、師匠、兄弟、親友、民族運動への参加など)を黒歴史として葬り、純粋な日本人として振る舞った。その為、他の在日の人からは「なぜ素直に韓国人を名乗ってくれないのか」と非常に残念がられていた。しかしだからといって帰化した日本人として日本への愛情があったかというとそうでもなく、例えばスポーツで日韓戦があった場合は韓国を応援すると公言したり、そもそも大山倍達の倍達とは日本で言うヤマトのような意味であり、知る人が聞けばすぐに韓国人であることが分かってしまう名前であった。
大山にとっては崔にとって朝鮮だとか日本だとかは小さい問題であり、広い世界の中で自分という人間がどこまでやれるかという事の方が重要であった(悪く言えば両方のいいとこ取り)。民族運動に関しても民族意識からこのような民族運動に参加したわけではなく、自らの空手の技を思う存分発揮できる場所くらいにしか思っていなかったという。
結局のところ大山という人間の実像は人によって評価が別れるものになってしまうだろう。それに加え、真の大山の人生を考えることは日韓併合、強制連行、創始改名などのめんどくさい歴史認識問題も絡んできたり、極真会館の干渉もあって事実上タブーに近いものになっている。
しかしそれでも尚、大山が優れた武芸者であり、極真空手を世に広めたという業績は紛れもない事実である。
掲示板
64 ななしのよっしん
2022/04/01(金) 12:24:27 ID: J+ra+5vjXQ
柳川次郎、田中清玄と仲良くしてたあたり、やっぱりアウトローな世界の人だったんだろうなぁ
65 ななしのよっしん
2022/07/22(金) 18:05:02 ID: CHezkby2WE
>アメリカでレスラーと戦ったり(記録なし、ただし当時は記録がないのが普通)。
https://
渡米して事実確認した人物がいた(むしろ今までそこまでする人物はいなかった模様)
66 ななしのよっしん
2022/08/06(土) 17:35:12 ID: PCaqyPWZH4
「何一つ師らしいことをしていない」
「喧嘩ができない最低の大法螺吹き」
「最低の人間」
by黒崎健時(元極真会館最高師範)
東孝(大道塾創立者)「大山館長は若い頃強かったですか?」
黒崎健時「強かったよ。俺が勝てなかったんだから」
大山に否定的な人物でさえこう評してたんだから強さだけはガチだったんだろうな
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最終更新:2024/12/02(月) 05:00
最終更新:2024/12/02(月) 05:00
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