大崎昭一(おおさき しょういち)とは、宮崎県延岡市出身の元JRA所属の騎手である。
| 大崎昭一 おおさき しょういち |
|
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 性別 | 男性 |
| 出身地 | 宮崎県延岡市 |
| 生年月日 | 1945年1月15日 |
| 騎手情報 | |
| 所属 | 日本中央競馬会(JRA) |
| 東京→美浦T.C.→栗東T.C. | |
| 初免許年 | 1963年 |
| 免許区分 | 平地(初期には障害免許も保持) |
| 引退日 | 1999年 |
| 重賞勝利 | 36勝 |
| 通算成績 | 8884戦970勝 |
| 騎手テンプレート | |
1945年1月15日生まれ。7人兄弟のしたから末っ子として生まれた。父がアングロアラブの生産も行う農家であり、牝馬を一頭飼育していた。馬が身近にいる環境で育ち、11歳頃には既に馬に跨っていた。
中学校では矢野一博、田島日出雄、安田伊佐夫など、後に騎手となる先輩や同級生も多く、大崎も迷うことなく騎手を目指した。
中学卒業と同時に、馬事公苑騎手養成長期課程に進み、矢野の紹介で東京:柴田寛厩舎に入門。馬事公苑同期には中学時代の同期である安田の他に鹿戸明、久保敏文、領家政蔵らがいた。
1963年3月、騎手免許を取得。3月17日の中山第4競走 4歳新馬 イチサキミドリで初騎乗(12頭中12着)。初勝利は5月3日の東京第6競走 4歳未勝利 ダイゴコートウで初勝利を挙げた。同年は5勝を挙げた。
1965年には目黒記念(春)をブルタカチホで制して重賞初勝利。その後、カブトヤマ記念をカブトシローで制している。
1966年、調教中の落馬で馬の下敷きになってしまい、骨盤を7箇所も骨折してしまう。一時は騎手を諦めるほどの大怪我だったが、1年ほどで復帰を果たした。
1967年、有馬記念では約1年9ヶ月ぶりにカブトシロー騎乗となったが、このレースで3コーナーから大まくりを見せ、当時の有馬記念記録となる6馬身差の圧勝で周囲を驚かせた。また、21歳11ヶ月での八大競走勝利は1990年に武豊が更新するまで長らく中央競馬記録であった。
1969年、東京優駿を6番人気のダイシンボルガードで勝利し、ダービージョッキーとなった。このレースは1番人気のタカツバキがスタート直後に落馬し、最終直線では勝利を確信したダイシンボルガードの厩務員がコースに飛び出し、バンザイをしながら走るというハプニングが続出したレースであった。表彰式の後ではファンの祝福に応じていた大崎がスタンドに引きずり込まれ、胴上げされるという前代未聞の出来事も起こった。このダービーの1週間後に結婚式を挙げている。
1973年、騎乗中に落馬し腰椎を骨折。ただ、前回の怪我ほど長引きことはなかった。
1975年、フジノパーシアの主戦騎手を任され、天皇賞(秋)を勝利。
1976年にはフジノパーシアとのコンビで宝塚記念を制し、11月には同馬とのコンビで日本代表としてワシントンD.C.インターナショナル(GⅠ)にも招待されたが、レースではイベントの影響で掛かってしまい、6着に敗れた。同年はキャリアハイの51勝を挙げ、全国リーディング5位という成績を残した。
1977年、新馬戦で落馬した際に肋骨を5本折ってしまい、復帰に1年以上を要した。翌1978年、復帰を果たしたが、復帰早々に今度は大腿骨を骨折、更に治療ミスも重なり再び1年近くの休養となってしまった。
1979年、有馬記念にてグリーングラスに騎乗。グリーングラスはこのレースで引退が決まっていたが、テン乗りの大崎は3コーナーで抜け出すと、猛追するメジロファントムを凌ぎきり勝利。引退レースに華を添えた。
1981年、フリー騎手に転向。同年皐月賞を16番人気のカツトップエースで逃げ切り勝ちを挙げると、その後の東京優駿でも同馬とのコンビでサンエイソロンにハナ差をつけ勝利。
怪我こそ多かったがトップジョッキーとして順風満帆なキャリアを築いていた大崎であったが、1985年の新潟開催で暗転してしまう。馬場入場時に知り合いから「調子はどうだい?」と声をかけられ、大崎はこれに答えてしまったのである。この行為が『公正競馬を害する行為』とされ、大崎に無期限の騎乗停止処分が下された。マスコミはこぞって『八百長』と指摘、中には『暴力団との黒いつながり』というありもしない事実をでっち上げる週刊誌まで登場した。その後の調査で不自然な行為は認められなかったとして、結果冤罪となり、騎乗停止も4ヶ月で解除されたが、その余波は大きく、調教依頼や騎乗数は大幅に減少、所属する関東ではなく、関西やローカル開催での騎乗がメインとなっていった。
1992年、レッツゴーターキンで天皇賞(秋)を制覇。大崎にとっては11年ぶりのGⅠ勝利であり、管理する橋口弘次郎調教師にとって初めてのGⅠ制覇であった。大崎と橋口師は同郷の出身であり、橋口師は大崎のファンであったことから、橋口師は前述の冤罪事件以降も大崎に多く騎乗依頼を出していた。
1998年5月31日の中京第3競走 4歳未勝利 ムスメに騎乗した際に直線で他馬と接触して落馬。脳震盪と診断すぐに復帰したが、約1ヶ月後に慢性硬膜下血腫を発症。なんとか一命をとりとめ、復帰に向けリハビリを続けたが騎乗に耐えられるほどには回復せず、翌1999年に騎手を引退することとなった。
ただ、心身のバランスを悪くしたため、2005年頃に宮崎県に帰郷している。
テン乗りでも馬の持ち味を最大限に発揮するなど、天性の勘の良さを武器に大胆な騎乗で競馬ファンを驚かせてきた騎手。関節の柔らかさを生かした癖がなく無理のない騎乗と競馬誌では評されている。
レース前の取材などでは弱気なコメントをすることが多かったことから「泣きの昭ちゃん」と呼ばれた。
性格面は柴田調教師いわく「真面目」「引っ込み思案」「暗い」「口数が少ない」「慎重」とのこと。
競馬予想会社で働いていたという経緯もあり、調教師を目指す息子の正博と話し合いの末縁を切った。正博はその後JRAの試験に合格し、結婚を機に「大竹」に改姓、GⅠ馬のブラストワンピースなどを管理するなど活躍を見せいている。なお、予想会社を退社して以降は再び連絡を取り合うようになっているという。
※ニコニコ大百科に記事のある競走馬を記載。( )内は大崎騎乗での勝ち鞍。
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