メジロファントムとは、1975年生まれの日本の競走馬である。鹿毛の牡馬。
70年代末から80年代前半の中央競馬で長く活躍し、史上二頭目の有馬記念5年連続出場、史上初の古馬王道完走などの記録を作った名脇役。
主な勝ち鞍
1979年:東京新聞杯
1982年:目黒記念(秋)
※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。
父ロンバード、母メジロハリマ、母父ネヴァービートという血統。
父ロンバードはイギリスで走り11戦4勝のリボー系種牡馬。愛ダービー2着の実績も持つ。種牡馬としてはメジロファントムの他日経新春杯を勝ったメジロトランザム、日経賞を勝ったメジロフルマー、中山大障害を勝ったパンフレットを輩出しそこそこ成功している。
母メジロハリマはメジロ牧場の三大基礎繁殖牝馬の1頭アサマユリの子で、中央で11戦1勝の後繁殖入りした。メジロファントムを産んだ当時はメジロ牧場から吉田堅氏の牧場(現吉田ファーム)へ預託されており、生産者としては吉田堅の名前になっている。
母父ネヴァービートはその活躍で「ネヴァーセイダイブーム」を引き起こした大種牡馬。母父としては他にメジロラモーヌやダイタクヘリオスを出している。
1975年5月1日に預託先である浦賀町の吉田堅氏の下で誕生。75年生まれのメジロの馬は戦闘機の名前が馬名に取られており、本馬はF-4戦闘機の愛称「ファントムII」からメジロファントムと名付けられた。メジロ牧場が創設されて以降牧場以外で生産された競走馬は慣例的にメジロ商事の名義で競走馬生活を送っていたが、メジロファントムはこの慣例から外れ、かつて朝日杯を勝利して65年の最優秀3歳牝馬を受賞したメジロボサツを所有した北野家の1人、北野俊雄氏が直接所有し走らせることになった。3歳になったメジロファントムは後にメジロアンタレス、メジロファラオ、メジロドーベルで障害、平地の大レースを制覇する大久保洋吉厩舎へ入厩した。
1977年12月に宮田仁騎手を鞍上にデビューし7着に敗れたが、中1週で挑んだ折り返しの新馬戦では10馬身差の圧勝で初勝利を飾った。陣営はこの圧勝でクラシックでも勝負になると踏んで年明けから前哨戦の京成杯、東京4歳ステークス、弥生賞と3連続で重賞に格上挑戦したが、朝日杯2着のタケデン、後のダービー馬サクラショウリと皐月賞馬ファンタストに敗れ、しかもクラシック直前に骨折してしまい8か月の休養。クラシック三冠を完全に棒に振ってしまった。
何とか年内の11月に復帰し700万下の白富士賞に出走するとメンバーの薄さから長期休養明けにもかかわらず1番人気に支持されて2馬身半差で勝利。この勝利で推薦により有馬記念へ挑戦したが、同じメジロの同期メジロイーグルが逃げて1着争いを繰り広げる中特に見せ場もなくカネミノブの13着に惨敗。初めての有馬記念は苦い敗北で終わった。
5歳時の1979年は年始の金杯(東)から始動。勝ったシービークロスの4分の3馬身差の2着に入り古馬重賞でも戦えることを示し、次走の東京新聞杯で重賞初制覇。しかし続けて出走した中山記念では5着。天皇賞(春)の叩きとして出走したダイヤモンドステークスでは6着に敗れ、この敗戦で長距離適性が無いと判断されたのか天皇賞を回避することになり[1]、次走は京王杯スプリングハンデキャップとなった。トップハンデではあったものの1番人気に支持されたが、ここも3着と勝利を逃し、徐々に勝ち切れない善戦マンの片鱗を見せ始めてきた。
陣営はここでデビュー以来コンビを組んで来た宮田騎手からメジロタイヨウやメジロムサシの主戦を務めていた横山富雄騎手に乗り替わりさせ、変わり身を期待して宝塚記念へ参戦。後方から追い込んだがサクラショウリの5着までと掲示板確保までに留まり、8月まで3戦するも3着、5着、4着とやはり勝ち切れなかった。そこで陣営は出走レースの格をオープンから1200万下条件戦に下げサファイヤステークスへ出走。条件戦とはいえ後にエリザベス女王杯を勝つミスカブラヤを始めカブトヤマ記念を勝ったメジロマーティンやダービー卿チャレンジトロフィーを勝ったマークヒリュウなど実績馬が多数揃ったが、1番人気に支持されそれに応えて4勝目。休養を挟んで出走した目黒記念(秋)ではレコード駆けのシービークロスの4着とし、天皇賞へ初挑戦することになった。
1979年の天皇賞(秋)は前走でグリーングラスを5馬身差で破ってきた同期メジロイーグルが1番人気、宝塚記念以来の出走となるサクラショウリが差のない2番人気、毎日王冠2着のカネミノブが3番人気で、メジロファントムは13頭中8番人気と目立つ存在ではなかった。レース本番では人気馬が不良馬場に足を取られて伸びを欠き、逃げたメジロイーグルも直線で早々に脱落。メジロファントムはその中にあって力強く足を延ばして馬群から抜け出し同じく抜け出していたスリージャイアンツへと迫った。天皇賞(秋)の最終直線はこの2頭の一騎打ちとなり、メジロファントムは一時先頭に立ったが、併せ馬の形になった事によりスリージャイアンツの足色も衰えず、メジロファントムは惜しくもハナ差でスリージャイアンツに敗れて2着。しかし3着アサヒダイオーには7馬身もの差をつけ、これまで重賞1勝の善戦マンとしか見られていなかったメジロファントムが一流馬の仲間入りを果たす大きな切っ掛けになった。
その後メジロファントムは去年推薦を受けてギリギリ滑り込んだ有馬記念に秋天2着の有力馬として堂々参戦。79年の有馬記念は八大競走優勝馬9頭を含む史上初となるフルゲートで開催された。本番ではいつも通り後方から前年優勝馬カネミノブをマークし、最終直線に入った所でロングスパートしていたグリーングラスを大外から急襲。天皇賞と同じく最終直線で一騎打ちとなったが、これが引退レースのグリーングラスに粘られ再びハナ差で惜敗。レース後には連覇を目指していた3着カネミノブ騎乗の加賀武見騎手から大外からの斜行を激怒される一幕もあった。
6歳になった1980年は有馬記念後に骨折してしまったことにより春は全休を余儀なくされたが、秋競馬には間に合い毎日王冠から戦列に復帰。前年秋の強さから長期休養明けにもかかわらず1番人気に支持されたが、カネミノブの6着に敗れた。オープン戦を叩いて出走した天皇賞(秋)では直前まで主戦を務めていた横山騎手が大逃げを仕掛けたプリテイキャストが余力を残していることを道中で見抜き捕まえるために他馬より早めに仕掛けたものの7馬身差の2着まで。続けて出走した有馬記念では今回こそと1番人気に支持されたが前走で敗れたプリテイキャストが早々に失速した際の鞭がメジロファントムにとっての見せ鞭になるアクシデントにより折り合いを欠き、最終直線での追い比べでホウヨウボーイの4着に敗れた。
7歳になった1981年も現役を続行。7歳と言えばそろそろ衰えを見せる競走馬も多くなってくる年齢だが、メジロファントムはまだまだ力のある所を見せる。初戦のアメリカジョッキークラブカップをホウヨウボーイの3着、次走の目黒記念は59kgのトップハンデが響き9着と掲示板を逃したが、サンケイ大阪杯4着。7歳にして初挑戦となった天皇賞(春)をカツラノハイセイコの3着、宝塚記念をカツアールの3着、高松宮杯をハギノトップレディの5着、毎日王冠をジュウジアローの5着と勝利こそできなかったが7歳馬とは思えないほどの活躍を見せる。しかしさすがに疲れが出てきたのか3番人気に支持された天皇賞(秋)ではホウヨウボーイや4歳の新鋭モンテプリンスやアンバーシャダイに押され7着。第一回開催のジャパンカップでは一流の外国馬相手には全く通じず11着に大敗し、4年連続出走の有馬記念では16頭中12番人気まで人気を落としてアンバーシャダイの10着と精彩を欠いた。しかし春から現在古馬王道と呼ばれている当時の大レースすべてに出走したことによりメジロファントムのは日本競馬における名脇役としての人気を不動のものとしていた。
翌1982年も現役を続けるものの3度目の骨折を負い、しかもかなりの重傷で命も危ぶまれたものの、陣営の尽力により3度復活。だがそれと入れ替わるようにして主戦の横山騎手が病に倒れてしまい、復帰戦のオープン戦UHB杯からは的場均騎手に乗り替わって7番人気を覆し3着と好走。郷原博之騎手と挑んだ毎日王冠、天皇賞(秋)は8着、6着と一桁順位には残り、ジャパンカップを見送って出走した目黒記念(秋)ではスーパーサバンナ、カミノスミレ、ピュアーシンボリ、キョウエイプロミスを破って勝利。5歳時の東京新聞杯以来の重賞2勝目、1200万下のサファイヤステークス以来の通算5勝目を8歳にして達成した。年末の有馬記念ではスピードシンボリ以来の5年連続出走を達成したが、さすがに余力なく10着と敗れた。
9歳になった1983年も現役を続行。始動戦のアメリカジョッキークラブカップでは有馬記念馬アンバーシャダイ、菊花賞馬ミナガワマンナに続く3着に入り、ビクトリアクラウン、ホリスキー、トウショウゴッド、メジロティターン、カミノスミレ、ピュアーシンボリなど実力馬達に先着しまだまだ一線級の力を持っていることを見せつけた。秋春連覇を狙った目黒記念(春)では59kgのハンデがさすがに堪えたか7着に敗れたが、サンケイ大阪杯5着、天皇賞(春)4着と大レースでは復調を見せ、宝塚記念でハギノカムイオーの8着とした後に引退した。東京競馬場で引退式が行われ、重賞2勝馬とは思えないほどのファンからの声援に贈られターフを去った。通算成績44戦5勝。うち重賞2勝。多くの勝利を積み重ねることは出来なかったが、7年間に渡りタフに走り、史上二頭目の5年連続有馬記念出走など多くの大レースで様々な見せ場を作った。TTGが活躍した時代から三冠馬ミスターシービーが現れる直前まで70年代末から80年代前半の日本競馬を盛り上げた名バイプレーヤーであった。
引退後は種牡馬になるための試験を受けたものの、体質的な問題で試験をパスできず、種牡馬になることが出来なかった。去就が心配されたものの、JRAに寄贈されて誘導馬になることが出来、メジロファントムは再びファンの前に戻ってきた。誘導場は通常芦毛など目立つ毛色の馬が担当するもので、鹿毛だったメジロファントムは目立つ存在ではなかったが、元々の好馬体に加え歴戦の経歴によるものか風格ある立ち姿を見せ、誘導馬のなかでも屈指の知名度もあり大きな人気があったようである。その後1995年に高齢のため誘導馬を引退。東京競馬場で2度目の引退式が執り行われた。その後は北海道の日高にあるJRAの牧場で余生を過ごし、2004年に老衰により死去。29歳の大往生だった。
| *ロンバード 1968 鹿毛 |
Ragusa 1960 鹿毛 |
Ribot | Tenerani |
| Romanella | |||
| Fantan | Ambiorix | ||
| Red Eye | |||
| Midnight Chimes 1962 鹿毛 |
Princely Gift | Nasrullah | |
| Blue Gem | |||
| Golden Footprints | Windsor Slipper | ||
| Probity | |||
| メジロハリマ 1967 栗毛 FNo.7-c |
*ネヴァービート 1960 栃栗毛 |
Never Say Die | Nasrullah |
| Singing Grass | |||
| Bride Elect | Big Game | ||
| Netherton Maid | |||
| アサマユリ 1959 栗毛 |
ボストニアン | *セフト | |
| 神正 | |||
| トモエ | 月友 | ||
| アスエ | |||
| 競走馬の4代血統表 | |||
クロス:Nasrullah 4×4(12.50%)、Nearco 5×5×5(9.38%)
掲示板
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最終更新:2025/12/08(月) 17:00
最終更新:2025/12/08(月) 17:00
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