神戸空襲とは、1945年に複数回実行された、アメリカ軍機による神戸への空襲である。神戸大空襲とも。
神戸市には日本五大港の一つに数えられる神戸港があり、海運の重要拠点として機能していた。ゆえに戦略的価値も高く、1942年4月18日のドゥーリットル空襲でも攻撃目標になっている。
戦況が絶望的になった1944年12月15日、阪神地区に1機のB-29が侵入した。翌1945年1月3日より神戸市への空襲が始まったが、この頃は航空機工場やエンジン工場といった軍事目標にのみ爆撃していた。しかし2月4日には焼夷弾による無差別爆撃が行われ、市民に大きな犠牲が出た。だがこの爆撃でさえ、悲劇の序幕に過ぎなかったのである。
日本本土侵攻の足がかりにするため、アメリカ軍は1945年4月1日に沖縄へ上陸する事に決定。しかし本土が近い事もあり、帝國陸海軍の猛烈な抵抗がされた。そこで帝國海軍の一大拠点である呉軍港の空襲を企図したのだが、その補助作戦に神戸への攻撃が選ばれた。
3月17日午前2時29分、のべ306機(70機とも)のB-29が低空より神戸市に侵入。街は灯火管制により真っ暗であったが、照明弾の投下によって昼間のように照らされ、市街地に向けて焼夷弾と破砕弾を投下。火の手が上がり始めた。凄まじい爆撃で市街地は炎に包まれ、人々は避難所や国鉄三宮駅広場などに避難を強いられた。
地上からは照空灯が照射され、迎撃は伊丹基地から出撃した陸軍第56戦隊が担当した。午前3時頃、飛行隊長の緒方醇一大尉が駆る飛燕がB-29に体当たりし、道連れにした。B-29は再度山に叩き付けられ、緒方大尉機も山の中に消えていった。3月23日付の神戸新聞によると、11名中5名の米兵の遺体が確認された。2名の米兵はパラシュートで脱出したが、午前9時頃に逮捕され大阪城前の憲兵本部に引き渡された。緒方大尉の機が墜落した場所である大龍寺には戦死之地という碑が建てられた。他にも1機が撃墜され、明石郡押部村(現神戸市西区押部町)に墜落。搭乗員11名全員が戦死した。また神戸とテニアン島の間にある海上で1機が墜落し、アメリカ軍は計3機のB-29を喪失した。爆撃は午前4時52分に終了したが、兵庫区、林田区を始めとする神戸市の西半分が壊滅。約2500名の犠牲者を出した。この日を境に学童の疎開が始まり、親類が田舎にいる場合は個別に、いない者は集団疎開となった。
3月19日には米艦載機が飛来し、神戸港に停泊していた船舶が攻撃された。最大級の艦だった特設空母しまね丸も攻撃を受け、損傷している。
この日は川西航空機甲南製作所(現神戸市東灘区)を標的とした爆撃が行われた。グアムから飛び立った101機のB-29が製作所を精密爆撃したが、流れ弾で灘区と武庫郡が焼き払われて壊滅。アメリカ軍の損害は、グアムから離陸した際に墜落した1機のみであり、神戸市上空で撃ち落とされた機は無かった。乗組員11名は全員死亡した。
2か月半後の6月5日にも、大規模な空襲が行われた。一般的に神戸大空襲と言えば、3月17日と6月5日を指す。3月17日の時をも上回る、350機(474機とも)のB-29が神戸市東部を爆撃した。
6月5日早朝、警戒警報発令。ラジオが潮岬上空を通過するB-29の編隊を報道し、各家庭では防火に備える。大編隊から轟くエンジン音は地上にまで届き、否応にも敵機の接近を知らされる。迎撃に上がる日本軍機は全く無く、当たりっこない対空砲が火を噴いているだけだった。
午前7時22分、爆撃が開始された。投下された焼夷弾は東京大空襲の約2倍に相当する3000トンに及び、前回の爆撃で残っていた神戸市の東半分もまた壊滅し、以降神戸市は焼夷弾攻撃のリストから外された。約3000名が死亡した。午前8時47分に終了。高射砲部隊の反撃により11機のB-29が撃墜され、このうち何機かは京都の高射砲部隊や三重の明野教導飛行師団といった他県の部隊の戦果だった。
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最終更新:2025/12/24(水) 12:00
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