第一次インドシナ戦争 単語

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ダイイチジインドシナセンソウ

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第一次インドシナ戦争とは、アジア・太平洋戦争終結後にベトナムと宗フランスとの間で戦われた独立戦争である。

戦争1954年のジュネーヴ協定で終結したが、フランスの後にアメリカ戦争を引き継ぎ第二次インドシナ戦争ベトナム戦争)へと続いていく。

概要

1941年の日開戦直前、大日本帝国は当時フランスが支配していたインドシナへと侵攻を開始する。当初はフランスと共同で治めていたが、戦争末期フランスを放逐し日本単独支配に切り替えた(印処理)。日本は「アジア解放」の掛けをあげてアジアに進出していたため、フランスを追い出した後、ベトナム人の協を仰ぐ的もありベトナムへの「独立付与」を宣言した。しかしその内実は日本の「導」にする前提の「独立」であり、とても現地人が納得できるものではなかった。共産党導し、以前から抗日ゲリラ活動をしていたベトミン(ベトナム独立同盟会)の動きも鎮まる様子はなかった。

ベトミンとは別に、当時『タインギ』という社会評論雑誌からを受けた知識人がベトナムで育っていた。同誌の編集者ヴー・ディン・ホエは日本による独立付与を「から降ってきた独立」と表現した。これは「一応独立独立であるが、これに中身を伴わせるのは々の努次第だ」という意味である。タインギ系知識人はチャンチョン・キム内閣の中枢を担い、ヴーは新ベトナム会を結成して内閣支援する姿勢を打ち出した。新ベトナム会は日本から与えられた「独立」の下でを蓄え、来るべきフランスとの独立戦争に備えようとしていた。この考えは知識人には人気があったが、共産党系のベトミンからは不評であった。

しかしその後ベトナム飢饉が巻き起こり(→ベトナム大飢饉(1944~45年))、ヴーの考えは長となり本人もベトミンに期待をかけるようになった。餓死者が続出する中ベトミンは日本食料備蓄庫を襲撃し人気を博した。8月日本が降するとベトミンは全起を呼びかけたが、タインギ系知識人がこれを支持したことでベトミンのが乏しかったハノイ、フエ、サイゴンなど大都市でも共産党応援する者が増えた。こうして、他の東南アジア共産党の抗日運動と違い、ベトナム8月革命は大衆的かつ全的な革命となった。新たに建されたベトナム民主共和ホー・チ・ミン政権の下、ヴーは教育相となる。

だがベトナム独立宣言は旧宗フランスとの協議を経ない一方的な意思表示にすぎなかった。そしてフランスベトナム植民地を諦めるつもりもなかった。しかし一方でナチスとのしい戦いを終えてベトナムに軍隊を送る余裕はフランスにはなかった。1946年3月、ようやくフランス軍がベトナムに着くと、そこにはかつての後進国から進化した近代国家が誕生していた。ベトナム軍など鎧袖一触で粉砕できると考えていたフランスは計算違いを修正し、ベトナム少数民族の対立を煽りベトナムとしての一体感を崩す策略に出た。二間の轢は強まり、やがてフランス軍事の行使を厭わなくなり、12月にはベトナムフランスに対する全抗戦に突入。第一次インドシナ戦争が勃発した。

フランス戦争は短期で終結させるつもりであったが予想は外れ戦争は長引いた。一方でベトナム社会からの支援を受けることには失敗していた。当初アメリカフランスの味方でもなかったがあえて敵に回すつもりもなく、トルーマン大統領ホー・チ・ミンの書簡を何度も無視した。フランスグエン最後の皇帝バオダイを担ぎだし、ベトナム南ベトナム)をフランス連合の中で独立させ、「この戦いは植民地vs植民地戦争でなく、共産主義vsナショナリストの内戦なのだ」と社会に印付けた。1949年には中国の内乱で共産党勝利したことに衝撃を受けたアメリカ化防止のためにフランスの戦いを支援することを決定する。

アメリカとは逆に中国共産主義政権が誕生したことはホー・チ・ミンにとって明であった。中国世界で初めてベトナム民主共和を正式に国家として承認すると、ホー・チ・ミン毛沢東と会談し、更にモスクワスターリンともよしみを通じようとする。スターリンは「ホーがどんな人物か知らないし、マルクス義者かどうかも分からない」と言って冷淡であったが、毛沢東のとりなしで会談が実現する。一応はベトナム民主共和を承認したスターリンであるが、ベトナム支援中国仕事だとして軍事顧問派遣などは断った。

そして中国もまたベトナムへの援助には消極的であった。古来中国を接し、中国の偉大さを畏怖していたベトナムにとって中国のこのそっけない態度は心外であった。そこでホーは中国を見習い共産党組に乗り出した。それまで地下に潜っていたインドシナ共産党ベトナム労働党称し、然と国家導する立場になった。党大会ではスターリンを「世界革命総司令官」、毛沢東を「アジア革命総司令官」と持ち上げ、中ソとのイデオロギー的連帯を強調した。中国朝鮮戦争の勃発により、もし朝鮮でもベトナムでもアメリカ勝利すれば、台湾峡も含めてアメリカから三方同時侵略されるという危惧からベトナム支援に乗り出した。こうして第一次インドシナ戦争は独立戦争から冷戦期のイデオロギー戦争へと質的変化を遂げる。

長引いた戦争も、スターリンが死去し、朝鮮戦争の停戦が成立した1953年、ようやく終結に向けての動きが出てきた。両営共に着状態であったためベトナムは西の高原地帯にを振りわけ戦況の打破を狙った。これに対してフランスラオス地帯の地、ディエンビエンフー地を構築しベトナムを逆にこうと図った。54年3月ディエンビエンフー攻防戦が開始される。山岳地帯であるため大火器の使用は不可能であるというフランスの予想に反し、ベトナム軍は人力で火器を山上に運び上げ猛攻撃を仕掛けた。5月7日フランス軍は降。精鋭のヨーロッパの大部隊植民地現地軍に大敗するというニュースは列強の植民地時代の終焉予感させるには十分であった。

ディエンビエンフー決戦の後、講和会議がジューネーヴで開催される。しかしこ会議にはベトナム民主共和インドシナの代表に加えアメリカフランスイギリスソ連中国のいわゆる五大も参加しており大の思惑に左右される面が強かった。条約で「2年後に南北統一選挙を実施する」という約束がされるも実現可性は低かった。ベトナムアメリカの本格参戦を恐れて強く交渉はできなかった。結果的にベトナム国家が北緯17度で分断化されたまま戦争を終えることとなった。中ソの内の共産化が強まり、ディエンビエンフーで死闘を生き抜いた兵士たちが帰郷すると「地」として糾弾されるという悲劇も発生した。ベトナムが統一し、独立を勝ち取るまでには第二次インドシナ戦争、すなわちアメリカとのベトナム戦争と勝ち抜かなければいけなかった。

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最終更新:2024/05/23(木) 16:00

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