織田信秀 単語

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織田信秀(おだ・のぶひで)とは

  1. 1511 ~ 1552)尾戦国大名織田信長として有名である。
  2. (1571頃? ~ ?)織田信長の六男。1の信秀の孫にあたる。

1.織田信秀(信長父)

概要

『尾の虎』異名をとった戦国武将。尾守護代・織田大和(清織田)に仕える分織田弾正忠』の出身であったが、経済軍事的才覚でメキメキと頭を現す。尾の勢を築き、弾正忠戦国大名にまでのし上げた。

の他勢をけん制しつつ、三河の松平清康美濃斎藤道三駿河の今川義元らと争うが、病に倒れた。息子織田信長にその覇業は受け継がれていく。

織田弾正忠家とは…

のちに下人織田信長を輩出して織田の宗となった弾正忠であるが、元々は庶流のひとつにすぎない。

守護大名は斯波武衛、この時代には既に落状態だが、足利将軍から分かれた由緒ある名門である。それに仕える守護代が織田氏だが、これが応仁の乱で二つに分かれて、上四を本来の流である織田伊勢岩倉織田)、下四織田大和(清織田)が支配していた。

この大和の重臣『清三奉行』として、庶流にあたる織田因幡織田衛門、そして織田弾正忠がいた。つまり・・・

  • 守護斯波氏
    • …に仕える守護代織田
      • …の片一方である大和
        • …に仕える庶流の一族

という、あくまで一家臣にすぎない柄だった。なお斯波武衛は清大和護下にあり、事実大和が尾一の実者の立場にあった。

生涯

織田信定(信貞)の息子・信定は尾西部に位置する勝で、その地の利を活かし、ほど近い津島を勢下に収めた。この為、信定の代から弾正忠経済はメキメキと伸びていた。

1526年ごろ、から督を譲られて信秀が弾正忠となる。この頃には、である大和にも対抗できるほどの勢にまで成長していた。

駿河の今川氏親は既に死去していた(1526年)が、彼が存命だった頃には尾にまで勢が伸びており、そうして今川の手によって築されたのが那古野だった。1532年、信秀はここに奇襲をかけて奪取し、拠点を移す。1534年、嫡男の信長が誕生。

こうして尾東部へと進出し、津島に続いて熱田のも勢下に置いた。こうして得た利益を朝廷や幕府に積極的に献上し、正式に官位も賜るなど、勢に見合った権威付けも着々と進められている。

一方三河では松平清康が台頭し、内を統一すると尾へと攻め込んできた。が、1535年の守山崩れで清康は臣に暗殺されてしまう。この混乱に乗じて信秀はカウンターをかけ、三河の安祥を奪取し、庶長子の織田信広をとした。続いて支援するべく出してきた今川義元第一次小豆坂の戦いで争うが、これに勝利して三河での勢を維持した。

すると今度は美濃騒乱が起こり、守護土岐頼芸斎藤道三によって追放されて尾亡命してきた。このため、越前朝倉孝景らと組んで美濃へと出する・・・が、1544年の加納口の戦いで大敗してしまった。

ここまですこぶる順調な拡大を見せていた信秀だったが、このつまづきを見て反撃に出る勢が続出する。甥の織田信清犬山城)の反乱や、大和織田信友の攻撃を受け、美濃戦線の維持が難しくなってしまった。そこで三とは和し、彼の帰蝶濃姫)を信長の妻とすることが決まった。土岐頼芸美濃へ帰還したが、結局数年後に追放されている。かなしい。

同時期、松平広忠(清康の子)は息子竹千代(のちの徳川家康)を今川への人質に送ろうとしていたが、信秀はその護衛を買収して竹千代の身柄を確保することに成功する。そのままを併すべく1548年、二次小豆坂の戦いが勃発した、が、今川の援軍である太原雪斎の前に敗北する。翌年には安祥も陥落して信広が捕虜になってしまった。信広と竹千代の人質交換をめられた信秀は受諾。松平広忠が暗殺されていたこともあり、三河はほぼ今川の手に落ちた。

こうして美濃・三河への拡大は失敗に終わる。と同時に信秀は病に倒れ、2~3年の闘病ののちにこの世を去った。

その後・子孫

嫡男・織田信長督を継いだ。一方で三男・織田信勝も末を継承し、後に内紛を起こすことになった。当時としては勢拡大のために子供たちに所領を分けていく事自体はしくなく、たとえば信秀の織田は守山織田信康(信清の)は犬山城で分を立てている。それを如何にまとめられるかが当められる手腕であったし、そもそも弾正忠自体がそうして生まれた分から成り上がったである。

信長を初め12人もの息子恵まれ、ほか女子も多く、多数の婚姻や養子縁組が行われた。

信秀は戦国大名としての地位を確立しつつも、内の序列としてはあくまで大和臣から脱却することはなかった。だが彼が作り上げた基盤は非常に大きなものとなり、この後信長によって大和伊勢は滅亡し、斯波武衛も追放されることで、弾正忠は名実ともに尾となる。(信長にあたる彼らに対しては様々な大義名分を得たことで攻め滅ぼしており、もしそういった機会があれば信秀も行動していたのかもしれない)

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける織田信秀の力一覧。

覇王伝で信長誕生シナリオ1534年)が初登場した事でデビュー戦闘流石の一言。知略政治微妙な時期が長かったのだが、「創造」では津島握などが描かれて大幅に性アップした。

軍事 内政
戦国群雄伝 戦闘 政治 野望
武将風雲 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 82 戦闘 90 智謀 62 政治 51 野望 97
天翔記 戦才 180(A) 智才 146(B) 政才 150(B) 84 野望 91
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 84 戦闘 75 智謀 43 政治 52
世記 采配 83 智謀 41 政治 50 野望 94
蒼天録 統率 78 知略 36 政治 46
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 93 武勇 95 知略 53 政治 61
統率 93 武勇 95 知略 53 政治 61
創造 統率 86 武勇 70 知略 87 政治 90
戦国立志伝 統率 86 武勇 70 知略 87 政治 90

2.織田信秀(信長六男)

幼名は大洞、通称は三吉郎。1571年ごろの誕生で、元したのは本能寺の変の翌年、1583年の事であった。豊臣秀吉下人に上り詰めると、以後は織田人間として厚く遇され、従の官位と豊臣姓を与えられた。のちキリスト教に帰依する。

・慶長年間(1590年代)にハンセン病のためにしたとされるが晩年の詳細は不明瞭である。子孫についても伝わっていない。

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