羌瘣 単語

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キョウカイ

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「羌瘣(羌カイ)」(きょう・かい ? ~ ?)とは、中国春秋戦国時代に仕えた武将であり、後の始皇帝に仕えてを滅ぼした人物である。


この記事の本来の表記は「羌瘣」ですが、「瘣」の字が表記できない環境を考慮して、
「羌カイ」と記述する場合や「羌瘣(羌カイ)」と併記する場合があります。

史書では

 史記には、始皇本に

十八年,大兵攻,王翦上地,下井陘,端和羌瘣,端和。十九年,王翦、羌瘣盡定取地東陽,得王。引兵欲攻,屯中山王之,諸王生,皆之。王還,太原、上始皇帝太后崩。子嘉率其宗人之代,自立為代王,東合兵,軍上。大

と言う事しか記述されていない。 

これを翻訳すると、 

紀元前229年(始皇18年)には大いに兵を起こして、「」のを攻めた。王翦(オウセン)を将軍とした軍は、上(ジョウ)地方の兵を率いて、井陘(セイケイ)を攻撃した。また、端和(ヨウタンワ)を将軍とした軍は、河内(カダイ地方の兵を率いた。 

羌瘣は、「代※」のを討伐した。端和は首都であるカンタン)を囲んだ。 

※原文は「」であるが、『史記』の考によると、の北の土地である「代」にするべきだとする。 

紀元前228年(始皇19年)には、羌瘣は、王翦とともに「」のを攻めて、繆(ゆうぼく)王(遷(チョウセン))を東陽(トウヨウ)の地で捕えて、を滅ぼした。続いて「」のを攻撃する為に、軍を率いて、中山(チュウザン)の地に軍を駐屯させた。 

となる。その後は、羌瘣には直接関係のない記述が続くのみであり、羌瘣は王翦・端和とともに、を滅亡させる戦いにおいて、の武将となったこと以外は分からない。 

には羌瘣の他に、「」姓の人物も他におらず、その血縁関係を推測することも難しい。

創作では

原泰久の漫画キングダム」に登場しているが、伝説の刺客一族「蚩」の末裔と言う女性剣士になっている。

初登場は、主人公の「信」がとの戦いに参加した際に、伍長の澤や尾・尾到の兄弟と「」を組んだ際に五人一組の一人としてだった。

当初は、独特の民族衣装に身を包み口数も異常に少ないの人物だったが、軍を降臨させる舞で軽やかなステップを踏みながら超絶的な技を振るうという非常に高い戦闘を持っており、その戦闘力の高さと戦術を発揮して信を助けた。

その後、暗殺者として信と1対1で戦った事から理解を深め、軍との戦いでは信が隊長を務める「飛信隊」の副将となった。

の三大の一人「龐煖ホウ煖)」と戦った際は、仲間を逃がそうとして舞で軍級の強さの龐煖ホウ煖)と戦ったが、短時間しか使用できない為に時間切れとなり、疲労困憊で倒れてしまったが、信らとともに脱出に成功し、王騎の最期を看取った。

姉妹同然に育てられた「」を謀殺した連に復讐する為、連の所在を探して回っている事もある。 

当時の羌族について

 羌瘣の姓が「」であるため、想起されたと思われる、『キングダム(漫画)』における羌瘣の出自として設定された「族(きょうぞく)」は、かなり史実とは違うが、古くから実在した部族であり、現在も存在している。 

羌族の先祖・戎族 

後漢書』西伝によると、族の先祖にあたる「族(じゅうぞく)」は、太古の時代には、中国はるか西の土地である「チベット」に住んでいたと伝えられる。 

族は、牧畜で生計を立て、がある土地をめて移住する「遊牧民族」であった。が亡くなれば、息子はその後妻と婚姻し、が死ぬとをめとるため、未亡人は存在せず、族は増加をたどった。 

特に、全体の君は立てず、が強いものが英雄となり、部族の長となった。人を殺す時は死刑となるが、それ以外の刑罰はない。 

族の気として、その兵は山やでの戦いに長じているが、地の戦いは苦手とし、持久戦は苦手であるが、勇敢である。戦死をとうとび、病死を嫌う。男女ともに、寒さによく耐えるとある。 

族は、中国の土地が安定していると従し、不安定であると反乱を起こした。・殷王・周王の代に、次第に中国に入って来た。時代には中国のあちこちで勢を有するようになっている。 

しかし、(中国の)戦国時代になると、中国の諸によって滅ぼされ、逃走するか、従属することになる。最後に残り、君が王を名乗った「義渠(ぎきょ)」も紀元前272年にによって滅ぼされる。族は中国各地で部族を形成し、それぞれの国家に組み込まれた。 

羌族の発生 

族出身の「(ムヨクエケン)」というものが、から逃れ、チベット地方にきて、族の酋長となった。 

この時のチベット地方は、穀物はとれなかったが、は多かったので、族は狩猟で生計を立てることとなった。農業と牧畜を教えたため、族からの尊敬をうけることになり、の子孫が代々、族の酋長となった。 

の子孫は子たくさんの人物が多く、彼らは多くの部族に分かれて、族は繁栄した。分かれた部族には、(まだ、に征される以前の)に入るものも多かった。(この時、分離して、「族(ていぞく)」が生まれたとする説もある)。 

やがて、の子孫である「研(ケン)」の代になると、を制圧したの孝(こうこう、法律を定めた商鞅(ショウオウ)を用いたことで知られる君)に従する(紀元前4世紀ごろ)。研はすぐれた人物で、そのため、研の部族は特に「研種」と呼ばれるようになる。 

族は、始皇帝の時代までは、が各との戦争に専念していたため、栄えていたが、紀元前221年に下がによって、統一された後、始皇帝蒙恬(モウテン)に命じて、族を討伐させる。族は敗れ、また、北の地に逃れた。 

さらに後、の滅亡後は、族は、急速に勢を拡大した匈奴冒頓単于(ぼくとつぜんう)に従し、さらに漢王朝従して、隴西(ロウセイ)に地まで移住している。 

史実上の羌瘣と族の関係は不明であるが、族とはかなり密接な関係にあったことが分かる。

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