脚本厨とは、勘違いした批評家気取り、または脚本に狙いを定めた作品アンチの事である。
この項目では主にアニメ作品に対して生じる脚本厨について解説する。
近年における作画厨の衰退に合わせて相対的に人口を伸ばしつつある、もっとも勢いのある厨の一形態。
掲示板サイトの作品スレッド、ニコニコ動画の公式配信、ニコニコ大百科の作品記事などによく出没する。
そのおおまかな行動様式は「作品における脚本の欠点を指摘し、それを手がけた脚本家を批判する」というものであるが、以下の点について「妥当な批判」と「脚本厨の叩き」とが分かたれている。
上の三点が欠けている場合は正当な批判が成立する事が非常に稀である。
結果、ただ「肌に合わなかっただけ」「自分の了見が狭いだけ」「正しく内容を理解していなかっただけ」などの可能性について検証不足の「批判」が次から次へとコミュニティに投下され、それに反発するものとの諍いを引き起こして場が荒れる事になる。
上述のとおり、脚本厨とは脚本・脚本家に対して不当な批判を行うものである。
批判の定義はニコニコ大百科の「批判」の記事に分かりやすく書かれているが、それとは別に、ここでも「脚本批判」に適したかたちで以下に定義し、「脚本」とはなんであるかについても簡単に説明する。
本来的な語義としての「批判」とは、「良否を判断する」というものである。
広義には「他者の誤りを指摘する」「論の前提を明らかにする」というものが含まれるが、ネット上はではこの「他者の誤りを指摘する」というニュアンスで使われている事が多い。
そのため、「批判(否定)意見」と「擁護(肯定)意見」という対立構造が生まれる事になり、しばしば議論(というか言い争い)の種となる。
しかし、「批判」が本来の語義を離れて「否定意見」の言い換えでしかなくなるのは好ましくない状況だろう。
なぜなら、「批判(否定意見)」に異議を申し立てるとき、必ずしも批判対象の擁護を目的としていないからである。
むしろ多くの場合、その意見の根底にある価値観が承服できなかったり理解できなかったりするために、異議を唱えたり質問を投げかけたりするのであって、批判側・擁護側というポジションありきになってしまうと、健全な議論の妨げとなる。
重要なのは、議論というものは異なる意見を交換して共通見解を導くためにするもので、議論相手を敵とみなしてやりこめるために行うものではないという事である。
そこを踏まえたうえで、ここでは「正当な(妥当な)批判」というものを
「本来的な意味の作品批判(脚本の良否の判断)を導くための議論における問題提起、およびその論理展開として適切な意見」
と定義して扱う。
脚本とは何か?
その要点だけを述べるなら、「演劇や映像芸術などの筋組みのために供されるテキスト」であり、以下の3つによって構成される。
つまり、脚本とは「ひとつの作品の基礎となる設計図」だという事である。
これは脚本が作品の質を決める重要な要素であることの証左だが、同時に視聴者から「脚本」というものを見る事が非常に困難である事をも示唆している。
1についてはともかく、2や3については演者のアドリブや監督・演出担当などの意向によって大なり小なり組み替えられるのが常であり、視聴者が目にする内容が、脚本家の設計通りであるとは限らない。
むしろ、脚本家によっては指示内容を控えめにして演者や演出のイマジネーションに任せる場合というのも往々にして存在する。
(浦沢義雄氏の脚本はト書きが真っ白である事で有名であり、また虚淵玄氏は『魔法少女まどか☆マギカ』において脚本で指示した戦闘シーンが想定の斜め上を行く演出で完成した事に自ら驚いている)
同じシェークスピアの戯曲を使っても、演じられる内容は時代や劇団によって千差万別である、という事である。
この事から分かるように、作品を視聴して脚本を云々するというのは、「製造過程で現場の趣味を多分に盛り込まれた製品から、その元となった設計図の図面を解析する」作業に等しいといえる。
そんな知的重労働を為すにはよっぽどの研究と分析が必要であると思われるが、それに値する内容でもって「脚本批判」が為される事はそれほど多くない。
その域に達しない「不当な批判」がどういうかたちをとって表れるのか、以下に類型的に解説する。
自分が(優れた)脚本家であるかのように、台詞回しや構成について上から目線でダメ出しをし、あれこれ足したり引いたり、場合によってはキャラ設定や筋書きを大幅に変更して「こうすればいい」とアドバイスを送る。脚本家本人ではなくネット上の不特定多数に向けて。
なぜこのような行動に走るのかといえば、「俺ならもっとうまく書ける」という自己顕示欲を満たすため、ないし、「俺でももっとうまく書ける」と脚本家に素人以下のレッテルを貼リたいがためである。
言い換えるなら、脚本批判の価値基準として自分の想定する「まともな脚本」を採用してもらいたい(重篤者はすでに採用されたつもりになっている)のが、同業者様である。
批判対象の脚本のどこがどうつまらないのかを言えば済む事が、「元の脚本と改変後の案を比較して品評し、後者が優れている点を洗い出して脚本の批判点とする」という迂遠な作業がこちらに押し付けられる。
だが、創作物とは制作者による観念の提示であり、その良否を問うのが批判であるため、作品批判の場でそのような改変物を見せられてもどうしようもない。創作物に、特に批評の場において「お手本」はないからである(表現規則やある種のルールは別として)。
よしんばその改変物がとてつもなく優れていても、それは同業者様の文才を褒め称える事しかできないし、そもそもそんな秀逸な改変物を生み出せる同業者様は極めて稀である。
大抵の場合は自分の気に入らない点を否定しつくすためにこねくりました結果の産物であるため、他の面での整合性や、予想されうる制作上の都合にはまるで忖度していない。
読んでる方はいたたまれなくなるばかりである。
そういうのは文芸サイトでやるか、制作者に直接郵送してください。
スポンサー様の基本概念は「クレーム(権利)」と「レスポンス(責任)である。
別名「選ばれしお客様」
「制作者はプロなのだから、視聴者を楽しませる責任がある」という考え方をお題目とするが、その『視聴者』とは自分自身および自分と同じ趣味嗜好の持ち主の事であり、それ以外の人間は含めていない(ただし、これを自ら明言する事は絶無である)。
この隠された前提に基づき、作風やキャラの性格、演出の癖などを悪いもののように扱い、その是正のために路線変更や脚本家の更迭などを所望する。
スポンサー圧力でもなければそんな要求が届くとも思えないが、とにかく「自分を楽しませてくれない脚本家」への嫌悪感の発露として、人事や企画構成について物申す。
批判対象がシリーズ物の場合は、「もう○○はこのシリーズに関わらないで欲しい」と長期的な展望をも口にする。
また、「素材はいいのに」が常套句であり、まさにこの点がスポンサー様のやっかいな所である。
脚本は気に入らなくても他の要素には多かれ少なかれ愛着を持っているため、「作品に見切りをつけてコミュニティから離れる」という選択肢に最後まで思い至らない。
自分の好みに合わせて見るべき作品を取捨選択するという発想にいたっては想像の埒外にあるようで、「なにを見ようと個人の自由だし、自分には感想を述べる権利がある」とコミュニティに居座って批判を続ける。
そのように「この作品は自分たちを最優先・最大限に楽しませるために変更されるべきだ」と考える一方で、本当は自分たちの好みなど制作側は知ったこっちゃないという現実をおぼろげに認知しており、そのギャップを贖うため、彼らは「主要ターゲット層」「マジョリティ」「ロイヤルカスタマー」のいずれか位置に収まろうとする。自己正当化のための理論武装にいちばん熱心なのがこのスポンサー様である。
ただ残念な事にその熱意が合目的的な批判内容の向上に充てられる事は稀で、いきおい「それっぽく」見せるための詭弁の駆使に貴重な知的リソースが費やされる。
特に好むのが太宰メソッド、多数論証、権威論証、そして「これだけ批判されるって事は問題があるって事だ」という循環論証などである。
脚本厨の主流派であり、もっとも傍迷惑な類型。
本質的に「叩く事」が目的化しているため、作品を素直に楽しむ事ができず、重箱の隅を突っつく事に至上の喜びを見出す趣味を持っている。
作品アンチ、または脚本家アンチがかなり混じっている事が推測できるが、ぶっちゃけ見分けがつかないしやってる事も大差ないから評論家様全体をアンチとして扱っても問題ないと思われる。
「この脚本は雑である」という結論に持っていくために全力を尽くしており、わりと手段を選ばない。
評論家様は否定意見をまかり通す事そのものが目的であるため、無敵君を併発しているものが多い。
批判内容の前提がおかしい事は自覚しているようで、そこについて指摘を受けたり説明を求められたりすると、論点ずらしや質問返しからの質問攻めでこれに対処しようとし、相手がそれに乗ったらしめたもの、徹底的にネチネチと揚げ足を取って黙らせようとする。
扱う詭弁もスポンサー様のような可愛いものではなく、藁人形論法、チェリーピッキング、媒概念曖昧の虚偽、誤った二分法、充填された語などの議論相手を潰す事に特化したものを好む。
SF作品が対象の場合は高確率で設定厨や硬派厨を重ねて併発するため、さらに手に負えなくなる。
冷静で客観的な批判者を気取って「突っ込み所に突っ込んでるだけ」とうそぶきネガキャンやヘイトスピーチに余念が無い。
評論家様が猛威を振るうのは、なにかしらの要因により「叩かれる流れ」が出来上がっている場所である。
(多くのアンチがついている脚本家が担当した作品であるとか、原作付きアニメで大きな改変が行われたとか、まとめブログやコピペなどによって『叩くポイント』が流布されている場合など)
耳目を集める叩きによって人が集まり、それに感化されたものが新たな脚本厨となる悪循環が形成され、その一体感を維持するために貪欲に叩くネタを求める。
こうなってくると目についたものはなんでも叩き、その意見の妥当性は省みずに否定意見だけが膨れ上がっていき、そこに用いられる修辞も過激になっていく。
その結果、他の作品にも取り入れられているような、ごくごくありきたりの要素まで否定するような事を言い出すのが常である。
近頃では上記の理由が重なった結果“その脚本家個人のアンチ”と化しているような人間も増えつつある。
例えばある脚本家が手がけた『A』という作品が何らかの理由で叩かれた後、その脚本家が次に『B』という作品の制作に参加した場合、彼らはそれを知った途端に「あの脚本家が作るならこの作品は失敗する」とか「あの脚本家が作るものに見る価値はない」と見る前からその作品の全体的な評価を決めつけてしまうようになる。
そして『B』の作品でまた何か物議の種となる要素が出て来ると「やっぱりあの脚本家の所為」とそれも脚本家の責任とし、逆に『B』が最終的に好評に終わった際には「監督と演出家の功績」「監督が脚本家の暴走を抑えたから」と監督を含む他のメインスタッフのみを褒めて脚本家の存在はほとんど無視したり、あるいはその中から些細な矛盾や粗とも取れる部分を取り上げてそれも脚本担当のミスと見なして脚本家だけを叩き続け、挙句の果てに「あの脚本家じゃなければもっと良くなってたはず」とその脚本家が参加していたという事実さえも作品の汚点の如く扱ったりする。
加えてその脚本家が『A』を作る前に担当した今まで特に問題とされていなかったような作品であっても「よく考えたら前の作品も駄目だったよな」「前の作品が良かったのも他のスタッフ達のおかげだったんだな」とばかりにその脚本家の過去作についても急に批判や邪推に走る者も出てきたりする。
酷いものになるとその作品の内容だけでなくその作品を手がけた脚本家自身に対して「あの脚本家には物書きの才能がない」だの「あの脚本家は最低の人間」だのとその脚本家という人間や人格をも非難および否定するようになり、最終的には業界からの完全追放さえ要求し始めるようになったりする。
中には世間で名作や傑作として認められた作品を手がけた事で一躍有名になった脚本家に対して熱狂的なファンと化し、それ以降その脚本家の存在のみを作品の絶対的な評価基準としたり、あるいは何かと他の脚本家と比較する形で持ち上げるようになったいわゆる“信者系の厨”も一応はこれに含まれるが、現状においてそれはあくまで個人の信者扱いで、狭義の意味での脚本厨とは呼ばれない。
最近ではこういった批判の対象として脚本家にのみならず“原作者”、“プロデューサー”、“シリーズ構成”、“監督”など他のメインスタッフも槍玉に挙げるように論われるケースも増えており、無論これは狭義の意味での脚本厨とは言えないものの、批判の内容など場合によっては脚本厨と全く同質の問題として扱われる事もある。
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最終更新:2024/11/30(土) 03:00
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