アゴスティーノ・バルバリーゴ単語

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アゴスティーノバルバリーゴ
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アゴスティーノ・バルバリーゴ(Agostino Barbarigo)とは、

  1. ヴェネツィア共和国海軍参謀長で、レパント戦で勝利を収めるも3日後に戦死した提督
  2. 1882年に工したアゴスティーノ・バルバリーゴ級通報艦1番艦
  3. 1938年工したマルチェロ潜水艦6番艦

である。本項では3について記載する。

概要

第二次世界大戦中にイタリア海軍が建造・運用したマルチェロ級大潜水艦6番艦。前級クラウであり、大西洋での運用を視野に入れた大潜水艦シンプル体、優れた速と機動性、最大100mまで潜航可殻を持つイタリア海軍傑作で、合計10隻が建造された。イタリア海軍の艦艇は地中海での運用のみを考慮した設計が多数を占めるが、このマルチェロ級は荒波の大西洋でも活動出来るよう考慮されており、イタリア艦隊ではしく大西洋での作戦も可だった。このため地中海大西洋ともに活動可、時にはブラジルまで足を伸ばして狩りを行った事もあった。航続距離の長大さを買われてバルバリーゴとコマンダンテ・カッペリーニ東南アジアへの輸送任務にも従事している。

諸元は排水量1191トン、全長70m、全幅6.8m、最大速18ノット(水上)/8ノット(水中)、乗員50名。武装は533mm魚雷発射管8門、13mm機4門、120mm1門、魚雷12本。

1938年9月19日工したバルバリーゴは通商破壊で6隻(3万3827トン)を撃沈する戦果を挙げ、イタリア潜水艦の中でも第5位の撃沈スコアを獲得している。特筆すべき点は戦艦メリーランドとミシシッピ級戦艦を撃沈(誤認)した事だろう。この戦果によりエンツィオ・グロッシ艦長は昇進と受勲の誉れを受けたが、後に誤認だと発覚して剥奪された。

1943年6月16日日本圏下の東南アジアへ向けてボルドーを出港するが、以降消息不明になる。命日6月19日とも6月24日とも言われる。

1回目の戦闘航海

1937年度計画にて大潜水艦として建造が決定。アドリアティコ社のモンフォルコーネ造所で1937年2月6日起工、1938年6月12日に進し、同年9月19日工した。ナポリ拠点とする第2潜水艦隊に編入され、1938年から開戦前1940年まで訓練に使用されていた。

イタリア参戦直前の1940年6月6日17時15分、対英連合戦闘に備えてナポリを出撃し、地中海に潜む。そして6月10日イタリアが英宣戦布告した事で第二次世界大戦に参加。開戦時、イタリア海軍には115隻の潜水艦があり、このうち84隻が運用可であった。同日23時58分、アルジェ近水上航行していたバルバリーゴの前にの中から突如として敵の護衛艦艇が出現。互いに不意を突かれる。敵艦はバルバリーゴに体当たりを喰らわせようと突っ込んで来たが、咄嗟に急速潜航したのが幸いして深12mまで沈降したのと同時に頭上ぎりぎりを敵の艦底が通過。一歩遅ければいきなりの底へと沈められるところだった。幸い爆雷攻撃はく、難を逃れる。

6月11日午前9時12分、ベンガット深22mを潜航中のバルバリーゴに突然震と爆発音が襲い掛かる。敵艦から爆雷攻撃を受けたのである。損傷を避けるため水中深くへ潜航退避。深60mまで潜航したところで攻撃者のものであろう敵艦の推進音が聴音され、70mに到達した間、頭上で爆雷が炸裂した。午前10時25分、敵艦は水中からの爆発音を探知して撃沈と判断し、幸運にも引き揚げていった。6月15日14時6分、ナポリへ帰投。

開戦から20日間でいきなり10隻の潜水艦が失われた。

2回目の戦闘航海

6月27日18時17分、ナポリを出撃。ガタファルコンの中間を狩り場に戦闘を行う。

7月3日19時10分、ロヴェット装置を使用しながら深30mを潜航していたバルバリーゴは2隻の機関音を探知した直後、爆雷攻撃を受けた。地中海が透き通っていて潜水艦を視認しやすく、ソナーを使わずとも容易に発見される危険性が常にあったのだ。不意打ちの爆雷で損傷しつつも深60mまで潜航退避。その後、110mまで潜って敵のから脱した。翌4日午前0時30分、前部発射管に魚雷2本、後部発射管にも魚雷2本を装填して浮上。敵艦がいれば反撃する気概だったが穏なが広がるだけで敵の姿はかった。ちなみにバルバリーゴに攻撃を仕掛けたのは英駆逐艦フォークナーであった。

損傷のため戦闘を中止せざるを得なくなり、7月5日午前11時7分にカリアリへ帰投。7月6日16時37分、カリアリを出港して翌7日午前11時20分にナポリへ回航。7月18日午前9時20分から17時5分、7月23日午前9時22分から15時57分までナポリ戦闘訓練を実施。

3回目の戦闘航海

8月7日午前1時、533mm魚雷4本と450mm魚雷4本を積載してナポリを出撃。フランスの降後、イタリア海軍ボルドーに潜水艦基地BETASOM(ベタソム)を設営。参戦当初に結ばれた「大西洋でドイツ海軍と協する」約束に従ったものだった。バルバリーゴはBETASOM所属となったため、魚雷の輸送も兼ねて同地まで回航する事になったのである。地中海から大西洋に出るにはイギリス軍の牙であるジブラルタル海峡を通過しなければならなかったが、8月14日に発見される事く突破に成功。大西洋への進出を果たす。

8月18日午前6時、マデイラ東方にて距離1000m先に2隻の掃海艇らしきを発見。甲手を配置した上で掃海艇の1隻を停させる。提出された書類によるとスペイン海軍所属の掃海艇シエルトで、バルセロナからカディスに向かって回航中との事だった。中立だったので2隻はそのまま解放された。また同日中に4隻の漁撃している。

8月19日14時線の向こうに敵らしきものを発見したバルバリーゴは14ノットに増速して狩りを開始。16時26分に突然が変針してバルバリーゴの方へ突進してきたため、潜望深度の18mまで潜航して一旦退避。水中で出せる最大速の7ノットで1時間追跡する。浮上してみると敵との距離が7000mにまで開き、また潜水艦を警してジグザグ運動を行うなどバルバリーゴを翻弄。魚雷の調整に手間取っている間にグングンと距離を開けられていく。20時距離1万2000mからダメもとで撃するが、が荒れていたで照準が定まらず、2000m離れた場所を魚雷が通過。やむなくバルバリーゴは針路を変更し、敵の右舷側から撃しようと速を上げ、彼距離が9500mに縮まったところで甲が火を噴いた。荒れたから繰り出される波濤は甲にしがみつくイタリア手を危険に曝し、17分間に及ぶ撃を以ってしても命中弾を与えられずにいた。敵20時5分から20分にかけて何度もSOS信号を送信。通信傍受により名が英蒸気アギラーレである事が判明した。アギラーレは速を上げて離脱を図り、20時17分の時点で1万2000mにまで開けられたため、計30発放ったところで撃中止。敵を取り逃がした。

8月21日午前8時(現地時間午前5時)、に包まれた上を進むバルバリーゴと並走するを発見。速を上げてジグザグ運動しているは急速潜航するバルバリーゴに向けて発。至近に柱が築かれた。すぐさま反撃に移り、距離1300mから2本の魚雷を発射。しかし跡を発見されたようで敵に回避される。煙突1本を持つ8000~1万トン級の敵は約20発の爆雷を投下、バルバリーゴを深90mにまで押し込める。最後の爆発から10分後、潜望を上げて上の様子を探ってみると南西方向に逃げ去る敵の軍艦が確認された。

9月8日16時35分にボルドーへ到着。

4回目の戦闘航海

10月9日13時30分、新たな拠点となったボルドーを出港。戦闘へと向かうも、荒れたによってバッテリーが破損して硫が漏洩したため引き返さざるを得なくなり、10月11日16時54分にボルドーへ帰投。修理を受ける。

10月14日午前6時54分、修理を終えたバルバリーゴは再度ボルドーを出港。狩り場のアイルランド西部へ向かう。中の10月17日午前9時58分、高度1000mで飛行するショートサンダーランド飛行艇距離7000~8000m先で発見。Uボート天敵たるサンダーランドと運悪く遭遇してしまったバルバリーゴは深60mまで急速潜航。その直後、遠方から数発の炸裂音が聞こえて来た。実は敵機はバルバリーゴではなく付近にいた味方の潜水艦オタリアを狙っていたのだった。10月30日15時51分、線の向こう側から伸びる黄色の漏斗を発見して追跡開始。しかし荒波により最大速は12ノットに制限され、敵に追いつけないまま追跡は中止となった。

11月10日午前0時10分、僚艦オタリアから空母駆逐艦3隻の存在を示す情報が送られてきた。これを迎撃するためバルバリーゴは針路を変更。午前6時18分、当直士官のアンジェロ・アメンドリア南方らしきものを発見。間もなくが急速接近してきて彼距離3000mにまで縮まる。の正体は単独航行中の敵駆逐艦で、未だバルバリーゴを見つけていない様子だった。そこでバルバリーゴは背を向けて逃走しながら艦尾魚雷発射管で仕留めようと考え、距離1500mから撃。58後に爆発音がいた。上から敵駆逐艦の姿が消えていた事から撃沈と判断した。11月15日19時ボルドーに帰投。

5回目の戦闘航海

1941年1月31日14時33分、ル・ヴェルドンを出港して18時15分にラ・パリスへ回航。

2月10日18時37分、ラ・パリスを出港。再びアイルランド西部へ向かうが、全体的に悪時化に阻まれて実りの少ない狩りとなってしまう。2月12日午前10時55分、6000m先を西進する1機の敵哨戒機を発見。対に乗組員を付けて戦闘準備を終えていたが、敵機はバルバリーゴに気付かないまま飛び去って行った。2月15日19時46分、僚艦のオタリアビアンキらしき潜水艦と遭遇。

2月19日19時BETASOMから敵護送団の情報を受信。マルチェロとともに攻撃へ向かったが、翌20日午後12時30分に「荒により転困難。最大速4ノット」とBETASOMに報告している。13時10分、バルバリーゴはドイツ海軍が発した大団発見の通信を傍受し、そちらへと向かった。2月21日午前10時45分、北上中のバルバリーゴはノルウェー人7名が乗った救命艇を撃。近くを団が通り、そして味方の潜水艦が攻撃を仕掛けた左であった。13時10分、敵団の新たな位置情報がもたらされて針路を変更。2月23日午前7時25分、距離3000m先に艦を発見。最初は潜水艦かと思われたが駆逐艦だったため足に逃走した。未だ敵護送団を探して上を遊するバルバリーゴに、BETASOMから北方約95マイルに敵団がいるとの情報が入った。

2月24日午前11時15分、ようやく1隻の蒸気を発見。敵を攻撃するべく急速潜航するバルバリーゴだったが、潜望の欠陥で何も見えない不幸に見舞われ、次に浮上した時には蒸気は姿を消していた。翌25日20時BETASOMから別の敵団の存在を知らされるも、会敵に失敗。3月1日区を離脱して帰路に就く。

3月8日16時7分、ドイツ掃海艇M-9、艇V-401、V-408に護衛されながらボルドーへ帰投。

6回目の戦闘航海

5月5日13時30分、ボルドーを出港。アイルランド区へ向かっている途中の5月7日13時BETASOMからビアンキ宛ての通信を傍受する。その通信は「不時着したドイツ軍機を捜索せよ」というものだった。ちょうどバルバリーゴは近い場所にいたため捜索に参加。翌8日午前2時20分から5時間に渡って面を捜索するも何も発見出来ず、元の航路へと戻った。

5月10日午前2時55分、当直士官のアメンドリアは小さなを発見。を追って南下してみると敵の大団と遭遇した。午前3時16分、団から赤色弾が打ち上げられ、バルバリーゴ艦内では「発見されたのではないか」と緊が走った。更に分された護衛の駆逐艦が接近してきたため、艦尾魚雷発射管から撃するも回避される。午前3時37分、バルバリーゴは敵団発見の報を出して追跡開始。午前6時21分、敵団の上に敵機が旋回するようになり、午前10時35分には2機の大機がバルバリーゴに向けて低から突撃してきたので深30mまで潜航退避。

5月11日午前11時、敵団を追跡していたバルバリーゴのもとにBETASOMから空母1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻を含む別の大団がいると伝えられ、攻撃標を変更。翌12日午後12時59分、ビアンキからの通信で新たな敵団発見の報が入り、17時4分の追加連絡で「高速団がバルバリーゴに向かっている」との通信を傍受。しかし敵団は14ノットの快足だったため追いつく事が出来なかった。5月13日19時モロシーニから1隻の蒸気がいると伝えられて迎撃に移るも会敵失敗。

5月15日午前2時39分、BETASOMよりビアンキバルバリーゴ、モロシーニ、オタリアの4隻で線を形成するよう命が下る。同日22時26分、炎上中のタンカーから立ち昇る煙を撃。やがてタンカー消火に成功、ジグザグ運動しながら闇の中へと逃げようとする。翌16日午前2時39分、距離1800mから2本の魚雷を発射したが全て外れてしまって攻撃失敗。バルバリーゴは有利な攻撃位置に就くべく移動を開始、逃走する敵――英商マンチスターハーバーを狙う。午前4時18分、1000mから魚雷1本を発射するが再び外れてしまう。魚雷を発射した直後、マンチスターハーバーが変針した事に気付き、2本魚雷発射を控える。バルバリーゴの悪い予感は的中した。マンチスターハーバーは体当たりを喰らわせようと突撃してきたのである。午前4時20分、距離500mから艦尾発射管で撃し、2本中1本が船橋付近に命中。マンチスターハーバーエンジンが停止したようでゆっくりと失速、右舷に傾きながら漂流していくのが見えた。その隙にバルバリーゴは高速で離脱を図る。一度は沈黙したマンチスターハーバーであったが、すぐさまエンジンを再始動させて追いすがり、爆雷を投下しながらバルバリーゴに迫る。狩る者と狩られる者が逆転した間だった。幸い距離が離れすぎていたため損かった。

5月16日午前8時27分、ビアンキ団発見の報により新たな線の形成を命じられる。マンチスターハーバーに追い回されたバルバリーゴは配備点への移動が遅れた。そこへ中の敵機に見つかり潜航退避。しかしハッチの閉め忘れにより20mまで潜航したところでが艦内へと流れ込み、わずか2分後に浮上を余儀なくされた。やむなく対戦闘に切り替えて甲手を配置。バルバリーゴを見つけて急降下してきたカタリナ飛行艇を一斉射撃で迎え撃つ。命中弾により電気系統に支障が生じさせ、爆雷投下を封じたが、代わりに4回の機掃射を浴びて燃料タンクが被弾。カタリナが航過した隙に深60mまで潜航して難を逃れた。

5月20日20時16分、汽を発見して追跡に入るが、スコールに阻まれて見失った。5月22日14時35分にも敵を発見しているが高速すぎて追いつけず。5月24日21時7分、敵の巡洋艦を発見して急速潜航。しかしここ3日間の荒で計器が故障していて正確な数値が割り出せずに見逃した。

5月27日正午ボルドーへの帰路に就いていたバルバリーゴのもとにBETASOMから「イギリス軍の大部隊から逃走中ドイツ戦艦ビスマルク支援せよ」と命じられ、針路を北東へ変更。ライン演習作戦で英巡洋戦艦フッドを撃沈したビスマルクイギリス海軍の怒りを買い、膨大な数の航空機と艦艇を投入してフランス方面へ逃げようとするビスマルクの息の根を止めようとしていたのである。しかしここでも悪に阻まれて前進できず、13時30分にビスマルク沈没を伝えられて作戦失敗した。翌日午前11時BETASOMはバルバリーゴにビスマルク生存者を探すよう示。だが既に190マイルも離れており、また多くの艦艇が救助に参加していると思って救助活動を行わなかった(この行動は後に批判されている)。

5月30日午前11時32分、ボルドーに帰投。6月28日フランチェスコ・ムルツィ中佐が艦長に着任。

7回目の戦闘航海

7月13日20時59分、ラ・パリスを出港。今度はジブラルタル西方狩り場とする。

7月22日17時18分、敵護送団が250度方向に向けて移動しているのを発見して追跡、23時20分に触接を失う。バルバリーゴからの情報でU-93とU-203が団攻撃に向かった。7月24日午後12時30分、線上に立ち昇る煙を発見。翌25日午前0時12分に距離1000mから魚雷を発射したが度の計算ミスにより失敗してしまう。バルバリーゴが狙った獲物は英商メーコ(5141トン)で、元々はOB-290団の一員だったがボイラーの問題で脱落。アゾレスに退避しているところをバルバリーゴに捕捉された訳である。午前2時39分、距離700mから2本魚雷を発射し、今度こそ煙突下に命中させてメーコンに致命傷を与える。続いて午前3時28分から午前4時30分まで10cm弾49発を発射。メーコンは翌日尽きて沈没した。開戦から1年1ヶバルバリーゴはようやく初戦果を収めたのだった。

7月26日午後12時40分、線から飛び出すマストとの上部構造物を発見して追跡を始める。ところが僅か5分後、敵の大タンカーに気付かれたらしく、バルバリーゴに向かって突進してきたため急速潜航。敵の攻撃をやり過ごした後、15時3分に浮上して暗くなるのを待ちながら追いかける。翌27日午前0時37分、距離3100mから533mm魚雷を発射。白線を引きながら伸びていった魚雷は英給油ホーンシェル(8272トン)の左舷機関室に直撃。尾より沈み始める。午前1時27分、念入りに仕留めるべく今度は右舷中央部へ魚雷2本を叩き込み、最後に午前2時38分に4本魚雷を右舷機関室に命中させて撃沈。乗組員56名中17名が戦死ないし行方不明となった。

7月30日16時35分、Uボートと遭遇して識別信号を交換する。

8月11日13時3分、ボルドーへ帰投。エンツィオ・グロッシ大尉が艦長に着任し、体に「Chi teme la morte non è dignegno di vivere(死を恐れる者は生きるに値しない)」と書き込んだ。

8回目の戦闘航海

10月22日16時23分、ラ・パリスを出港してアイルランド西方面に向かう。

10月24日午前9時10分、武装商と思われる敵商が12ノット以上の速で航行しているのを発見。接近を試みたものの追いつけず20時28分を最後に触接が途絶えた。翌25日16時4分、中の敵機を見り員が発見して潜航退避。

10月27日18時1分にも2機の敵大機と遭遇して急速潜航を強いられている。この日、BETASOMからHG-75団の情報提供され、迎撃のためポルトガル南西へと急行する。

10月28日午前10時HG-75団の前路に到着して待ちせを行う。ところが22時55分、1500m先に敵の駆逐艦が発見され、急速潜航。中にしたバルバリーゴの頭上を何隻ものが通過していった。この集団こそHG-75団だと確信するが、間もなく連絡が途絶えてしまい、再度接触のため水上航行で追いかける。10月31日20時2分、34隻の輸送からなる大団を発見して通報。この団はHG-75団ではなくOS-10団という別物であったが、バルバリーゴの速な報告によりUボートによる迎撃が可になった。22時58分から23時20分にかけてOS-10団が攻撃されている様子を観察。攻撃者はU-96で、商ベネコムを撃沈している。

11月1日午前11時20分、おそらく団攻撃に向かっているであろう2隻のUボート撃。OS-10団を追跡しているバルバリーゴの前に敵駆逐艦2隻が現れ、追い払われた。13時10分に再びUボート撃。識別信号の交換を行おうとしたが失敗した。翌2日午前9時58分、団へ追いつこうとするバルバリーゴの努を嘲笑うかのように駆逐艦が出現し、中へと押し込められる。13時50分に浮上した時には既に団の姿はかった。

11月4日午前11時38分、1万8000m先に15ノットで進む大を発見。追跡に移ろうとした矢先にエンジンが故障してしまい見逃すしかなかった。

11月10日午前5時12分、ボルドーに繋がるジロンドの合いで中の英潜水艦ウナを発見。幸い敵潜はバルバリーゴの存在に気付いていない様子だった。攻撃しようにも向きが悪かったため背を向けて退避する。11月11日午前10時50分、ル・ヴェルドンに帰投。同日16時23分にボルドーへ回航された。

9回目の戦闘航海

1942年1月18日17時23分、ラ・パリスを出港。アゾレス西方とマデイラ北方する。

1月23日午後12時20分、距離6000m先に味方のUボートと遭遇して識別信号を交換。同日23時315度方向の航路を行く敵を発見。中立ポルトガル領のアゾレスへ向かうではなかったので攻撃を決定する。翌24日午前1時20分、1200mから魚雷2本を発射するも外れ、午前1時34分の撃も外れてしまう。午前1時45分、4本魚雷が命中して12分後に沈没。しかし沈めたのは連合ではなく中立スペインナベマール(5301トン)であった。ナベマールは法外な価格でヨーロッパを追われたユダヤ人アメリカへ運ぶ仕事を請け負っていた問題のではあったものの、枢軸中立スペインを沈めたのは事実バルバリーゴ側は武装商を沈めたとして問題をウヤムヤにした。

2月5日19時30分、僚艦バニョリーニと遭遇して識別信号を交換。

2月10日15時10分、ジグザグ運動する汽を発見。暗くなるのを待ってから攻撃を仕掛けようと考え、視界のギリギリから追跡する。ところが21時10分に距離1万2000m先から発見され、SOS信号を打ちながらバルバリーゴを撃してきた。敵の抵抗を受けて遂に追いつく事が出来ず、燃料を使い果たしてしまったため21時36分に追跡を中止せざるを得なくなった。2月13日14時25分、サンダーランド飛行艇を発見して急速潜航。

2月16日午前11時31分、ル・ヴェルドンへ帰投。

10回目の戦闘航海

4月25日15時28分、ラ・パリスを出港。今度の狩り場は広大大西洋の向こう側、枢軸国宣戦布告してきた南米ブラジル合いに定められた。5月17日南米中部の出っり部分であるカポ・サン・ロッコに到着。

5月18日18時14分、遠くに2本のマストが立っているのを発見して12ノットに増速。23時7分に距離800mからブラジルコマダンテライラ撃して損傷を与える。23時47分より僅か200mの距離から19発の弾を発射し、16発を命中させて撃破。乗組員はを放棄して脱出した。しかし漂流中のコマダンテライラアメリカ軍に発見され、フォルタレザまで航されてしまっている。が、損傷の大きさから戦争中はに全損判定を受け、戦後に解体された。

5月20日午前2時50分、当直士官のアンジェロ・アメンドリアが暗闇の中で動く艦を発見してグロッシ艦長に報告。格子状のマストからグロッシ艦長はアメリカカリフォルニア戦艦メリーランドを判断。距離650mから2本の魚雷を発射してメリーランドを攻撃、35後に2回の爆発が観測された事で撃沈と報告した。5月22日15時メリーランド撃沈の功績によりローマからグロッシ艦長の昇進が添えられた祝電が送られた。しかし当域にはメリーランドは存在しておらず、実際に攻撃したのは軽巡洋艦ウィルウォーキーで、しかも沈んでいなかったのである。ちなみに軽巡ウィルウォーキー駆逐艦モフェットはコマダンテライラを攻撃したバルバリーゴを捜索するために派遣されており、バルバリーゴからの撃にも気付いていなかった。BETASOMのロモロボラキー少将バルバリーゴの報告を「アメリカ戦艦が2本の魚雷で沈むはずがない」と懐疑的だった。しかし大きな快報を欲していた最高部が事実を受け取り、特別速報で表してしまった。

5月22日18時30分、距離2000mから急降下してくるブラジル軍機を発見。潜航する間もなく100kg爆弾8発を投下され、1発がから20m、2発が艦尾から5m離れた場所に着弾。すぐさま対空砲火を上げて敵機に命中弾を与えた。

5月28日午前11時32分、7000m先に12ノットで単独航行している英商チャールベリー(4836トン)を発見。22時20分にBETASOMから許可が下りた事で攻撃開始。22時51分、距離1500mから撃を仕掛けたが、迫り来る魚雷に気付いたようでチャールベリーに回避運動を取られる。6分後に再度魚雷を発射するも回避され、23時撃もむなしく回避される。翌29日午前2時37分、距離400mまで薄して放った魚雷は、チャールベリーの右への回避運動によって尾下を通過。ここでバルバリーゴは水上撃に切り替え、敵からの撃を防ぐため一斉射撃を加えてがある後部から員を追い払った。午前3時1分、距離500mから5本魚雷を発射して19後に命中。決死の抵抗を見せたチャールベリー尽きて午前3時21分にゆっくり沈没した。

6月16日19時ボルドーに帰投。

11回目の戦闘航海

8月29日16時35分、ラ・パリスを出港。再びブラジル沿へと長駆して狩りを行う。翌30日13時ビスケー湾を通過中にいきなり中の敵機3機と出くわして潜航退避を強いられ、同日15時にも同様に敵機を発見して潜航退避している。出入口のビスケー湾であっても制権を連合軍に握られつつある事を如実にる出来事であった。

9月7日20時15分、アゾレス方面へ向かっているタンカー撃して追跡開始。21時50分にスペインだと判明したため追跡を中止した。

9月13日午前10時55分、漂流中の救命艇を発見。確認してみると死体だけが乗っており、乗を撃沈されて漂流中に全滅したものと推測された。9月17日、僚艦コマンダンテ・カッペリーニから給油を受けるため合流地点に向かったが、何故かカッペリーニは姿を現さなかった。給油失敗した狩り場をパルマ南方へ変更し、9月25日に到着する。9月27日午前0時30分、バルバリーゴを追跡してくる敵潜水艦の存在に気付いて5分後に潜航退避。9月28日パルマを離れてアゾレス方面へ移動。

10月1日午後12時50分、間から突然敵機が急降下してきて奇襲を受ける。潜航する暇がかったため対で迎撃するも荒れたによって照準が定まらない。ハドソンと推定された敵機は高度100mから4つの250kg爆弾を投下。このうち2発が左舷艦首前方付近に着弾した。バルバリーゴから放たれたしい対空砲火は敵機の接近を頑強に拒んで戦局は着する。13時15分、隙を突いて潜航退避に成功。15時26分に一旦浮上するも、17時30分に今度は前方から敵機が迫って来た。対空砲火により撃墜に成功し、パイロット1名が燃え盛る機体から脱出出来ずに焼死した。しかしカルロ・マルケセリが機掃射を受けて艦外へ吹き飛ばされ、落した時に「Viva il Re(国王万歳)!」と叫んで尽きた。17時50分、バルバリーゴは中へとした。10月2日BETASOMよりフリータウンへの移動を命じられ、2日後に到着。

10月6日午前2時20分、見り員のピエトロ・パストリーノは左舷距離4000mに撃し、グロッシ艦長が艦へと上がる。の形から察するに敵はミシシッピ級戦艦と認識。護衛を伴っていない様子だったため攻撃を仕掛ける事に。午前2時32分、距離2000mから2間隔で4本の魚雷を発射。約90後に4回の爆発音を観測した。その3分後に駆逐艦が出現、航跡から位置が露呈しないよう速度を落として退避する。続けざまに2隻駆逐艦が出現したが攻撃される事く離脱に成功。午前6時グロッシ艦長は2隻戦艦を撃沈したとして最高部に報告し、10月8日ヒトラー総統から騎士十字章の授与が伝えられ、イタリアからは最高賞である金メダルが授与された。そして独プロパガンダとしてこの戦果を大々的に発表したが…。実はミシシッピ級戦艦の撃沈は誤認だった。グロッシ艦長が戦艦と判断したものはコルベット艦ペチュニアであり、戦艦を想定した撃だったため魚雷はペチュニアの艦底を通過して命中していなかったのだ。

10月10日フリータウンを離れ、10月17日より帰路に就く。10月28日17時53分、バルバリーゴはBETASOMから翌日ボルドーへ入港するよう命じられる。

10月29日23時30分、ル・ヴェルドンへ帰投。翌30日午前11時30分にボルドーへ回航され、そこで「2隻の戦艦を撃沈した」事を記念して大規模な式典が行われた。独軍の上層部が出席し、カール・デーニッツ元帥グロッシ艦長に騎士十字章を贈った。グロッシ艦長は潜水艦へ栄転する事になり、ロベルト・リゴリ中尉が艦長に就任。ちなみにボラキー少将グロッシ艦長の「戦果」を事実ではないと否定。彼を非難していたが、それが原因でを解任され、皮にもグロッシ艦長が新たなの座に就いた。

12回目の戦闘航海

1943年1月24日16時24分、ラ・パリスを出港。カーボベルデ西方を通過してブラジル沿へと向かう。

1月27日22時50分、ドイツ電波受信器メトックスが接近する敵機を探知し、急速潜航。以降も敵機が接近するたびにメトックスが異常を知らせてくれたため航空攻撃を受ける事ビスケー湾を突破した。2月5日午前6時40分、アゾレスに向かう汽を発見するが、スペインだと判明して見逃す。

2月14日午前9時25分、地平線の向こう側から煙が昇っているのを確認。堂々の襲撃を決め、午後12時25分に潜航する。13時18分、距離1200mから2本の450mm魚雷を発射、2本とも命中させて損傷を与えた。しかし相手はブエノスアイレスから出港してきたスペインモンテイグエル(3453トン)であり、本来攻撃してはならないものだった。そうとは知らずにバルバリーゴは攻撃を続け、13時43分に浮上して水上撃を仕掛けようとしたその矢先、右舷400m上を通過する哨戒機を発見。すかさずブレダ機関銃と甲で迎撃し、両に命中弾を喰らわせる。敵哨戒機は一旦南へ飛び去ったが、距離3000mで機体を旋回させて再度バルバリーゴへと迫る。その直後、放たれた10cm弾が敵哨戒機の間近で炸裂。恐怖心を与えたのか敵機はバルバリーゴの1万m圏内へ入ろうとしなくなった。邪魔者を実質化したバルバリーゴは増援を呼ばれる前にモンテイグエルドを始末しようと考え、13時52分に手を甲上に配置する。ところが安全ベルトを外していたピエトロ・ピッキ軍曹が波にさらわれてしまい攻撃手段を撃に変更、3本魚雷を発射したが、不規則な軌を描いて外れてしまう。14時4分、に落ちたピッキ軍曹を回収。この時までに敵の正体がスペインだと判明するも撃沈処分を決断。14時7分、4本魚雷によりモンテイグエルドは沈没

3月2日17時3分、12ノットでジグザグ運動している船舶を発見し、攻撃位置に向かう。23時1分に距離540mから3本の魚雷を発射、全ての魚雷ブラジルアフォンソペン(3540トン)に命中する。まさしく沈だったようで1分後にバルバリーゴが浮上した時には既にの姿はかった。ペルナンブコからリオデジャネイロに向かっていた途上だったため、乗組員31名と乗客84名が行方不明になり、助かったのは僅か8名だけだった。

3月3日16時47分、1万2000トン級と思われる船舶を発見。敵バルバリーゴを発見し、ジグザグ運動を取らず一直線に走って逃走を図る。15.5ノットに増速して獲物を追いかけるバルバリーゴであったが、機関室が高熱になった弊で食糧が発火。幸い速度を落とす事なく鎮火に成功した。23時13分。距離780mから3本の魚雷を発射して全てを敵叩き込むも致命傷には至らず。23時44分、艦尾発射管から発射された魚雷冷蔵タッグハウンド(8591トン)の息の根を止めた。

3月11日16時30分、僚艦ルイージ・トレッリと合流。16時56分から21時36分にかけて燃料20トンを供与した。3月27日午前5時5分、メトックスの探知により敵機を検出して潜航退避。4月3日午前7時3分、ジロンでトレッリがドイツ海軍掃海艇と遭遇し、操装置が故障して漂流しているバルバリーゴのもとへと連れて来た。バルバリーゴは掃海艇航を依頼するが、索を繋げる3回の試みは失敗。一時は絶望的な状況に陥るも自修理了させて奇跡的に助かった。4月3日13時37分、ル・ヴェルドンへ帰投。翌4日18時33分にボルドーへ入港する。

極東への派遣

ドイツからの要請でイタリア海軍も同盟日本が占領する東南アジアへの輸送任務に参加。9隻の大潜水艦を極東へ派遣する運びとなった。1943年3月から艦の選定に入り、コマンダンテ・カッペリーニルイージ・トレッリ、レジナルド・ジュリアーニ、そしてバルバリーゴが第一に選ばれた。これに伴って輸送用潜水艦装され、機魚雷、発射管、幾つかのバッテリーを撤去、1本だけ残して潜望も取り外されている。伊30が輸送に失敗したウルブルク・レーダーの器材や図面など重な物資130トンいたスペースに積載。どちらか片方でも日本の勢圏に届く事を期待してルイージ・トレッリにも同様の物資が積載されていた。

ちなみに1943年3月時点で生き残っていたマルチェロ級はバルバリーゴ、カッペリーニ、エンリコ・タンドロ、ラッツァロ・モチェニーゴの4隻のみであり、既に半数以上の6隻が失われている。また大西洋に残っていたのはバルバリーゴとカッペリーニだけだった。

便乗者として帰が出ている陸軍権藤正威大佐が乗艦。彼は1940年12月ドイツ軍事視察へ行った後、1941年イタリアへ異動して駐在武官補佐官を務めていた。日本ソ連は日ソ中立条約が結ばれていたが、ソ連日本人自由な通行を許さず、欧州に駐在する外交官や軍人は帰困難な状況に置かれていた。彼らの士気低下を防ぐため現地の大使館商務書記官が強硬に意見具申した結果、権藤大佐を含む7名の帰が実現したのだった。

6月5日20時50分、権藤大佐はポツダムを出発。列車パリへ向かった後にボルドーへ移動した。

最期

1943年6月16日東南アジアへ向けてボルドーを出港。

6月20日16時37分、南西方向に向かうバルバリーゴの前にホイットレイ2機が出現。右舷側から突撃してきた敵機は6発の爆雷を投下し、艦尾付近に着弾した爆雷が至近弾となる。対まで取り外されていたバルバリーゴに反撃の術はかったが、何故かホイットレイが出火して墜落。乗組員6名が死亡する。その隙にバルバリーゴは潜航退避して逃れた。この接触を最後にバルバリーゴは行方不明になった。6月24日BETASOMへ報告する義務を負っていたにも関わらず応答はく、乗組員と便乗者全員死亡1945年5月26日陸軍内で権藤大佐の戦死が表されて少将に昇進した。

余談だが、1949年1962年の調によりグロッシ艦長の戦艦2隻撃沈は正式に誤認と判断され、勲章2つの剥奪と降格を喰らった。

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