アゴスティーノ・バルバリーゴ(Agostino Barbarigo)とは、
である。本項では3について記載する。
概要
第二次世界大戦中にイタリア海軍が建造・運用したマルチェロ級大型潜水艦6番艦。前級クラウコ型の改良型であり、大西洋での運用を視野に入れた大型潜水艦。シンプルな船体、優れた速力と機動性、最大100mまで潜航可能な船殻を持つイタリア海軍の傑作で、合計10隻が建造された。イタリア海軍の艦艇は地中海での運用のみを考慮した設計が多数を占めるが、このマルチェロ級は荒波の大西洋でも活動出来るよう考慮されており、イタリア艦隊では珍しく大西洋での作戦も可能だった。このため地中海・大西洋ともに活動可能、時にはブラジル沖まで足を伸ばして狩りを行った事もあった。航続距離の長大さを買われてバルバリーゴとコマンダンテ・カッペリーニは東南アジアへの輸送任務にも従事している。
諸元は排水量1191トン、全長70m、全幅6.8m、最大速力18ノット(水上)/8ノット(水中)、乗員50名。武装は533mm魚雷発射管8門、13mm機銃4門、120mm砲1門、魚雷12本。
1938年9月19日に竣工したバルバリーゴは通商破壊で6隻(3万3827トン)を撃沈する戦果を挙げ、イタリア潜水艦の中でも第5位の撃沈スコアを獲得している。特筆すべき点は戦艦メリーランドとミシシッピ級戦艦を撃沈(誤認)した事だろう。この戦果によりエンツィオ・グロッシ艦長は昇進と受勲の誉れを受けたが、後に誤認だと発覚して剥奪された。
1943年6月16日、日本勢力圏下の東南アジアへ向けてボルドーを出港するが、以降消息不明になる。命日は6月19日とも6月24日とも言われる。
1回目の戦闘航海
1937年度計画にて大型潜水艦として建造が決定。アドリアティコ社のモンフォルコーネ造船所で1937年2月6日起工、1938年6月12日に進水し、同年9月19日に竣工した。ナポリを拠点とする第2潜水艦隊に編入され、1938年から開戦前の1940年まで訓練に使用されていた。
イタリア参戦直前の1940年6月6日17時15分、対英仏連合軍戦闘に備えてナポリを出撃し、地中海に潜む。そして6月10日にイタリアが英仏に宣戦布告した事で第二次世界大戦に参加。開戦時、イタリア海軍には115隻の潜水艦があり、このうち84隻が運用可能であった。同日23時58分、アルジェ近海を水上航行していたバルバリーゴの前に霧の中から突如として敵の護衛艦艇が出現。互いに不意を突かれる。敵艦はバルバリーゴに体当たりを喰らわせようと突っ込んで来たが、咄嗟に急速潜航したのが幸いして水深12mまで沈降したのと同時に頭上ぎりぎりを敵の艦底が通過。一歩遅ければいきなり海の底へと沈められるところだった。幸い爆雷攻撃は無く、難を逃れる。
6月11日午前9時12分、ベンガット岬沖で水深22mを潜航中のバルバリーゴに突然激震と爆発音が襲い掛かる。敵艦から爆雷攻撃を受けたのである。損傷を避けるため水中深くへ潜航退避。水深60mまで潜航したところで攻撃者のものであろう敵艦の推進音が聴音され、70mに到達した瞬間、頭上で爆雷が炸裂した。午前10時25分、敵艦は水中からの爆発音を探知して撃沈と判断し、幸運にも引き揚げていった。6月15日14時6分、ナポリへ帰投。
開戦から20日間でいきなり10隻の潜水艦が失われた。
2回目の戦闘航海
6月27日18時17分、ナポリを出撃。ガタ岬とファルコン岬の中間を狩り場に戦闘哨戒を行う。
7月3日19時10分、ロヴェット装置を使用しながら水深30mを潜航していたバルバリーゴは2隻の機関音を探知した直後、爆雷攻撃を受けた。地中海は水が透き通っていて潜水艦を視認しやすく、ソナーを使わずとも容易に発見される危険性が常にあったのだ。不意打ちの爆雷で損傷しつつも水深60mまで潜航退避。その後、110mまで潜って敵の目から脱した。翌4日午前0時30分、前部発射管に魚雷2本、後部発射管にも魚雷2本を装填して浮上。敵艦がいれば反撃する気概だったが平穏な海が広がるだけで敵の姿は無かった。ちなみにバルバリーゴに攻撃を仕掛けたのは英駆逐艦フォークナーであった。
損傷のため戦闘哨戒を中止せざるを得なくなり、7月5日午前11時7分にカリアリへ帰投。7月6日16時37分、カリアリを出港して翌7日午前11時20分にナポリへ回航。7月18日午前9時20分から17時5分、7月23日午前9時22分から15時57分までナポリ沖で戦闘訓練を実施。
3回目の戦闘航海
8月7日午前1時、533mm魚雷4本と450mm魚雷4本を積載してナポリを出撃。フランスの降伏後、イタリア海軍はボルドーに潜水艦基地BETASOM(ベタソム)を設営。参戦当初に結ばれた「大西洋でドイツ海軍と協力する」約束に従ったものだった。バルバリーゴはBETASOM所属となったため、魚雷の輸送も兼ねて同地まで回航する事になったのである。地中海から大西洋に出るにはイギリス軍の牙城であるジブラルタル海峡を通過しなければならなかったが、8月14日に発見される事無く突破に成功。大西洋への進出を果たす。
8月18日午前6時、マデイラ島東方にて距離1000m先に2隻の掃海艇らしき船を発見。甲板砲に砲手を配置した上で掃海艇の1隻を停船させる。提出された書類によるとスペイン海軍所属の掃海艇シエルトで、バルセロナからカディスに向かって回航中との事だった。中立国の船だったので2隻はそのまま解放された。また同日中に4隻の漁船も目撃している。
8月19日14時、水平線の向こうに敵船らしきものを発見したバルバリーゴは14ノットに増速して狩りを開始。16時26分に突然敵船が変針してバルバリーゴの方へ突進してきたため、潜望鏡深度の18mまで潜航して一旦退避。水中で出せる最大速力の7ノットで1時間追跡する。浮上してみると敵船との距離が7000mにまで開き、また潜水艦を警戒してジグザグ運動を行うなどバルバリーゴを翻弄。魚雷の調整に手間取っている間にグングンと距離を開けられていく。20時、距離1万2000mからダメもとで雷撃するが、海が荒れていた影響で照準が定まらず、2000m離れた場所を魚雷が通過。やむなくバルバリーゴは針路を変更し、敵船の右舷側から砲撃しようと速力を上げ、彼我の距離が9500mに縮まったところで甲板砲が火を噴いた。荒れた海から繰り出される波濤は甲板砲にしがみつくイタリア人砲手を危険に曝し、17分間に及ぶ砲撃を以ってしても命中弾を与えられずにいた。敵船は20時5分から20分にかけて何度もSOS信号を送信。通信傍受により船名が英蒸気船アギラーレである事が判明した。アギラーレは速力を上げて離脱を図り、20時17分の時点で1万2000mにまで開けられたため、計30発放ったところで砲撃中止。敵船を取り逃がした。
8月21日午前8時(現地時間午前5時)、霧に包まれた海上を進むバルバリーゴと並走する船影を発見。速力を上げてジグザグ運動している船影は急速潜航するバルバリーゴに向けて発砲。至近に水柱が築かれた。すぐさま反撃に移り、距離1300mから2本の魚雷を発射。しかし雷跡を発見されたようで敵船に回避される。煙突1本を持つ8000~1万トン級の敵船は約20発の爆雷を投下、バルバリーゴを水深90mにまで押し込める。最後の爆発から10分後、潜望鏡を上げて海上の様子を探ってみると南西方向に逃げ去る敵の軍艦が確認された。
4回目の戦闘航海
10月9日13時30分、新たな拠点となったボルドーを出港。戦闘哨戒へと向かうも、荒れた海によってバッテリーが破損して硫酸が漏洩したため引き返さざるを得なくなり、10月11日16時54分にボルドーへ帰投。修理を受ける。
10月14日午前6時54分、修理を終えたバルバリーゴは再度ボルドーを出港。狩り場のアイルランド西部へ向かう。道中の10月17日午前9時58分、高度1000mで飛行するショートサンダーランド飛行艇を距離7000~8000m先で発見。Uボートの天敵たるサンダーランドと運悪く遭遇してしまったバルバリーゴは水深60mまで急速潜航。その直後、遠方から数発の炸裂音が聞こえて来た。実は敵機はバルバリーゴではなく付近にいた味方の潜水艦オタリアを狙っていたのだった。10月30日15時51分、水平線の向こう側から伸びる黄色の漏斗を発見して追跡開始。しかし荒波により最大速力は12ノットに制限され、敵船に追いつけないまま追跡は中止となった。
11月10日午前0時10分、僚艦オタリアから空母と駆逐艦3隻の存在を示す情報が送られてきた。これを迎撃するためバルバリーゴは針路を変更。午前6時18分、当直士官のアンジェロ・アメンドリアが南方に船影らしきものを発見。間もなく船影が急速接近してきて彼我の距離が3000mにまで縮まる。船影の正体は単独航行中の敵駆逐艦で、未だバルバリーゴを見つけていない様子だった。そこでバルバリーゴは背を向けて逃走しながら艦尾魚雷発射管で仕留めようと考え、距離1500mから雷撃。58秒後に爆発音が轟いた。海上から敵駆逐艦の姿が消えていた事から撃沈と判断した。11月15日19時、ボルドーに帰投。
5回目の戦闘航海
1941年1月31日14時33分、ル・ヴェルドンを出港して18時15分にラ・パリスへ回航。
2月10日18時37分、ラ・パリスを出港。再びアイルランド西部へ向かうが、全体的に悪天候や時化に阻まれて実りの少ない狩りとなってしまう。2月12日午前10時55分、6000m先を西進する1機の敵哨戒機を発見。対空機銃に乗組員を付けて戦闘準備を終えていたが、敵機はバルバリーゴに気付かないまま飛び去って行った。2月15日19時46分、僚艦のオタリアかビアンキらしき潜水艦と遭遇。
2月19日19時、BETASOMから敵護送船団の目撃情報を受信。マルチェロとともに攻撃へ向かったが、翌20日午後12時30分に「荒天により転舵困難。最大速力4ノット」とBETASOMに報告している。13時10分、バルバリーゴはドイツ海軍が発した大船団発見の通信を傍受し、そちらへと向かった。2月21日午前10時45分、北上中のバルバリーゴはノルウェー人7名が乗った救命艇を目撃。近くを船団が通り、そして味方の潜水艦が攻撃を仕掛けた証左であった。13時10分、敵船団の新たな位置情報がもたらされて針路を変更。2月23日午前7時25分、距離3000m先に艦影を発見。最初は潜水艦かと思われたが駆逐艦だったため足早に逃走した。未だ敵護送船団を探して海上を遊弋するバルバリーゴに、BETASOMから北方約95マイルに敵船団がいるとの情報が入った。
2月24日午前11時15分、ようやく1隻の蒸気船を発見。敵船を攻撃するべく急速潜航するバルバリーゴだったが、潜望鏡の欠陥で何も見えない不幸に見舞われ、次に浮上した時には蒸気船は姿を消していた。翌25日20時、BETASOMから別の敵船団の存在を知らされるも、会敵に失敗。3月1日に哨区を離脱して帰路に就く。
3月8日16時7分、ドイツ掃海艇M-9、哨戒艇V-401、V-408に護衛されながらボルドーへ帰投。
6回目の戦闘航海
5月5日13時30分、ボルドーを出港。アイルランド沖の哨区へ向かっている途中の5月7日13時、BETASOMからビアンキ宛ての通信を傍受する。その通信は「不時着したドイツ軍機を捜索せよ」というものだった。ちょうどバルバリーゴは近い場所にいたため捜索に参加。翌8日午前2時20分から5時間に渡って海面を捜索するも何も発見出来ず、元の航路へと戻った。
5月10日午前2時55分、当直士官のアメンドリアは小さな船影を発見。船影を追って南下してみると敵の大船団と遭遇した。午前3時16分、船団から赤色弾が打ち上げられ、バルバリーゴ艦内では「発見されたのではないか」と緊張が走った。更に分派された護衛の駆逐艦が接近してきたため、艦尾魚雷発射管から雷撃するも回避される。午前3時37分、バルバリーゴは敵船団発見の報を出して追跡開始。午前6時21分、敵船団の上空に敵機が旋回するようになり、午前10時35分には2機の大型機がバルバリーゴに向けて低空から突撃してきたので水深30mまで潜航退避。
5月11日午前11時、敵船団を追跡していたバルバリーゴのもとにBETASOMから空母1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻を含む別の大船団がいると伝えられ、攻撃目標を変更。翌12日午後12時59分、ビアンキからの通信で新たな敵船団発見の報が入り、17時4分の追加連絡で「高速船団がバルバリーゴに向かっている」との通信を傍受。しかし敵船団は14ノットの快足だったため追いつく事が出来なかった。5月13日19時、モロシーニから1隻の蒸気船がいると伝えられて迎撃に移るも会敵失敗。
5月15日午前2時39分、BETASOMよりビアンキ、バルバリーゴ、モロシーニ、オタリアの4隻で哨戒線を形成するよう命令が下る。同日22時26分、炎上中のタンカーから立ち昇る黒煙を目撃。やがてタンカーは消火に成功、ジグザグ運動しながら闇夜の中へと逃げようとする。翌16日午前2時39分、距離1800mから2本の魚雷を発射したが全て外れてしまって攻撃失敗。バルバリーゴは有利な攻撃位置に就くべく移動を開始、逃走する敵船――英商船マンチェスターハーバーを狙う。午前4時18分、1000mから魚雷1本を発射するが再び外れてしまう。魚雷を発射した直後、マンチェスターハーバーが変針した事に気付き、2本目の魚雷発射を控える。バルバリーゴの悪い予感は的中した。マンチェスターハーバーは体当たりを喰らわせようと突撃してきたのである。午前4時20分、距離500mから艦尾発射管で雷撃し、2本中1本が船橋付近に命中。マンチェスターハーバーのエンジンが停止したようでゆっくりと失速、右舷に傾きながら漂流していくのが見えた。その隙にバルバリーゴは高速で離脱を図る。一度は沈黙したマンチェスターハーバーであったが、すぐさまエンジンを再始動させて追いすがり、爆雷を投下しながらバルバリーゴに迫る。狩る者と狩られる者が逆転した瞬間だった。幸い距離が離れすぎていたため損害は無かった。
5月16日午前8時27分、ビアンキの船団発見の報により新たな哨戒線の形成を命じられる。マンチェスターハーバーに追い回されたバルバリーゴは配備点への移動が遅れた。そこへ哨戒中の敵機に見つかり潜航退避。しかしハッチの閉め忘れにより20mまで潜航したところで海水が艦内へと流れ込み、わずか2分後に浮上を余儀なくされた。やむなく対空戦闘に切り替えて甲板に砲手を配置。バルバリーゴを見つけて急降下してきたカタリナ飛行艇を一斉射撃で迎え撃つ。命中弾により電気系統に支障が生じさせ、爆雷投下を封じたが、代わりに4回の機銃掃射を浴びて燃料タンクと司令塔が被弾。カタリナが航過した隙に水深60mまで潜航して難を逃れた。
5月20日20時16分、汽船を発見して追跡に入るが、スコールに阻まれて見失った。5月22日14時35分にも敵船を発見しているが高速すぎて追いつけず。5月24日21時7分、敵の巡洋艦を発見して急速潜航。しかしここ3日間の荒天で計器が故障していて正確な数値が割り出せずに見逃した。
5月27日正午、ボルドーへの帰路に就いていたバルバリーゴのもとにBETASOMから「イギリス軍の大部隊から逃走中のドイツ戦艦ビスマルクを支援せよ」と命じられ、針路を北東へ変更。ライン演習作戦で英巡洋戦艦フッドを撃沈したビスマルクはイギリス海軍の怒りを買い、膨大な数の航空機と艦艇を投入してフランス方面へ逃げようとするビスマルクの息の根を止めようとしていたのである。しかしここでも悪天候に阻まれて前進できず、13時30分にビスマルクの沈没を伝えられて作戦は失敗した。翌日午前11時、BETASOMはバルバリーゴにビスマルクの生存者を探すよう指示。だが既に190マイルも離れており、また多くの艦艇が救助に参加していると思って救助活動を行わなかった(この行動は後に批判されている)。
5月30日午前11時32分、ボルドーに帰投。6月28日、フランチェスコ・ムルツィ中佐が艦長に着任。
7回目の戦闘航海
7月13日20時59分、ラ・パリスを出港。今度はジブラルタル西方を狩り場とする。
7月22日17時18分、敵護送船団が250度方向に向けて移動しているのを発見して追跡、23時20分に触接を失う。バルバリーゴからの情報でU-93とU-203が船団攻撃に向かった。7月24日午後12時30分、水平線上に立ち昇る煙を発見。翌25日午前0時12分に距離1000mから魚雷を発射したが角度の計算ミスにより失敗してしまう。バルバリーゴが狙った獲物は英商船メーコン(5141トン)で、元々はOB-290船団の一員だったがボイラーの問題で脱落。アゾレス諸島に退避しているところをバルバリーゴに捕捉された訳である。午前2時39分、距離700mから2本目の魚雷を発射し、今度こそ煙突下に命中させてメーコンに致命傷を与える。続いて午前3時28分から午前4時30分まで10cm甲板砲弾49発を発射。メーコンは翌日力尽きて沈没した。開戦から1年1ヶ月、バルバリーゴはようやく初戦果を収めたのだった。
7月26日午後12時40分、水平線から飛び出すマストと船の上部構造物を発見して追跡を始める。ところが僅か5分後、敵の大型タンカーに気付かれたらしく、バルバリーゴに向かって突進してきたため急速潜航。敵の攻撃をやり過ごした後、15時3分に浮上して暗くなるのを待ちながら追いかける。翌27日午前0時37分、距離3100mから533mm魚雷を発射。白線を引きながら伸びていった魚雷は英給油船ホーンシェル(8272トン)の左舷機関室に直撃。船尾より沈み始める。午前1時27分、念入りに仕留めるべく今度は右舷中央部へ魚雷2本を叩き込み、最後に午前2時38分に4本目の魚雷を右舷機関室に命中させて撃沈。乗組員56名中17名が戦死ないし行方不明となった。
7月30日16時35分、Uボートと遭遇して識別信号を交換する。
8月11日13時3分、ボルドーへ帰投。エンツィオ・グロッシ大尉が艦長に着任し、船体に「Chi teme la morte non è dignegno di vivere(死を恐れる者は生きるに値しない)」と書き込んだ。
8回目の戦闘航海
10月22日16時23分、ラ・パリスを出港してアイルランド南西方面に向かう。
10月24日午前9時10分、武装商船と思われる敵商船が12ノット以上の速力で航行しているのを発見。接近を試みたものの追いつけず20時28分を最後に触接が途絶えた。翌25日16時4分、哨戒中の敵機を見張り員が発見して潜航退避。
10月27日18時1分にも2機の敵大型機と遭遇して急速潜航を強いられている。この日、BETASOMからHG-75船団の情報が提供され、迎撃のためポルトガル南西へと急行する。
10月28日午前10時、HG-75船団の前路に到着して待ち伏せを行う。ところが22時55分、1500m先に敵の駆逐艦が発見され、急速潜航。海中に没したバルバリーゴの頭上を何隻もの船が通過していった。この集団こそHG-75船団だと確信するが、間もなく連絡が途絶えてしまい、再度接触のため水上航行で追いかける。10月31日20時2分、34隻の輸送船からなる大船団を発見して通報。この船団はHG-75船団ではなくOS-10船団という別物であったが、バルバリーゴの迅速な報告によりUボートによる迎撃が可能になった。22時58分から23時20分にかけてOS-10船団が攻撃されている様子を観察。攻撃者はU-96で、商船ベネコムを撃沈している。
11月1日午前11時20分、おそらく船団攻撃に向かっているであろう2隻のUボートを目撃。OS-10船団を追跡しているバルバリーゴの前に敵駆逐艦2隻が現れ、追い払われた。13時10分に再びUボートを目撃。識別信号の交換を行おうとしたが失敗した。翌2日午前9時58分、船団へ追いつこうとするバルバリーゴの努力を嘲笑うかのように駆逐艦が出現し、海中へと押し込められる。13時50分に浮上した時には既に船団の姿は無かった。
11月4日午前11時38分、1万8000m先に15ノットで進む大型汽船を発見。追跡に移ろうとした矢先にエンジンが故障してしまい見逃すしかなかった。
11月10日午前5時12分、ボルドーに繋がるジロンドの沖合いで哨戒中の英潜水艦ウナを発見。幸い敵潜はバルバリーゴの存在に気付いていない様子だった。攻撃しようにも向きが悪かったため背を向けて退避する。11月11日午前10時50分、ル・ヴェルドンに帰投。同日16時23分にボルドーへ回航された。
9回目の戦闘航海
1942年1月18日17時23分、ラ・パリスを出港。アゾレス諸島西方とマデイラ島北方を哨戒する。
1月23日午後12時20分、距離6000m先に味方のUボートと遭遇して識別信号を交換。同日23時に315度方向の航路を行く敵船を発見。中立国ポルトガル領のアゾレス諸島へ向かう船ではなかったので攻撃を決定する。翌24日午前1時20分、1200mから魚雷2本を発射するも外れ、午前1時34分の雷撃も外れてしまう。午前1時45分、4本目の魚雷が命中して12分後に沈没。しかし沈めたのは連合国の船ではなく中立国のスペイン船ナベマール(5301トン)であった。ナベマールは法外な価格でヨーロッパを追われたユダヤ人をアメリカへ運ぶ仕事を請け負っていた問題の船ではあったものの、親枢軸中立国スペインの船を沈めたのは事実。バルバリーゴ側は武装商船を沈めたと主張して問題をウヤムヤにした。
2月5日19時30分、僚艦バニョリーニと遭遇して識別信号を交換。
2月10日15時10分、ジグザグ運動する汽船を発見。暗くなるのを待ってから攻撃を仕掛けようと考え、視界のギリギリから追跡する。ところが21時10分に距離1万2000m先から発見され、SOS信号を打ちながらバルバリーゴを砲撃してきた。敵の抵抗を受けて遂に追いつく事が出来ず、燃料を使い果たしてしまったため21時36分に追跡を中止せざるを得なくなった。2月13日14時25分、サンダーランド飛行艇を発見して急速潜航。
10回目の戦闘航海
4月25日15時28分、ラ・パリスを出港。今度の狩り場は広大な大西洋の向こう側、枢軸国に宣戦布告してきた南米ブラジルの沖合いに定められた。5月17日に南米中部の出っ張り部分であるカポ・サン・ロッコ沖に到着。
5月18日18時14分、遠くに2本のマストが立っているのを発見して12ノットに増速。23時7分に距離800mからブラジル船コマンダンテライラを雷撃して損傷を与える。23時47分より僅か200mの距離から19発の砲弾を発射し、16発を命中させて撃破。乗組員は船を放棄して脱出した。しかし漂流中のコマンダンテライラをアメリカ軍に発見され、フォルタレザまで曳航されてしまっている。が、損傷の大きさから戦争中はに全損判定を受け、戦後に解体された。
5月20日午前2時50分、当直士官のアンジェロ・アメンドリアが暗闇の中で動く艦影を発見してグロッシ艦長に報告。格子状のマストからグロッシ艦長はアメリカのカリフォルニア級戦艦メリーランドを判断。距離650mから2本の魚雷を発射してメリーランドを攻撃、35秒後に2回の爆発が観測された事で撃沈と報告した。5月22日15時、メリーランド撃沈の功績によりローマからグロッシ艦長の昇進が添えられた祝電が送られた。しかし当海域にはメリーランドは存在しておらず、実際に攻撃したのは軽巡洋艦ウィルウォーキーで、しかも沈んでいなかったのである。ちなみに軽巡ウィルウォーキーと駆逐艦モフェットはコマンダンテライラを攻撃したバルバリーゴを捜索するために派遣されており、バルバリーゴからの雷撃にも気付いていなかった。BETASOM司令のロモロ・ボラッキーニ少将はバルバリーゴの報告を「アメリカ戦艦が2本の魚雷で沈むはずがない」と懐疑的だった。しかし大きな快報を欲していた最高司令部が事実を受け取り、特別速報で公表してしまった。
5月22日18時30分、距離2000mから急降下してくるブラジル軍機を発見。潜航する間もなく100kg爆弾8発を投下され、1発が司令塔から20m、2発が艦尾から5m離れた場所に着弾。すぐさま対空砲火を上げて敵機に命中弾を与えた。
5月28日午前11時32分、7000m先に12ノットで単独航行している英商船チャールベリー(4836トン)を発見。22時20分にBETASOMから許可が下りた事で攻撃開始。22時51分、距離1500mから雷撃を仕掛けたが、迫り来る魚雷に気付いたようでチャールベリーに回避運動を取られる。6分後に再度魚雷を発射するも回避され、23時の雷撃もむなしく回避される。翌29日午前2時37分、距離400mまで肉薄して放った魚雷は、チャールベリーの右への回避運動によって船尾下を通過。ここでバルバリーゴは水上砲撃に切り替え、敵船からの砲撃を防ぐため一斉射撃を加えて船尾砲がある後部から船員を追い払った。午前3時1分、距離500mから5本目の魚雷を発射して19秒後に命中。決死の抵抗を見せたチャールベリーも力尽きて午前3時21分にゆっくりと沈没した。
11回目の戦闘航海
8月29日16時35分、ラ・パリスを出港。再びブラジル沿岸へと長駆して狩りを行う。翌30日13時、ビスケー湾を通過中にいきなり哨戒中の敵機3機と出くわして潜航退避を強いられ、同日15時にも同様に敵機を発見して潜航退避している。出入口のビスケー湾であっても制空権を連合軍に握られつつある事を如実に語る出来事であった。
9月7日20時15分、アゾレス諸島方面へ向かっているタンカーを目撃して追跡開始。21時50分にスペイン船だと判明したため追跡を中止した。
9月13日午前10時55分、漂流中の救命艇を発見。確認してみると死体だけが乗っており、乗船を撃沈されて漂流中に全滅したものと推測された。9月17日、僚艦コマンダンテ・カッペリーニから給油を受けるため合流地点に向かったが、何故かカッペリーニは姿を現さなかった。給油に失敗した影響で狩り場をパルマス岬南方へ変更し、9月25日に到着する。9月27日午前0時30分、バルバリーゴを追跡してくる敵潜水艦の存在に気付いて5分後に潜航退避。9月28日にパルマス岬沖を離れてアゾレス諸島方面へ移動。
10月1日午後12時50分、雲間から突然敵機が急降下してきて奇襲を受ける。潜航する暇が無かったため対空機銃で迎撃するも荒れた海によって照準が定まらない。ハドソン型と推定された敵機は高度100mから4つの250kg爆弾を投下。このうち2発が左舷艦首前方付近に着弾した。バルバリーゴから放たれた激しい対空砲火は敵機の接近を頑強に拒んで戦局は膠着する。13時15分、隙を突いて潜航退避に成功。15時26分に一旦浮上するも、17時30分に今度は前方から敵機が迫って来た。対空砲火により撃墜に成功し、パイロット1名が燃え盛る機体から脱出出来ずに焼死した。しかし砲手カルロ・マルケセリが機銃掃射を受けて艦外へ吹き飛ばされ、落水した時に「Viva il Re(国王万歳)!」と叫んで力尽きた。17時50分、バルバリーゴは海中へと没した。10月2日、BETASOMよりフリータウン沖への移動を命じられ、2日後に到着。
10月6日午前2時20分、見張り員のピエトロ・パストリーノは左舷距離4000mに船影を目撃し、グロッシ艦長が艦橋へと上がる。影の形から察するに敵はミシシッピ級戦艦と認識。護衛を伴っていない様子だったため攻撃を仕掛ける事に。午前2時32分、距離2000mから2秒間隔で4本の魚雷を発射。約90秒後に4回の爆発音を観測した。その3分後に駆逐艦が出現、航跡から位置が露呈しないよう速度を落として退避する。続けざまに2隻目の駆逐艦が出現したが攻撃される事無く離脱に成功。午前6時、グロッシ艦長は2隻目の戦艦を撃沈したとして最高司令部に報告し、10月8日にヒトラー総統から騎士鉄十字章の授与が伝えられ、イタリア本国からは最高賞である金メダルが授与された。そして独伊はプロパガンダとしてこの戦果を大々的に発表したが…。実はミシシッピ級戦艦の撃沈は誤認だった。グロッシ艦長が戦艦と判断したものはコルベット艦ペチュニアであり、戦艦を想定した雷撃だったため魚雷はペチュニアの艦底を通過して命中していなかったのだ。
10月10日にフリータウン沖を離れ、10月17日より帰路に就く。10月28日17時53分、バルバリーゴはBETASOMから翌日ボルドーへ入港するよう命じられる。
10月29日23時30分、ル・ヴェルドンへ帰投。翌30日午前11時30分にボルドーへ回航され、そこで「2隻の戦艦を撃沈した」事を記念して大規模な式典が行われた。独伊軍の上層部が出席し、カール・デーニッツ元帥がグロッシ艦長に騎士鉄十字章を贈った。グロッシ艦長は潜水艦隊司令へ栄転する事になり、ロベルト・リゴリ中尉が艦長に就任。ちなみにボラッキーニ少将はグロッシ艦長の「戦果」を事実ではないと否定。彼を非難していたが、それが原因で司令を解任され、皮肉にもグロッシ艦長が新たな司令の座に就いた。
12回目の戦闘航海
1943年1月24日16時24分、ラ・パリスを出港。カーボベルデ諸島西方を通過してブラジル沿岸へと向かう。
1月27日22時50分、ドイツ製電波受信器メトックスが接近する敵機を探知し、急速潜航。以降も敵機が接近するたびにメトックスが異常を知らせてくれたため航空攻撃を受ける事無くビスケー湾を突破した。2月5日午前6時40分、アゾレス諸島に向かう汽船を発見するが、スペイン船だと判明して見逃す。
2月14日午前9時25分、地平線の向こう側から煙が昇っているのを確認。白昼堂々の襲撃を決め、午後12時25分に潜航する。13時18分、距離1200mから2本の450mm魚雷を発射、2本とも命中させて損傷を与えた。しかし相手はブエノスアイレスから出港してきたスペイン船モンテイグエルド(3453トン)であり、本来攻撃してはならないものだった。そうとは知らずにバルバリーゴは攻撃を続け、13時43分に浮上して水上砲撃を仕掛けようとしたその矢先、右舷400m上空を通過する哨戒機を発見。すかさずブレダ機関銃と甲板砲で迎撃し、両翼に命中弾を喰らわせる。敵哨戒機は一旦南へ飛び去ったが、距離3000mで機体を旋回させて再度バルバリーゴへと迫る。その直後、放たれた10cm砲弾が敵哨戒機の間近で炸裂。恐怖心を与えたのか敵機はバルバリーゴの1万m圏内へ入ろうとしなくなった。邪魔者を実質無力化したバルバリーゴは増援を呼ばれる前にモンテイグエルドを始末しようと考え、13時52分に砲手を甲板上に配置する。ところが安全ベルトを外していたピエトロ・ピッキ軍曹が波にさらわれてしまい攻撃手段を雷撃に変更、3本目の魚雷を発射したが、不規則な軌道を描いて外れてしまう。14時4分、海に落ちたピッキ軍曹を回収。この時までに敵船の正体がスペイン船だと判明するも撃沈処分を決断。14時7分、4本目の魚雷によりモンテイグエルドは沈没。
3月2日17時3分、12ノットでジグザグ運動している船舶を発見し、攻撃位置に向かう。23時1分に距離540mから3本の魚雷を発射、全ての魚雷がブラジル船アフォンソペンナ(3540トン)に命中する。まさしく轟沈だったようで1分後にバルバリーゴが浮上した時には既に船の姿は無かった。ペルナンブコからリオデジャネイロに向かっていた途上だったため、乗組員31名と乗客84名が行方不明になり、助かったのは僅か8名だけだった。
3月3日16時47分、1万2000トン級と思われる船舶を発見。敵船もバルバリーゴを発見し、ジグザグ運動を取らず一直線に走って逃走を図る。15.5ノットに増速して獲物を追いかけるバルバリーゴであったが、機関室が高熱になった弊害で食糧箱が発火。幸い速度を落とす事なく鎮火に成功した。23時13分。距離780mから3本の魚雷を発射して全てを敵船に叩き込むも致命傷には至らず。23時44分、艦尾発射管から発射された魚雷が米冷蔵船スタッグハウンド(8591トン)の息の根を止めた。
3月11日16時30分、僚艦ルイージ・トレッリと合流。16時56分から21時36分にかけて燃料20トンを供与した。3月27日午前5時5分、メトックスの探知により敵機を検出して潜航退避。4月3日午前7時3分、ジロンド沖でトレッリがドイツ海軍の掃海艇と遭遇し、操舵装置が故障して漂流しているバルバリーゴのもとへと連れて来た。バルバリーゴは掃海艇に曳航を依頼するが、曳索を繋げる3回の試みは失敗。一時は絶望的な状況に陥るも自力で修理を完了させて奇跡的に助かった。4月3日13時37分、ル・ヴェルドンへ帰投。翌4日18時33分にボルドーへ入港する。
極東への派遣
ドイツからの要請でイタリア海軍も同盟国日本が占領する東南アジアへの輸送任務に参加。9隻の大型潜水艦を極東へ派遣する運びとなった。1943年3月から艦の選定に入り、コマンダンテ・カッペリーニ、ルイージ・トレッリ、レジナルド・ジュリアーニ、そしてバルバリーゴが第一陣に選ばれた。これに伴って輸送用潜水艦に改装され、機銃、魚雷、発射管、幾つかのバッテリーを撤去、1本だけ残して潜望鏡も取り外されている。伊30が輸送に失敗したウルツブルク・レーダーの器材や図面など貴重な物資130トンを空いたスペースに積載。どちらか片方でも日本の勢力圏に届く事を期待してルイージ・トレッリにも同様の物資が積載されていた。
ちなみに1943年3月時点で生き残っていたマルチェロ級はバルバリーゴ、カッペリーニ、エンリコ・タンドロ、ラッツァロ・モチェニーゴの4隻のみであり、既に半数以上の6隻が失われている。また大西洋に残っていたのはバルバリーゴとカッペリーニだけだった。
便乗者として帰国命令が出ている帝國陸軍の権藤正威大佐が乗艦。彼は1940年12月にドイツへ軍事視察へ行った後、1941年にイタリアへ異動して駐在武官補佐官を務めていた。日本とソ連は日ソ中立条約が結ばれていたが、ソ連は日本人の自由な通行を許さず、欧州に駐在する外交官や軍人は帰国困難な状況に置かれていた。彼らの士気低下を防ぐため現地の大使館商務書記官が強硬に意見具申した結果、権藤大佐を含む7名の帰国が実現したのだった。
6月5日20時50分、権藤大佐はポツダム駅を出発。列車でパリ駅へ向かった後にボルドーへ移動した。
最期
6月20日16時37分、南西方向に向かうバルバリーゴの前にホイットレイ2機が出現。右舷側から突撃してきた敵機は6発の爆雷を投下し、艦尾付近に着弾した爆雷が至近弾となる。対空機銃まで取り外されていたバルバリーゴに反撃の術は無かったが、何故かホイットレイが出火して海に墜落。乗組員6名が死亡する。その隙にバルバリーゴは潜航退避して逃れた。この接触を最後にバルバリーゴは行方不明になった。6月24日にBETASOMへ報告する義務を負っていたにも関わらず応答は無く、乗組員と便乗者全員が死亡。1945年5月26日、陸軍内で権藤大佐の戦死が公表されて少将に昇進した。
余談だが、1949年と1962年の調査によりグロッシ艦長の戦艦2隻撃沈は正式に誤認と判断され、勲章2つの剥奪と降格を喰らった。
関連項目
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