生麦事件とは、江戸時代末期(幕末)の1862年に起こった、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件である。
概要
「薩摩藩の行列を遮ったイギリス人に武士が斬りかかり殺害した。これが原因で薩英戦争が起こり…」等と学校の授業で説明されることが多い事件。実際この説明自体は間違ってはおらず、幕末史の全体的な流れを理解するうえではこの説明でも支障はない。
ただ、より詳しく言えば「4人のイギリス人が馬に乗ったまま行列と逆行して進み、島津久光が乗った駕籠に接近してしまった後、引き返そうとして馬を動かそうとした。しかし、かえって場を取り乱してしまい、複数名の武士に斬られた」というものになる。つまりは「イギリス人が行列と逆行して重要人物を乗せた駕籠のところまで進み、さらに近くで馬を大きく動かしてしまったため斬られた」ということである。
最初の略した説明だと行列の先頭の侍に有無を言わさず斬られたと勘違いされることもあるが、実際にはイギリス人が先頭から行列の中心まで入り込んでしまった結果発生している。武士側でも言葉が伝わらないなりに、ジェスチャーや大声でイギリス人に対して馬から降りるよう指示しているが、イギリス人側は降りずに進んでしまった。
当時この事件が報じられた際には、横浜の外国人居留地やイギリス本国では日本に対する批判的な意見が多かったものの、他の外国人からイギリス側を批判する意見もあった。
アメリカ公使ブリュインは、イギリス側の態度にきわめて批判的だった。
「そもそものはじまりから、わたしはイギリス政府の態度がじつに異常きわまりないものであると感じていた。昨年九月の事件(生麦事件)がいかに不幸な出来事であったにせよ、それがまったく偶発的な性質のものであったことは何人も否定できない。おなじような状況の下では、日本人といえども殺害されたであろうことを、われわれは認めざるをえない。(以下略)」
外国人を斬ってしまったのはもちろん無礼な者を武士が斬り殺してよいとする「斬捨御免」の慣習に従ったのもあるが、薩摩藩士側からすると目の前の外国人が何をするのかわからず、下手をすれば久光に危害を加える可能性も考えられたというのもあると思われる。当時よく見られた「攘夷」を意図して外国人を斬ったわけではなかった。
生麦
「生麦」というのは事件発生地点の名前(生麦村)であり、現在は神奈川県横浜市の地名になっている(横浜市鶴見区生麦)。京急線生麦駅や首都高速の生麦JCTの周辺にあたり、東京湾に面している[1]。
生麦村の中心には東海道が通っていた。東海道は東日本と西日本を結ぶ主要ルートの1つであり、大名などの貴人の行列も頻繁に通っていた。また、幕末には開港された横浜と江戸を結ぶ道として往来が増えていたほか、横浜~川崎間は外国人の通行が認められていたため、生麦村でも外国人が見られるようになっていた。
生麦事件は「米騒動」のように農作物や食べ物と関係した名前の由来というわけではなく、地名から名づけられている。ちなみにごく稀に勘違い・見間違いされるが「生姜事件」ではない。
ちなみに「生麦」という地名自体の由来は、漁師が貝の殻をむいていたことから「なまむき」と名付けられ、それが「なまむぎ」に転じたとする説などがある。
イギリス人4名
生麦事件でのイギリス人4名は以下の通りである。日本に来た商人やその友人・妻の一団が、乗馬しながら横浜から川崎大師に向かう最中に事件が発生した。
- チャールズ・レノックス・ リチャードソン
- 上海で貿易商を営んでいた。上海からイギリスに帰る途中で、日本で休暇として長く滞在していた。4人の中で最初に斬られ、唯一死亡した人物。落馬したがその後も短い間は生存していたとされる。発見時には腹部から内臓が流出しており右手は切断、首を皮一枚で繋がった状態まで介錯されていた。
- ウッドソープ・チャールズ・クラーク
- 商会で事務員として働いていた。リチャードソンの友人。生麦事件では肩に重傷を負った。その後アメリカ領事館となっていた本覚寺(横浜市神奈川区)に避難し、ヘボン(後にヘボン式ローマ字を考案する医師)の手当てを受ける。事件後は居留地の消防士として活躍するが、左腕が上がらなくなる後遺症が残っていた。事件の5年後に死去。
- ウィリアム・マーシャル
- 横浜のイギリス人貿易商。脇と背中に重傷を負い、クラークと同様にヘボンの手当てを受ける。明治時代に新橋・横浜間の鉄道開通式典で外国人代表として出席し、明治天皇の前で祝辞を述べ、その1年後に死去。
- マーガレット・ワトソン・ボラデイル
- 香港のイギリス商人であるトマス・ボラデイルの夫人。マーシャルの義妹。姉を訪ねて日本にやってきた。無傷で横浜まで逃げ帰るが、後に事件が原因で精神疾患を抱え、8年後に死去。
最初にリチャードソンに斬りかかった人物は奈良原喜左衛門とされるが、奈良原繁とする異説もある。
ボラデイル夫人が横浜の商館に事件を叫んで伝え、医師のウィリアム・ウィリスと公使館領事のフランシス・ハワード・ヴァイスが救助に向かっている。そのため、横たわるリチャードソンの死体の写真も残っている。
なぜ下馬せず進んで行ってしまったのか?
行列の武士が出したジェスチャーを「行列の脇を通れ」と解釈したため、そのまま行列と逆行する形で進んでいったとされている。ただし、このジェスチャーは実際には「馬から降りよ」だったとも言われる。
その後は行列と逆行して進んだ。最初こそ脇を通ろうと思っていたが、途中から道いっぱいに広がる行列に対して脇に通るスペースが無くなっており、馬列が乱れ行列の中央にも入ってしまったようだ。
リチャードソンはまだ日本に来てから日が浅く、現地の慣行に詳しくなかった。また若くしてイギリスから東アジアに来たため、本国で身に着けられる乗馬のマナーにもそれほど頓着していなかったと推測される。
さらに、リチャードソンについて述べたものとして、北京駐在のイギリス公使のフレデリック・ブルースから半公信として
とラッセル外相に伝えられた文書がある[2]。リチャードソンの評価としては「物静かな人物だった」「皆に好かれていた」「親日家だった」とするものもあるが、こうしたリチャードソンの意識も当日の行動に影響したのかもしれない。
少なくともリチャードソンが武士の行列に遭遇した際の対応について深く考えていなかったのは間違いないと思われる。当時4人とも武器を持たずに無防備であった。その状況で刀・鉄砲を持った武士の行列が見えた時点で引き返していたり、馬から降りて脇に避けていればこのような事態にはならなかった可能性が高い。
ただ日本側にも全く落ち度がなかったわけではなく、外国人が武士の行列と遭遇した場合の対応については幕府・藩ともに定まっておらず、後述するようにその都度の外国人の慣例や機転で対応していた部分があった。この点に関しては、後にイギリスから、幕府が事前に条約等に記載するなどして対処すべきだったとして追及されている。
当日の行列の通過の予告に関しては公使館には届いていた。しかし、発表されてリチャードソンらに伝わったかについては不明である[3]。生麦事件の直前、イギリス公使館では薩摩藩の行列の通過と、外国人の通行自粛についての告知が準備されていた。しかし幕府から急に出されたものだったため、英語への翻訳の時間がかかったことに加えて日曜日で休みだったこともあり、発表が遅れて当人の目には届かなかった可能性も考えられる。
他の外国人の以前の行列への対応
他の外国人が行列と遭遇した場合、馬から降りて軽く礼をするなどして対応した先例が複数ある。武士の方も外国人が敬意を持っていると判断し、そのまま通り過ぎていたため事件にはならなかった。例えば生麦事件と同じ行列に遭遇したヴァン・リードや、尾張藩の大名行列を崖の上から眺めていたフランシス・ホールも礼をしてそのまま通過させている[4]。
「皇帝ナポレオンの信任状を受けたフランス外交代表として、その立場の神聖さ(条約で認められた通行権があること)を示す」として、下馬せず行列と逆行して進んだベルクールでさえも、皇女の駕籠が通過する最中は街道の脇に馬を寄せて帽子を取り、表敬の挨拶をしている。行列を逆行した時点で一歩間違えれば生麦事件のようになったかもしれないが、その後は供回りの会釈に対して片言の日本語で「アレガト」「シオナダ」などと返すことで(苦笑されつつも)事なきを得た[5]。
アメリカ人宣教師のマーガレット・バラも事件発生前の1862年3月に、行列に遭遇した際の慣習として「馬に乗った外国人は道路の端に寄ること」と手紙に記しており[6]、外国人の間でこの対応が意識されていたことが読み取れるが、中には外国人が従わないこともあったとも書かれている[7]。
ちなみに行列以外の場所での外国人への襲撃事件は、生麦事件の以前に何度も発生している。しかし、それまでの外国人襲撃は公使に対するものが中心だったため、民間人が襲撃される可能性についても生麦事件の当人たちはそれほど深く考えていなかったのかもしれない。
その後
薩摩藩の行列隊はその後保土ヶ谷宿(横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷)で一泊する。横浜居留地では外国人たちが薩摩藩への襲撃・犯人の逮捕などを主張して騒いだものの、即時の戦争を憂慮したジョン・ニール代理公使が冷静に対応し、後日の外交での対応へと準備を進めた。
そして事後の交渉でイギリスは、幕府に対して謝罪としての賠償金10万ポンドを求めた。これに関しては後日イギリスに支払われている。また、薩摩藩に対しても遺族・負傷者に対する賠償金2万5千ポンドと犯人の処刑を求めるため、その交渉として鹿児島湾にイギリス軍艦が派遣された。しかし、「薩摩側に事件の責任はない」として交渉が決裂したため、その場で薩英戦争が発生した。
こうした点から見ても、日本史を扱う中では生麦事件は取り上げられやすい事件となっている。しかしあくまで薩英戦争の前置きや幕末史の一部として扱われることが多く、生麦事件を主題とした研究や文献は知名度の割には少ない。
英文学者である宮澤眞一氏が、イギリス側の文献も調べたうえで、書籍に生麦事件の関する研究・調査の成果を残している。また、元酒店経営者の淺海武夫氏が生麦にある自宅を改装し「生麦事件参考館」を開いていたが、2014年に体調の悪化を理由に閉館している。
関連動画
関連項目
脚注
- *現在は沖にも埋立地が広がっている
- *萩原延壽『旅立ち 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』, 朝日新聞社, p.140-141, 1998
- *当時のアメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラの手紙によると発表されていたとされる(有隣新書の川久保とくお訳版, 1992, p.81)が、宮澤(1997)は発表されていなかったとしている(p.138)。バラの手紙では生麦事件自体の記述に「4、5人のイギリス人」「リチャードソンが落馬していない」「他の者はかすり傷」「夫人が腕に深いケガをした」などの相違があるため、この事件の記述については伝聞だと考えられ、実際に触れが出されていたとする根拠としては弱いと判断されているのかもしれない。また、町田(2022)はJBpressの記事で「生麦事件勃発は週末にあたり、その要請がリチャードソンらに伝わらなかった可能性も否定できない」としており、「出されたが、もうその時点で本人たちが出発済みで手遅れだった」というパターンも考えられる
- *宮澤眞一『「幕末」に殺された男―生麦事件のリチャードソン』, 新潮選書, p.139-143, 1997
- *同上, p.143-145
- *『古き日本の瞥見 Glimpses of Old Japan 1861-1866』, 川久保とくお訳, 有隣新書, p.72, 1992.
- *同上
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