「エスっていふのはね、シスタア、姉妹の略よ。頭文字を使ってるの。
上級生と下級生が仲よしになると、さう云って、騒がれるのよ。」
と、経子に聞かされても、
「仲よしって、誰とでも仲よくしていいんでせう。」
「あら、そんなんぢゃなくてよ。特別好きになって、贈物をし合ったりするんでなくちゃ……。」
概要
エスとは、sisterの頭文字であり、主に戦前の女学生同士の特別に親密な関係を表す隠語である。
語源であるsisterからもわかるように、下級生が上級生を「お姉さま」と呼んで慕う姉妹的な関係が主流であったが、同級生同士や教師と生徒のエスもあった。
明治期に旧制の女学校が作られると、ロマンティックで叙情的な美意識を基盤とする女学生文化が発生した。
その美意識と、異性とのふれあいが極端に少ない女学校特有の環境の中で生まれた概念がエスである。
「エス」の他にも、「シス」「おめ」など様々な呼び方が存在したが、大正後期の少女雑誌の隆盛により全国の女学生文化が均質化されていくと、だんだんと「エス」に一元化されていった。
エスの仲にあっては、手紙を交換する、一緒に登下校をする、買い物に出掛ける、勉強を教える、あるいはプレゼントを贈りあう、おそろいの服装や髪型にするなどのコミュニケーションがとられた。
これらは「親友」の関係と言っても差し支えないものであるが、その手紙の文面には「愛するお姉さまへ」「可愛い妹へ」といった言葉が並ぶ。
思慕、敬愛、崇拝、憧れといった感情を強く押し出し、互いを特別な存在とするその関係は、恋愛に近いものとも言える。
エスの社会問題化
女学生文化の中の密かな現象であったエスは、1911年(明治44年)7月に新潟で起こった、女学校卒業生同士の心中事件によって一気に社会的な注目を浴びる。
「恐るべき同性の愛」とまで評されたこの事件について、様々な立場から議論が交わされるようになるが、時代が進むにつれ、大勢としては、エスは性的関係ではなく精神的な絆として認識されるようになる。「恋愛の予行練習」「異性愛の前段階」「思春期の一過性の感情」などとも言われ、心中や不良行為などの具体的な問題行動につながらない限りはある程度容認された。
逆に言えば、性的な接触があった時点で「異常」「病的」「性倒錯」などと判断されるという暗黙の基準が設けられたのである。
このことから、エスの関係では精神的な結びつきのみのプラトニックな関係であることが、当事者からも外部からも重視されることとなった。
同性愛・異性愛とエス
同性愛を異性愛の未熟な形として位置づけようとする上述の見方には、当時の男尊女卑的社会や、同性愛への差別的感性が端的に伺える。
しかしながら、戦前の女学生の中に社会現象になるほど(他の時代と比較して)レズビアンが多かったとも考えがたく、また戦後に自由恋愛が称揚されるようになってエス文化が衰退したことから考えても、多くの女学生が同性愛というよりは異性愛の代償行動としてエスを行っていただろうことは否定出来ない。
女学生の大半が、卒業後は家が決めた男性のもとへ嫁いでいくのが当たり前だった当時、女学生にとって男女の関係は、結婚制度による家同士の結びつきや、子作りを前提とした肉体関係を連想しやすいものであった。
その対比として、女学生同士の精神的な関係が理想化され、特段にロマンティックで美しいものに感じられただろうことは想像に難くない。
もちろん、中には本来的に同性を性指向とするレズビアンもいたことは事実である。
『花物語』『屋根裏の二處女』などエスを題材にした少女小説で女学生にカリスマ的人気を誇った吉屋信子は、自身が同性の恋人を持つ同性愛者であることを公言している。
彼女の作品には淡い友情が描かれることもあれば、身体的接触を伴う恋が描かれることもあった。
エスと百合
前述したように、エスは戦後に男女交際が当たり前になると衰退した。
同性の先輩に憧れを抱く下級生などはある程度の割合でいるだろうが、それは個人的な経験の中に収まることであり、戦前の女学生に当然のように見られた文化としてのエスは既に無い。
しかし、少女小説など創作作品の中ではロマンティックな関係として引き継がれた。『マリア様がみてる』の「姉が妹を導くごとく先輩が後輩を指導する」スール制度はまさにエスのことである。
元来レズビアンのことを指す言葉であった「百合族」から派生した、女性同性愛を表す「百合」という言葉は、現在ではこうしたエスの後継のイメージまでも吸収、包括するようになっている。レズビアニズムと一旦分離したエスは、百合という言葉の中で再び境界線を曖昧にして語られるようになっている。
関連項目
- 29
- 0pt