ジョン万次郎とは、幕末から明治にかけて通訳や教育で活躍した人物である。
概要
アメリカ合衆国に初めて到達した日本人とされる。その後英語を身に着け、日本に帰国してからは重要な外交局面での通訳として活躍したほか、江戸(東京)や土佐、薩摩などで英語や航海術を指導した。
ちなみに「ジョン万次郎」は後世に付けられた名前であり、本名は「中浜万次郎(中濱萬次郎)」で、航海中のアメリカ人船員からの愛称は「ジョン・マン」だった。
遭難から米国へ
もともとは中浜という漁村(現:高知県土佐清水市中浜)の漁師の次男で、名前も苗字がなく、単に「万次郎」だった。
1841年に14歳で炊事係として乗船した漁船が遭難し、伊豆諸島の鳥島に漂着して100日以上5人でサバイバル生活していたところをアメリカの捕鯨船に救助された。当時の日本は鎖国していたため迂闊に帰国することができず、乗っていた他の4人はハワイで下船したが、万次郎は捕鯨船員としてアメリカに行く申し出をし、ホイットフィールド船長から快諾される。船員からは「ジョン・マン」と呼ばれて親しまれた。
1843年からはアメリカ暮らしをするようになり、船長の地元のマサチューセッツ州フェアヘーブンで英語や数学、測量・航海術を学んだ。子供たちに交じって小学校での勉強を終えた後、中学程度の教育と航海・捕鯨の専門教育を行うバートレット・アカデミーを首席で卒業している。
その後は得た知識をもとに再びフランクリン号の捕鯨船員となり、1846年から4年間は大西洋やインド洋まで移動しながら捕鯨に携わり、21歳で一等航海士・副船長となる。1849年からはゴールドラッシュが起こっていたサンフランシスコで金の採掘も行い、見事に帰国の資金を得た。
帰国
1850年にはハワイに戻り、病死していた1人(重助)とハワイで生活する道を選んだ1人(寅右衛門)を除いて、2人(伝蔵・五右衛門)とともに小舟「アドベンチャー号」で琉球(現:沖縄県糸満市大度)に24歳で上陸する。
琉球の番所での7ヶ月にわたる取り調べののち、薩摩藩に送られ数十日間身柄を制限されるが、厚遇を受けるとともに、藩主の島津斉彬が海外の見識を得るため直々に取り調べ(というより歓談)をする。さらに長崎に送られ審問を受けた後、翌年には25歳で土佐に帰り、11年ぶりに母と再会した。
ちなみに琉球で取り調べをした牧志朝忠は、後にペリーが琉球に来航した際に通詞を務め、アメリカの政情に対する造詣の深さで一行を驚かせたと言われる。恐らく万次郎の話もそれに役立ったのではないかと思われる。
外交・教育での活躍
土佐藩で山内容堂の指示により、河田小龍による万次郎の話の聞き取りによって公式記録『漂客談奇』、漂流記『漂巽紀畧』[1]が記される。そして万次郎は藩校の教授館に出仕し、後藤象二郎や岩崎弥太郎などが指導を受けたとされている。
さらに翌1853年、ペリーが浦賀に来航したため幕府から江戸に呼び寄せられ、旗本に昇格され出身地から「中浜」の姓を授かる。
江川英龍のもとで翻訳に従事し、幕府での発言の機会も与えられるが、アメリカのスパイ疑惑もかけられ日米和親条約での通訳からは外された。しかし、日米修好通商条約においては勝海舟や福沢諭吉とともに咸臨丸でアメリカのサンフランシスコに渡り、批准書交換の際の通訳として活躍した。
その後は小笠原諸島を調査で訪れ、遭難した鳥島を再訪したほか、捕鯨も行っている。また、この捕鯨の際、同行した外国人船員による強盗未遂事件が起こり、日本人としては外国人を(記録に残る限り)初めて逮捕した(ホーツン事件)。
37歳で薩摩藩の「開成所」の教授に就き、英語・航海術・造船・測量を指導する。39歳の時には土佐の「開成館」でも教授となり、さらには明治になってから東京の「開成学校(東京大学の前身)」の二等教授となった。
大山巌らとともに普仏戦争の視察団としてヨーロッパへ派遣され、アメリカに寄港した際にホイットフィールド船長とも再会できた。しかし、帰国後に脳溢血で倒れてしまう。
ほどなく回復するがそれ以降は歴史の表舞台に立つ機会は減った。政界にも誘われたものの教育者としての道を選び、残りの25年ほどは穏やかな余生を過ごしたと言われている。1898年に71歳で死去。
関連動画
関連静画
関連リンク
関連項目
脚注
- 2
- 0pt