『エピクロスの自然哲学とデモクリトスと自然哲学の差異』とはマルクスの西洋哲学を総括した哲学論文である。
概要
記念すべきマルクスの処女論文。本論文は、マルクスが22歳のときにイエナ大学に提出した学位請求論文、要するに博士論文だ。この論文でマルクスは、ギリシャ哲学の中でも他の人があまり扱ってこなかったアリストテレス以後から、アレクサンドリア哲学までの哲学を範囲としていた。具体的にはアリストテレス以後のストア哲学、懐疑派、エピクロス派である。
本作では、後にマルクスが打ち立てる政治経済思想の片鱗はまだ見ることはできないが、彼の全ての思想のベースになっている自然に対する考え方、つまり「決定論」に対する興味を垣間みることができ、後々の著作を根幹から理解するという意味でも重要な著作である。
マルクスはこの博士論文において無神論を標榜している。表題にもある二人の哲学者、デモクリトスとエピクロスは両者ともに唯物論者である。唯物論というのはどの思考ルートを通ろうが、最終的には大抵「神は存在しない」という無神論へと行き着いてしまう。よって、この二人を取り上げるということは、当時キリスト教国家を掲げていたプロイセン政府、ひいてはヨーロッパ思想界に対する挑戦に他ならなかった。にも関わらず、マルクスは本著の序文において、無神論こそが哲学の唯一の立場であることを示唆し、堂々と学会にこれを提出したのである。
第二の特徴として、本論文の背景にはヘーゲルの姿が存在している。当時のドイツの大学は伝統的ヘーゲル思想に対して果敢に批判を行うヘーゲル左派と呼ばれる哲学集団がブームであり、マルクスもそれにはまっていた。マルクスはヘーゲル左派として、保守的なヘーゲル思想(ヘーゲル右派、老ヘーゲル派)からヘーゲルを救うことを自らの責務と考え、ヘーゲル哲学の中でも理論的に弱いとされた古代西洋哲学を補完するという形を取りつつ、自己意識の哲学としての人間学を樹立し、その意味でヘーゲルを継承するという目的をもっていた。後にマルクスはこのヘーゲル左派とも手を切り、本格的な唯物論哲学にのめり込んでいくが、それはまた後の話しだ。
内容
この論文は題名の通り、デモクリトスとエピクロスという二人の自然科学者の違いを考察するものである。マルクスが着目した、二人の哲学の差異とはずばり「自然の捉え方」であった。「自然」というものを、どのように感じ、哲学するか。その方法論の違いこそが、二人の哲学の決定的な違いであった。
本著は二部構成になっており、一部はデモクリトスとエピクロスの哲学一般に関する差異。二部は個別の哲学に関しての差異を考察している。以下、その内容を見ていこう。
一章 エピクロスの自然哲学とデモクリトスと自然哲学の一般的な差異
古代の神学者やキリスト教の学者たちは、デモクリトスとエピクロスの哲学を同じもの、あるいはエピクロスはデモクリトスの二番煎じという評価を彼らに与えていた。しかしマルクスは二人の哲学一般には三つの対照的な違いがあると指摘する。それは、
の三つである。
まず第一に「自然学の真理性と確実性について」。これは「感覚に現れる世界と、原子の世界の関係」に関する考え方の違いである。もっと簡単にいえばこれは「私たちが実際に暮らしている現実世界と、理論の世界は一体どういう関係にあるのか?」という問いかけである。つまり「感覚に現れる世界」=「現実世界」、「原子の世界」=「理論の世界」というわけだ。
まずデモクリトスは感覚と原子の世界の違いについてこう述べる。
感覚に現れたるものは客観的な現れではなく、主観的な仮象なのである。真の原理は、原子と空虚である。その他のすべては単なる見解であり、仮象である。
分かりやすくいうと、デモクリトスは「理論の世界こそが客観的であり、実際の世界は全て主観的なものである」と主張したのだ。私たちが周りの世界を観察してもそれは全て私たちの目と脳を通した上であり、そこから考察されうるものはすべて主観にすぎない。よって真理は理論の中にこそ存在するというのがデモクリトスの立場である。
一方でエピクロスはこれとは反対に、「すべての感覚は真理を伝える」といって実際の世界こそが客観的であると言うのである。
具体的な例をみてみよう。例えば太陽を観察するとする。このときデモクリトスは太陽は巨大であるという。私たちの目には太陽はそれほど大きくは見えないが、それは太陽が遠く遠くにあるからであり、理論的にはとても巨大なものなのだ。一方でエピクロスは自分の目を信じ、「太陽の大きさは拳2つ分である」といってのける。太陽の大きさは彼の目に映るものがすべてとエピクロスは考えるからだ。
①デモクリトスは「原子(理論)の世界が真実」、エピクロスは「感覚(実際)の世界が真実」と主張
2つ目の「自然学の使い道について」も二人は対照的な立場をとる。これは二人の学問に対する姿勢の差から、二人の自然学の使用法の差異を導き出すことができる。
デモクリトスは、感覚の世界を主観的なものだとしたが、しかしだからこそ感覚こそが世界を理論から唯一分離することが可能な存在であるとして、経験主義、観察主義、実証主義を掲げることとなった。デモクリトスはそのポリシーを実際に行動にうつし、自然学、倫理学、数学を初めとして様々な学問分野に精通する一方、ギリシャからエジプトやエチオピアなど広く度をして実際に自分の目で自然を見て知識を吸収した。
さて一方のエピクロスはどうだろうか。エピクロスは「哲学することで幸福になれる」として、デモクリトスが好き好んだ実証主義を軽蔑した。そのためエピクロスを「学問の敵」とか「まったくの無学」と批判する者たちもいる。だがエピクロスは独学者であることを誇りとし、反対に非独学者を二流の人だと言い返しまでした。
②デモクリトスは経験主義、実証主義で知識豊富。エピクロスは経験や知識を重視しない
3つ目の「思想と現実との関係そのものについて」。これは「この世は必然でできているのか、それとも偶然でできているのか」という論争に言い換えることができる。
デモクリトスは「必然性とは原子の渦巻きであり、この世は必然からできている」という決定論を主張した。
一方でエピクロスは「原子の動きは恣意的であり、偶然が世界を支配する」という非決定論を唱えた。
③デモクリトスは「世界は必然でできている」、エピクロスは「世界は偶然でできている」と主張
二部 エピクロスの自然学(フュジーク)とデモクリトスと自然学の個々の差異
二部では二人の原子に関する個別の観点の差異を説明している。1、2、3章では原子論。4章は時間論、エイドーラ(映像)論。5章では天体論を論じている。
第一章 原子は直線から逸れて動く
1章から3章は原子論の話。この原子とは現在の化学でいうところの原子ではなく、「世界の根源」という意味である。
①直接的に落下して動く運動
②直線から逸れて動く運動
①と③の運動に関してはデモクリトスも同じ事を言っているし、イメージもしやすいだろう。問題は②の逸れる動き(クリーナーメンという)である。さて原子というものはエピクロスがいうように、何のエネルギーもかかっていないのに自然に曲がるなんてことはありうるのだろうか?
エピクロスによれば、もし②原子がそれることがないのならば、すべての原子は①直線的にしか動かず、よって③お互いにぶつかって跳ね返るということも起こらなくなってしまう。ゆえに③原子の反跳が起きるためには②原子は逸れる動きをしていなければならないのだ。
さらにエピクロスは、もし①原子が直線落下運動しかしない場合、原子はいついかなる時も直線運動をするため、原子は線としてしか存在できない。これはつまり、原子が点として自立できないことを意味する。もし原子が自立できないのであれば、原子は空間や時間の支配下においてしか自己を確立することができない、相対的な存在(なにか基準がないと存在できないもの)となってしまう。よって原子が自立して存在するためには、②原子は直線から逸れる運動をしていなければならないのだ。
この②逸れは、何らかの原因があって起こるわけではなく、原子そのものが原因となって発生する。つまりこれは非決定論的な動きといえる。というのは、決定論とは、③ある原子は周りの原子の動き(環境)によってのみ動きを決定するという理論である。それが②一個の原子が自分自身を原因として逸れるということになれば、それは決定論とは矛盾するからだ。エピクロスは逸れは非決定論的に、偶然発生するという。
ところで②原子が逸れて動くことによって、原子にどのような影響があるのだろうか。エピクロスによればそれは、原子は特殊は存在者として、他の原子との関係が規定されるような運動との関係のすべてを否定するという結果である。それはすなわち、原子の完全なる独立の達成である。原子にとって唯一の存在は原子自身であり、原子は原子としか関係することはできない。②逸れる運動をすることによって、原子が世界の根源である原子であるためには、②逸れの運動が必要不可欠ということになる。
エピクロスは以上の理論を発展させ、この原子を人間に置き換えて人間の最初の自己意識を説明するという試みを行っている。独立した原子が、同じく独立した別の原子と③反跳することによって自らを客体化するように、人間が本当の人間となるためには、単に他の人間と関係するだけではなく、独立した一個の意思と関係(反跳)しなければならない。反跳、すなわち人間が他の独立した存在と関係することこそが、人間にとっての最初の自己意識なのだとエピクロスはいう。
一方でデモクリトスはエピクロスとは反対に、原子には必然的な運動しか認めなかった。デモクリトスは③原子の反跳に理念的(観念論的)な動きがあることを否定し、質料的(唯物論的)な動きしかないと述べる。ここでいう反跳の理念的な動きとは、原子が独立し自己精神を持つという意味である。
第二章 原子の性質(クヴァリテート)
この章では原子の性質に対する二人の考え方の差異を扱う。エピクロスは原子の性質に「大きさ」「形」「重さ」の3種類をあげている。
しかし原子に性質があるというのはおかしな話である。原子が「大きさ」や「重さ」などの性質を持つというのは、軽い原子や大きい原子など、原子に変化があるということを意味する。しかし万物の根源である原子は本来変化しないはずだ。しかしそれでも原子は性質を持つ。1章で原子は反跳すると述べたが、それは原子がそれぞれ異なるからこそ反跳が起きるのである。つまり原子は異なる性質を持ち、それに基づく個別性をもっているのだ。
原子は本質的に性質を持たないが、原子は性質を持つという矛盾。エピクロスはこの矛盾を解決するために「本質的原子」と「実在的原子」の二種類の原子を想定した。つまり概念的な本質的原子と、その本質から外化して自立した実在的原子を区別したのである。理論の世界にある前者は本質的に性質を持たないが、実体をもった後者は性質を持つことができるというわけだ。
これに対してデモクリトスは原子の性質については何も考察していない。デモクリトスが興味をもっていたのは自然であり、原子の性質が自然とどういう関係をもっていたかだけであって、エピクロスのように本質的原子と実在的原子の矛盾については何も記述を残さなかった。
さて、話をエピクロスにもどす。先述したように、エピクロスは原子には大きさ(グリューセ)、形(ゲシュタルト)、重さ(シュヴェーレ)の3種類の性質があるとした。これらの性質は実際に存在しながらも、原子とは本質的に矛盾する概念である。以下、それぞれを考察していこう。
第一に(実在的)原子は大きさをもつ。一方で(本質的)原子は大きさを持たない。デモクリトスがほとんど無視した矛盾をエピクロスは重視した。これは、原子にはいくつかの大きさの変化があるだけであり、また原子は無限に小さいと解釈することができる。とはいっても原子はただ小さいわけではない。どれだけ小さかかろうが、単純に小さいだけでは「大きさ」を持ってしまうからだ。1ミリメートルだろうが1ピコメートルだろうが、大きさは大きさである。よって原子はあくまで、無限に小さいというだけだ[2]。
第二に原子は形をもつ。しかし、(実在的)原子とは抽象的な個別性であり、抽象的に自己に等しい。つまり、(実在的)原子とは抽象的にバラバラの個性を持ち互いに区別されながらも、すべて(本質的)原子と同じものであるのだ。よって(本質的)原子は形を持たず、形の違いも決めることはできない。しかしだからといって抽象的個別性である(実在的)原子に無限に多様な形があるわけではない。原子の形は有限だ。
一方でデモクリトスは原子の形は無限に多様であると考えた。しかし原子の形が無限に多様であるとすれば、それは同時に原子が無限に多様な大きさを持つことを意味する。無限に多様な形と大きさをもった原子は、他のものとの区別することができなくなってしまう。それはもはや形とは呼べないものだ。
第三に原子は重さをもつ。これは特に重要な性質である。(実在的)原子はは抽象的な個別性であるが、実在する物質においてこの抽象的な個別性はその重さにこそあるからである。そのため原子が実体を持つのなら、重さを持たなくてはいけないのだ。しかし重さとは原子の本質とは真っ向から矛盾するものである。それは、重さは理念的な点として、質料の個別性であり、これは質料の外部にあるからである。原子はこの個別性そのものであり、個別的な存在として考えられた重心である。だからエピクロスにとっては重さは、重さの差異としてしか存在しない。そして原子は天体と同じように実体的な重心なのである。
さらに、原子が重さを持つのは本質から外化され、諸々の性質を持つようになった時である。ゆえに2つの原子を見比べるときに原子は重さをもつが、原子と空虚を比べるときは原子から重さはなくなるのである。こうして原子は大きさと形に関わらず、空虚の中では等しい速度で運動する。また原子が重さを持つのは原子が反跳によって結びついた原子化合物のみである。
以上のように原子の性質を検討してみても1章で逸れ(クリーナーメン)を考察した場合と同じ結論がでてくる。エピクロスは原子の概念において、本質と実存の間に矛盾があることを示すことで、原子論という学問を作り出した。かたやデモクリトスは原子の性質そのものを提示することはない。デモクリトスがこだわるのは原子の質料的な側面である。そして彼は経験的なものを説明するために、仮説的に原子に性質があるといっているだけなのだ。
第三章 分割できない原理(アトモイ・アルカイ)と分割できない要素(アトマ・ストイケイア)
デモクリトスにとって原子は単に物質の質料的な基体でしかなかったが、エピクロスは原理(アルケー)としての(本質的)原子と、要素(ストイケイオン)としての(実在的)原子の区別を行った。
原理とは知性によって認識される原子であって、空間に存在することはない。これが原子(アトム)と呼ばれるのは、それが最小の物質だからではなく、空間の中でそれ以上分割できないからである。これは性質をもたないが、その(本質的)原子からうまれた(実在的)原子は、第二の<要素>とみなすことができる。エピクロスはまず一般的な形で空虚(ケノン)と、これと異なる物質的なものを区別し、次に物体的なもののうち特殊なもの、すなわち(実在的)原子としての要素について考察する。一方でデモクリトスは「充実体(プレーレス)と空虚(ケノン)の両方が要素である」と語っている。
分割できない要素(実在的原子)と分割できない原理(本質的原子)の2つの分子は2種類の分子が別個に存在するわけではない。あくまで同一の分子が異なる形で規定されているだけである。デモクリトスが軽く扱ったこの2つを区別することには重要な意味がある。
原子には、存在と本質の間に矛盾がある。そして原子が性質を持つことによっても個々の原子に矛盾が生まれる。原子が性質を持つことによって矛盾とともに機構としては完全になり、反跳によって原子は集積し、現象する世界を生み出した。そして原子に含まれていた矛盾は本質の世界から現象の世界に移動するときにもっともはっきりと姿を見せる。概念としての原子は自然の絶対的で本質的な形式である。しかしこの分子が世界の絶対的な質料となり、その身を落とす。
確かに原子はすべてのものを生み出し、またすべてのものはいつか原子に還る。世界は常に新しい現象として形成され、原子そのものは沈殿物のように海底に沈み続ける。ゆえに原子を理念的な概念として考えた場合、現実において原子は世界の質料へとなり、外的な形式でしか存在しないものになるのは必然だ。それは原子は抽象的な個別物として完成しており、多様性を理念化することはできないからである。
この抽象的な個別物(原子)は、実存からの自由であるが、実存における自由ではない。原子としての原子は空虚のうちにしか存在せず、ひとたび実在化してしまえば、世界の質料として沈みこむことしかできないのである。
しかしまさにここにエピクロスとデモクリトスの哲学的な違いがある。デモクリトスはこの矛盾の一つの契機を対象化したにすぎない。しかしエピクロスはこの矛盾をその極地において対象化し、現象の基礎となる要素としての原子と、空虚のうちに存在する原理としての原子を区別したのである。
エピクロスがデモクリトスと違うところは、原子と空虚の領域である本質の世界においても、同じ区別をしめしていることにある。性質をもつ原子だけが完全な原子であり、現象する世界はこの完全な原子、原子そのものの概念にそぐわなくなった原子からしか生まれないのである。エピクロスはこう述べている。性質をもつ原子だけが要素になる、あるいは逆に分割できない要素だけが性質を持つ、と。
第四章 時間
たしかに原子は変化しないものであるが、それは時間の概念がないときの話である。よって(本質的)原子の世界からは時間概念は排除されなければならない。デモクリトスもエピクロスもこの点では一致する。両者が異なるのは、排除された時間がどのように規定され、またどこに移されるかというところである。
デモクリトスにとって時間は意味も必然性もないものであった。彼は原子から生成と消滅という時間的なものを排除するために時間を廃棄する。抽象的な想像する知性(原子)が、実在化し、時間に支配されるようになることは、実在が自立的なあることと矛盾する。こうして時間は本質の世界から排除されて、哲学する主観の自己意識の中に移される。そして時間は世界そのものとは関わらなくなるのだ。
エピクロスも本質の世界から時間を排除する。だが、彼にとって時間は現象の絶対的な形式となる。エピクロスは時間を<偶有性の偶有性(アクシデンスのアクシデンス)>として定義している。偶有性とは、実体そのものの変化であるが、偶有性の偶有性とは、変化が自己のうちに反省していることであり、変遷としての変遷である。この現象する世界の純粋な形式が、時間と呼ばれているのである。
実在する現象世界には、受動的な形式と能動的な形式がある。受動的な形式とは<合成>であり、能動的な形式とは<時間>である。だから合成を存在するものとしての側面から考察すると、原子は合成の背後に、空虚のうちに、想像のうちだけ存在する。ところが原子をその概念の側面から考察すると、合成はまったく存在しないか、主観的な表象のうちにだけ存在する。合成とは、自らにおいて閉じていて、たがいに無関心で自立的な原子が、たがいに他の原子と関連付けられていないという関係だからである。
これに対して時間が、有限なものの変化である。変化を変化として考えると、時間が現実的な形式となる。この現実的な形式は、現象と本質を分離し、現象を現象として措定しながら、現象を本質へと還元する。<合成>は、原子から生まれる自然と原子そのものの質料性だけを表現する。一方で<時間>は現象の世界において、本質の世界における原子の概念と同じ役割を果たす。すなわち時間はすべての規定された存在者を、他の存在者との関係のうちに抽出し、滅却し、還元するのである。
[1]必然か偶然か。この論争は現代でも続いており、例えばアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言って「全ての条件が同じならば同じ結果が起きる」という決定論を主張した。しかし最近の量子力学では量子の世界では、全ての条件が同じであっても確率的に別の結果がでることもあるという驚くべき結論がだされている。その結果シュレーディンガーの猫やらエヴェレットの多世界解釈みたいな平行世界やらうんぬんかんぬん……詳しくは割愛。
[2]無限に小さい。これは数学の極限の概念に似ている。
関連項目
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