ロシア・アヴァンギャルドとは、20世紀初頭の芸術潮流である。
概要
19世紀末にナロードニキ運動の頓挫から、中産階級のエリートたちは革命を夢想するか、デカダンスにふけるかの2択に走っていくロシア。それは1910年代初頭までは、西欧から影響を受けた象徴主義の流行という形で表れていったが、やがて革命的な趨勢の中で花開いていったのが、未来派などによるロシア・アヴァンギャルドである。
とはいえ、1930年代のスターリンによる大粛清は、フセヴォロド・メイエルホリドといったレーニン体制での指導者たちをも犠牲にしていき、やがて社会主義リアリズムへとソ連の芸術運動は変わっていった。結果として、ロシア・アヴァンギャルドはソ連の中ではカウンターカルチャーの様相を呈し、ペレストロイカ頃になってようやくまともに研究がされだした分野である。
歴史
ハルジエフやサラビヤノフによると、ロシア・アヴァンギャルドは1907年を出発点としている。そもそもアヴァンギャルドなる単語は、1885年にフランスでテオドール・デュレによって生み出されたものの、実際に革新を志していた芸術家は自称したりしない、他称の術語であった。
それがロシアで一気に花開いたのは、イタリアの未来派、中欧のダダイスム、西欧のシュルレアリスムなどと同様、ヒューマニズムが終焉を迎え、第一次世界大戦を境に一切合切が断絶を迎えるというのがまず汎ヨーロッパ的な現象としてあった前提がある。加えて、ロシアは、革命によって西欧と切り離され、独自の歩みをたどったというのが、ロシア・アヴァンギャルドの出発点となった。
では、その前のロシアではどのような人々が文化を担っていたか。それは、ディミトリ―・メレシコフスキー、ジナイダ・ギッピウス、ヴァチェスラフ・イヴァノフ、コンスタンチン・バリモント、アンドレイ・ブローク、アンドレイ・ベールイといった、「銀の時代」の象徴主義者たちである。彼らは、いわばデカルト―ニュートン的な世界観の動揺から、ニーチェといった思想家に接近していき、確固とした世界が存在する、という世界観から離反しつつあった。
その中で、極めて象徴的なのが、この時期の物理学の進展である。20世紀の最初の10年が終わるころには、象徴主義者が志向していたような不安定な世界認識が、科学技術の進展に伴いさらに推し進められた。こうして、キュビスムといった認識の転換が西欧でも美術分野で起きたが、ロシアでも、シュプレマティズムといった抽象芸術が花開いていったわけである。
こうした、アヴァンギャルド的な物の見方がまず花開いたのが、美術である。そもそも、フランスのポール・セザンヌの打ち立てた、非論理的な現象への志向と、科学的な志向の二つの潮流が、現代芸術にみられる。ロシア・アヴァンギャルドにおいては、両志向が交差する、とされるのである。
1910年、まずロシア画家同盟が分裂する。ニコライ・クリビン、アレクサンドル・ベヌアといったロシア・アヴァンギャルドの最初の世代の活動が物議を醸しだした結果、ペテルブルクでは「印象派」展が、モスクワでは「ダイヤのジャック」展が開かれる。そして、カジミール・マレーヴィチ、ワシリー・カンディンスキー、パーヴェル・フィローノフといった、言ってみれば理論的支柱を持ったわけのわからない絵画が多数描かれていったのである。
一方、1920年代においては、こうしたフォルム形式の志向は、ニコライ・ラドフスキー、アレクサンドル・ヴェスニンらヴェスニン兄弟、イワン・ジョルトフスキー、イリヤ・ゴロソフといった建築分野にも波及した。彼らは、ぶっちゃけそれぞれの流派に基づいた建築を志向していたが、明らかに美術分野と連動した、新しい存在だったのである。
加えて、文学でも新しい試みが見られる。それこそ、アレクセイ・クルチョーヌィフやヴェリミール・フレーブニコフらが志向していた未来派の超意味言語「ザーウミ」や、エル・リシツキーに代表されるタイポグラフィといった新しい詩作である。彼らとは相対したものの、ウラジーミル・マヤコフスキーもこの流れに位置付けられる。一方で文学においては、象徴主義、未来派、オシップ・マンデリシュタームやアンナ・アフマートヴァといったアクメイズムの詩人たちが、並走していた、というのがこの時代の現象であった。
また、音楽はニコライ・クリビン、ニコライ・ロスラヴェッツ、アルトゥール・ルリエー、ミハイル・マチューシン、イワン・ヴィシネグラツキー、ニコライ・オブホフといった、存在が現れる。彼らはアレクサンドル・スクリャービンがまだ伝統的であると思われるほどの実験志向の存在であり、セルゲイ・プロコフィエフやイーゴリ・ストラヴィンスキーの反ロマン主義と軌を一にするかのように、様々な音楽を作っていった。アレクサンドル・モソロフやウラディーミル・デシェヴォフといった作曲家の、工場を題材にした楽曲はその最たる例であり、ドミートリイ・ショスタコーヴィチも本来は、この流れにあった。
アレクサンドル・カスタリスキーの自動車の警笛を使った楽曲、アルセニー・アヴラーモフのサイレンをひたすら使った交響曲等が、このロシア・アヴァンギャルドの音楽の極致ともいえる。
演劇においては、フセヴォロド・メイエルホリドの実験にすべてが始まる。ただし、この潮流は、1907年のアレクサンドル・ブロークの『見世物小屋』という、象徴主義の文脈がすべての起源となった。三次元空間における、フォルム形式の探求ともいうべき志向は、アレクサンドル・タイロフ、イーゴリ・テレンチエフ、ニコライ・エヴレイノフ、イェヴゲニー・ヴァフタンゴフといった人々に結実する
そして、ロシア・アヴァンギャルドの極致ともいうべきなのが、デザインと映画である。アレクサンドル・ロトチェンコ、セルゲイ・エイゼンシュタインという代表的な存在に彩られたこの分野は、ロシア・アヴァンギャルドのわかりやすい例として、極めて有名なものとなっている。
そして、こうして打ち立てられた芸術感は、ロシア革命後のボリシェヴィキ体制もあって、教育として整えられた。これこそが、ウノヴィス、ヴフテマス=ヴフテイン、インフク、ギンフク、といった各種団体である。
加えて、これらの背景にある、影響の伝播も見逃すことはできない。1922年に西欧にも発見されたロシア・アヴァンギャルドは、やがて、ミハイル・バフチンといったロシア・フォルマリズムの記号学者たちの再評価と軌を一にするかのように、西欧でも20世紀後半から取りざたされていったのである。
ところが、冒頭で説明した通り、スターリン体制への移行ですべてがおじゃんになる。かくして、象徴主義とロシア・アヴァンギャルドの両者は、社会主義リアリズムの時代においては、過去の不純物として扱われ続けたのであった。
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