司馬望とは、三国時代に登場する人物である。西暦205年生まれ、271年没。
『晋書』に伝がある。
曹髦の文学仲間
字は子初。司馬懿の弟司馬孚の次男。司馬師と司馬昭の従兄弟だが二人より年上に当たる。
父に似て寛厚な人柄だったという。伯父の司馬朗の子司馬遺が死ぬと、司馬朗の家を継いだ。
魏の皇帝曹髦は裴秀、王沈、鍾会らの文士と交わり文学議論をすることを好んだが司馬望もその一人だった。しかし曹髦はせっかちで、会いたいとなるとすぐに当人を呼び寄せたが司馬望は軍職に就いていたためすぐには宮中に参内できない。そのため曹髦は司馬望に特別に快速馬車と近衛兵を手配した。という話がある。
当時は司馬師と司馬昭の兄弟が魏の権力を牛耳り、後の晋王朝への準備を進めていた。司馬望は曹髦と親しかったため常に心休まらなかったため、地方に出ることを願い出て、征西将軍、持節、都督雍涼二州諸軍事の官職を得て蜀漢に対峙することとなった。
263年(景元4年)に魏が蜀漢を滅ぼすまでの8年間、司馬望は蜀漢の姜維の攻撃を防ぎ、大将として威令を行き届かせた。鄧艾の活躍も大きかったが、司馬望もまた関西の防壁となったのである。
晋建国後
蜀漢が滅亡すると司馬望は中央に召還され衛将軍、驃騎将軍、司徒を歴任、魏が晋に禅譲すると義陽王となった(今の河南省南陽市新野県)。
268年(泰始4年)、呉の施績(朱績)が江夏に攻めると龍陂に駐屯し仮、大都督諸軍事となる。荊州刺史胡烈が施績を破ったので再び中央に戻り大司馬となった。
271年(泰始7年)、呉帝孫皓が軍を率いて寿春を向かったとの報を受けると司馬望は兵を率いてこれに備えたが、孫皓が撤退したため中央に戻った。
同年、父司馬孚より1年先立って67歳で没。義陽成王と諡された。
父も倹約家だったが司馬望も吝嗇蓄財と言われるほどの倹約に励んだ結果、その死後財宝が溢れるほど貯まっていたため人々の謗りを受けることになった。
家族
- 司馬孚 - 父。司馬の八達の三男
- 司馬朗 - 伯父。司馬の八達の長男。司馬朗の子司馬遺の死後、司馬望は司馬朗の家を継いだ
- 司馬懿 - 伯父。司馬の八達の次男
- 司馬奕 - 長男。父に先立ち264年に没
- 司馬洪 - 次男。河間平王。司馬朗の子司馬遺の家を継いだ
- 司馬整 - 三男。随穆王。父に先立ち266年に没
- 司馬楙 - 四男。竟陵殤王。八王の乱で政権が代わる度に実力者に諂ったり逆らったりして混乱を助長した。最期は永嘉の乱に巻き込まれ戦死
司馬望の子孫は西晋の動乱に巻き込まれ、非業の死を遂げる者も少なくなかったが次男司馬洪の家系が章武王家として司馬洪の孫司馬珍が没する362年まで命脈を保った。
三国志演義の司馬望
第112回、姜維の北伐を阻むべく登場する魏将。しかし初戦で傅僉に配下の王真を生け捕られ李鵬を討ち取られ、長城に籠もり絶体絶命のピンチを鄧艾と鄧忠の親子に救われる。
第113回では、姜維が敷いた八卦の陣を鄧艾が破れなかったところを救い出して恩を返す(昔、荊州に遊学した時に諸葛孔明の友人の石広元や崔州平に教えてもらったんだそうな)。しかし翌日司馬望が八卦の陣を敷いて、その隙に鄧艾の別働隊が姜維を攻めるという策は見破られた。
第115回では空城の計を用い、蜀将となっていた夏侯覇を討ち取る大功をあげる。
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