司馬孚、字は叔達は、後漢、三国魏、西晋までの三つの王朝に仕えた人物。司馬懿の弟。晋王朝を興した司馬一族の重鎮ながらも、魏に対する忠誠が強く、魏の乗っ取りを図る一族からは距離を置いた「もう一人の司馬懿」である。生没年180年~272年。
曹魏に仕える
河内郡温県の出身。後漢の尚書司馬防の三男。次兄の司馬懿の1才下の弟となる。後漢末の動乱で、長兄の司馬朗が董卓を避けて難儀をし、一族が過酷な生活を強いられた時には、書物を読んで耐え忍んだという。博識で文才のある人物となった司馬孚は、最初に曹植の文学掾となる。天才肌で品行が定まらない曹植を司馬孚は諌め、曹植は煙たがるが、後には改心して感謝している。
次に太子中庶子として曹丕に侍従する。220年に曹操が亡くなった時、曹丕は動揺したが、司馬孚は早く天下に号令するようにと励ましたので、曹丕も気を取り直した。司馬孚は和洽と共に群臣を落ち着かせ、曹操の葬儀と、曹丕の即位の段取りを整えた。また新王朝の人事の刷新を行っている。
孫権は魏への臣従の証として長男の孫登と、捕虜の于禁を魏に送る約束をしていたが、なかなか到着しなかった。しびれを切らした曹丕は司馬孚に諮問したところ、「何か事情があるのでしょう。追い詰めるような事はせずに、こちらが主なので気を長くして待つべきです」となだめた。結局孫権は病気だった于禁が回復するのを待っていたのだが、孫登は送らなかったので、曹丕はこれを違約と責めて、呉へ攻め込むものの敗北してしまう。
兄を支える
後に司馬孚は廷臣から地方に転出し、典農官として灌漑工事を行ったり、太守として郡の行政を担当した。魏では度支尚書という軍の財政を司る大臣が設けられており。皇帝曹叡は司馬孚を登用しようとして、左右の者に「兄と比べてどうか」と尋ねたところ「似ています」という返答を得た。曹叡は喜び、司馬孚を度支尚書に任命した。
当時の魏では諸葛亮の北伐が行われていた。司馬孚は蜀軍が攻めてきた時、地方軍だけでは対抗できず、中央軍が来るまで待つには時間がかかるという問題に着手し、前線での兵力と物資が不足しないように手筈を整えた。ある時、司馬孚は諸葛亮と対峙する兄に、戦況を尋ねる手紙を送ったところ、司馬懿は「諸葛亮は我が術中にある、必ず打ち破れる」と返答している。後に司馬孚は尚書令となる。
曹爽の専横が始まった時には、司馬孚も司馬懿に倣い、自ら謹慎して災いを避け、249年、高平陵の変の際には、甥の司馬師と共に兵を率い、洛陽の司馬門(皇帝専用の通路)抑えた。侍中、司空を経て太尉となり、司馬孚は魏軍を統督する事となる。
251年、司馬懿が死去すると司馬師が後を継ぎ、司馬孚は一族の最長老となる。
呉蜀を防ぐ
253年、呉の諸葛恪が合肥新城を包囲すると、司馬孚は20万もの大軍を率いて救援に赴いた、諸将たちが攻勢を主張すると、司馬孚は「攻撃とは人の力を利用して、巧みに欺いて行うべきだ。力押しだけではいけない」と言って、一ヶ月余り待機してから軍を進めると、長期の包囲戦と疫病で困憊していた呉軍は限界に達し、戦わずに退却した。
255年の狄道の戦いでは、蜀の姜維の侵攻を防ぐ為、関中にまで赴いて諸軍を統括する。陳泰と鄧艾の働きもあり、蜀軍は退いた。後に帰還して太傅となる。
魏滅ぶ
260年に甘露の変が起きる。司馬師を後を継いだ司馬昭と、皇帝曹髦との対立が決定的となり、曹髦は賈充によって弑逆されてしまう。他の百官が驚き、日和る中で司馬孚と陳泰のみは駆けつけ、曹髦を抱えて号泣した。司馬孚は「陛下を殺したのは臣(私)の罪です」と言い、陳泰は賈充の処刑を主張したという。
司馬昭としては曹髦を皇帝として扱う事は世間体によろしくないので、郭太后に圧力をかけて庶人の礼として葬ろうとしたが、司馬孚は根回しをし、郭太后を動かして、王の礼として葬る許可を取り付けている。
265年、晋王となっていた司馬昭が死去。後を継いだ息子の司馬炎は、皇帝曹奐から禅譲を受けて新皇帝に即位する。皇位を追われた曹奐が移送される時には司馬孚は曹奐の手を取り、「臣は死ぬまで大魏の純臣です」と言って涙を流した。266年に晋王朝が開始された。
晋の王となる
皇帝司馬炎は大叔父に格別の敬愛を示した。「太傅(司馬孚)を朕は尊敬している。臣下の礼などとる必要はない」と言い、司馬孚を安平王に封じて四万戸を領有させ、太宰・持節・都督中外諸軍事に任じた。また、事あるごとに莫大な贈り物をして機嫌をうかがった。司馬孚が正月に挨拶に来ると自ら立って出迎え、手ずから酒盃を捧げた。司馬炎の振る舞いが家臣にするものではなく、親戚の年長者にするような親密さであったので、司馬孚は恐縮し、跪いてやめさせたという。さらに皇帝専用の車が下賜された。新王朝で位人臣を極め、豊かな老後を送っているように見える司馬孚であったが、これを喜ばず、常に憂いていた。
272年に93才という高齢で亡くなる。「魏の貞士司馬孚は帝を補佐する事もできず、節を守る事も出来なかった。身を立てて道を行った、それだけである。葬儀は簡素なものとせよ」と遺言する。遺族は故人の意思を尊重しようとするが、司馬炎は「王には100才まで生きて朕を導いて欲しかったのだが」と、大いに嘆き、盛大に葬儀を取り仕切った。格式を後漢の東平王劉蒼(明帝の弟で賢人として知られる)の故事に倣わせた。
諡は献とされ、晋書には宗室の筆頭、安平献王としての列伝がおさめられている。
人物
司馬孚は温厚廉譲で、心広く「人を恨んだ事がない」とまでいわれる紳士であった。司馬懿が表に立つ時には、地位を下げて兄を支えた。一方で甥の司馬師や司馬昭の陰謀には関わろうとはせず、司馬師らの方でも叔父をはばかり、敬して遠ざけていた。身内相手とはいえ、司馬孚の態度は勇気のいる事であり、晋書では「突風によって強い草が分かる」という言葉で司馬孚を評している。
曹叡は「朕は二人の司馬懿を得た。何の憂いがあろうか」と言って、司馬懿同様に信任している。歴代の王朝で度支尚書、尚書令、侍中、司空、太尉、太傅、太宰といった大臣・宰相級の要職を歴任した。
悪名が勝る司馬一族の中では後世の評判は悪くないものの、本人も自覚しているように、結局は簒奪を止める事も出来ず、晋で厚遇されて身を全うした事を批判されてもいる。
子孫
司馬孚には9人の息子と1人の娘がいた。そのうち次男の司馬望は、後嗣のいない司馬朗の養子となっている。宗家の安平王は早世が続き276年に絶えている。司馬孚の系統は三世で10人もの王を輩出し、特に有力な藩屏となったものの、六男の司馬瓌の息子司馬顒が八王の乱に加担している。
北宋の政治家である司馬光は司馬孚の子孫を称している。司馬光は中国史屈指の歴史家でもあるので、信ぴょう性は高そうであるが、歴史に詳しいだけに、司馬姓で比較的まともそうな人物をチョイスしただけかもしれない。
三国志演義
魏の忠臣としての逸話が反映されており、演義では安平王への話を蹴っている。孔明死後が端折られている吉川三国志では、曹操の死で群臣を叱咤する場面でしか出番が無く、司馬懿の弟である事にも触られていない。
三國志(コーエー)
コーエーの三國志シリーズにおける司馬孚の能力一覧。赤字は80以上の能力。優秀な文官で統率も高いのである程度戦える。マスクデータでは寿命と義理が高く、野望が低いのが特徴。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志Ⅰ | 未登場 | ||||||||
三國志II | 未登場 | ||||||||
三國志III | 未登場 | ||||||||
三國志Ⅳ | 64 | 35 | 70 | 82 | 80 | - | - | - | - |
三國志V | - | 69 | 84 | 75 | 85 | - | - | - | - |
三國志VI | 55 | 31 | 73 | 82 | 78 | - | - | - | - |
三國志VII | - | 81 | 70 | 63 | 85 | - | - | - | - |
三國志VIII | - | 62 | 75 | 79 | 84 | - | - | - | - |
三國志IX | 67 | 49 | 78 | 87 | - | - | - | - | - |
三國志X | 72 | 35 | 77 | 79 | 87 | - | - | - | - |
三國志11 | 70 | 37 | 76 | 79 | 85 | - | - | - | - |
三國志12 | 70 | 37 | 77 | 79 | - | - | - | - | - |
三國志13 | 70 | 37 | 77 | 79 | - | - | - | - | - |
三國志14 | 71 | 37 | 76 | 79 | 84 | - | - | - | - |
関連項目
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