司馬顒(?~306年12月)とは三国志の後に起きた晋王朝の内乱である八王の乱の王の一人である。字は文載。
概要
若年期
西晋の時代に太原王司馬瓌の子として生まれる。祖父は賢人として知られた司馬孚(司馬懿の弟)であったが、瓌は孚の六男であり、顒は嫡流からはかなりの遠縁であった。
しかし、顒は若い頃より宮中でも仕えていた士卒にも評判が良く、西晋の初代皇帝司馬炎(武帝)も顒と実際に会ってその振る舞いに感心し、「諸国の模範である」と絶賛した。はじめ、父の太原王を継いだが、のちに河間王に移される。
299年には平西将軍へと任命されて長安へと出鎮。西晋では要衝である関中の地は皇族に近しい者しか統治を認められたことがなかったが、ポンコツばかりで大反乱がおきたので顒の優秀さが評価され、特別に皇族の正統からはかなり遠い立場にも関わらず、関中統治を任される立場となる。
いつまた異民族が反乱するか分からない関中を任せられた顒は、この時点から必然的に大きな軍事力を行使できる立場となった。
三王起義
301年、皇位を簒奪して西晋二代皇帝司馬衷(恵帝)を退位に追い込んだ趙王司馬倫は強大な兵力を持つ顒を警戒し、監視要員を張り込ませてその動向を注視していた。
その後、斉王司馬冏が各地の王に「簒奪者倫討つべし」という檄文を配り、決起を呼び掛けた際に夏侯奭という将が義兵数千を率いて挙兵したが、顒はこれを反乱と見做して討ち取り、冏からの使者も捕縛して倫へと突き出し、部下の張方らに兵を預けて冏討伐に向かわせた。
…が、しかし成都王司馬穎なども参戦して「想像以上に冏に味方する兵が多そうだ」という情報が入って来るや、顒は一転して倫を見限って冏に協力する事を選び、接敵する寸前であった張方へと早馬を飛ばして計画を伝え、倫の軍勢と戦うよう伝えた。こうして強大な軍事力を持つ冏・穎・顒の三王が倫討伐に立ち上がった…という事になった。(三王起義)
この結果、倫は破れて自害に追い込まれて三王の軍勢が勝利。顒は戦後の論功で侍中・大尉などに登ったが、当初は明らかに倫サイドだったのに自陣営の不利を確認してから慌てて寝返ってきた顒のことを冏は全く信用しなかった。
冏討伐
冏が中央を掌握した後、顒は長安へと帰ったが、中央に家臣の李含を残していたが、冏の家臣たちと険悪な関係となり、長安へと逃げ帰ってきた。この際に李含はあいまいな理由で逃げてきたのではマズいと考えたかは定かではないが皇帝の密勅を偽造し、「皇帝より冏討伐の密命が下った」という大嘘をついた。
更に李含は「人気のある成都王司馬穎と組み、長沙王司馬乂を鉄砲玉に使いましょう。乂は確実に死ぬので、乂殺害の罪をもって冏を誅殺すれば良い」とも献策してきたので、顒はこの策に乗って穎と乂に連絡を取り、冏討伐の謀を実行に移す。
顒は手はず通り、穎はじめ冏を快く思わぬ王数名の支持を取り付けて数十万人を擁する冏討伐軍を結成し、洛陽にいた乂に冏襲撃をまずは促した。…が、なんと乂は洛陽にいた近習の兵百人程度でわずか3日で冏を討ち取るという想像以上の首尾の良さを発揮し、冏討伐軍は何もせず解散する運びとなってしまった。
乂討伐
思ぬ番狂わせにより、冏死後の朝廷は乂が皇帝に近侍するという体制になってしまったが、これは穎と顒にとって大いに不満な状況であった。顒の側近であった李含は乂の家臣とも険悪な仲(李含自身が皆に嫌われてるだけな気もするが…)となり、顒は李含らを刺客にして乂の暗殺を謀ったがあっさり露見し、李含以下数人は即座に処刑された。
顒はこれを口実として穎と結んで乂討伐軍を結成。「宮中を私物化する奸臣乂を除く」という大義名分を掲げたが、恵帝衷は乂に「逆臣顒を討て」と命じ、顒は正式な逆賊として扱われることとなってしまう。
しかし、今や西晋の中でも二強と言っていい顒と穎の連合軍は数で官軍を圧倒しており、絶対的に優勢であった。顒は家臣の張方に7万もの大軍を与えて洛陽攻めを命じた…しかし、乂の巧みな指揮の前に顒・穎連合軍は決定的な勝利をどうしても得ることが出来ず、逆に度々大敗を喫した。進退窮まった張方は首都洛陽が荒廃する事も構わず、堰を破壊して洛陽の水の手を切ったが、それでも洛陽は落とせなかった。
張方はもはや洛陽を落とせないのではないかと弱気になり、長安への撤退も検討するほどであったが、洛陽内にいた東海王司馬越はもはや抵抗は限界と見て、乂の身柄を抑えて連合軍に降伏。乂は一度は命を取られず、処分は幽閉に留まったが、張方の軍の士気の低さを見た官軍が降伏を後悔し始めたため、張方は急ぎ乂を生きたまま焼き殺した。
長安遷都
乂の死後、顒は入朝して上表し、穎を皇太弟に推してこれを認めさせ、顒は太宰・大都督を加えられたが、あくまで自身の拠点は長安から動かさず、中央には残らなかった。
しかし、朝政を掌握するや穎は悪政を敷き、これを受けて越は穎の専横に不満を持つ諸侯を集めて穎討伐軍を編成し、これに恵帝衷の出馬も取り付けて官軍として動いた。顒は穎を救援しようと張方率いる2万の軍勢を遣わせたが、到着するころには穎が官軍を既に破っており、越は領国である東海国へと逃げていた為、張方は目標を変えて洛陽を攻めてこれを落とした。
これで盤石かと思われたが、穎は次は都督幽州諸軍事王浚と越一派の連合軍に大敗してしまい、本拠の鄴を失陥。一転して越の反撃が始まったことで、張方は恵帝衷と穎を連れて長安へと撤退する事になった。
顒は恵帝衷も迎え、長安に宮殿を建てて、事実上の首都を長安としようと動いたが、一方で洛陽には顒の勝手を認めない幕僚たちが長安の政府をスルーして普通に政務を続けており、西晋の政府機能は真っ二つに割れてしまい、新たな混乱状態を生んだ。
越との対立
越の勢力は一気に洛陽を回復し、顒の勢力と華北を完全に二分していた。顒は恵帝の勅で越に帰藩を命令したが、無視されてしまった。
やむなく、顒は越との全面対立を避けようと越を長安に呼び和を結ぼうとしたが、越は顒の遷都を正当性のあるものとは認めず、両者は決裂する。対決が近いと見た顒は、穎の旧臣である公師藩が挙兵して数万の兵となったのを知ると、穎にはまだ利用価値があると判断し、鎮東大将軍などに任じて鄴へと戻した。
ほどなく顒の勢力は越と戦闘状態となる。当初は顒に従った劉喬が奮戦し、越に属する武将を河橋で破って西進を防いでいたが、王浚の幽州騎兵が前線に投入され始めると劉喬は敗退。以後は越の軍の勢いを全く止められなくなり、顒は劣勢に立たされていく。
こうなると顒は恐れおののき、越に和を乞おうとしたが、強硬派の張方が激しく反対したので、これを生かしていては越を和を結べぬと考え、張方を粛清してその首を越へと送って和を結ぼうとした。しかし、越に和睦する気など更々なく、越の軍団は張方の首を掲げて前進し、名の通った将である張方が既に死んでいる事を知った顒の軍団はそれを見ると次々と戦意を喪失していき、かえって崩壊は早まった。
顒は「主戦派の張方の首と引き換えに越の軍勢が退いてくれる」事を期待していたが、越の軍勢はむしろ完全に士気が上がってそのまま関中へと雪崩れ込み始め、あえなく本拠長安までも陥落し、顒は這う這うの体で山の中へと身を隠した。
死
その後、顒は長安の守備に残されていた守将を殺して長安へと帰ってきたが、もはや顒に従っても未来がないことは明らかであり、家臣のほとんどが越へと寝返り、長安の町にポツリと孤立するだけで他には何も持たない存在へとなり果てる。
しかし、越もこれ以上の混乱は望むところではなく、今なら圧倒的な優位を保って和を結べると判断して顒の罪を赦し、司徒に任命するので洛陽へと来るように要請する。顒はこれを受けて馬車に乗って洛陽へと向かったが、越の弟である南陽王司馬模は顒を生かそうとする兄の意図が理解できず、刺客を放って馬車を襲撃させ、顒は刺客に首を絞められ殺された。
八王の乱7人目の犠牲者であった。顒の死によって八王の乱の最終的な勝者は生き残った東海王越となり、八王の乱は終結したが、異民族王朝の猛威を西晋王朝に撥ね退ける力はなく、西晋は滅びへの道を突き進んでいく事となる。
人物
先述したように若い頃の評判は武帝炎が「諸国の模範」と評するなど非常に高く、財に固執せずに施しをよくしていて士卒にも愛されていた人物であったという。
しかし、八王の乱中は人の意見にすぐ流されたり、要所要所で弱気・軟弱な面が顔を出す日和見的な性格が見え始め、戦略的な判断も目先の利ばかりを追ってしまい、場当たり的で大局を見据えて動いていたとは思えない部分が露見してしまっている。
最大の落ち度を挙げるならば異民族による大乱が赴任前に起きたばかりであった関中を与えられていたにも関わらず、異民族の流民と刺史が戦闘状態になるなど、既に剣呑な空気であった益州の治安維持を放棄して中央で政争に明け暮れ、結果として成都の陥落を招き、李雄に大成(成漢)の建国を許した所にあるかもしれない。成都王なのに成都を放置していた穎は論外なのだが、顒もどうやら嫡流から遠い立場から慣例を崩してまで特別に要衝関中の守備を任された意味を全く理解できていなかったようである。
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関連項目
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