司馬顒単語

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シバギョウ
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司馬顒(?30612月)とは三国志の後に起きた晋王朝の内乱である八王の乱の王の一人である。字は文載。

概要

若年期

西の時代に太原王司馬の子として生まれる。祖は賢人として知られた司馬孚司馬懿)であったが、瓌はの六男であり、顒は嫡流からはかなりの遠縁であった。

しかし、顒は若い頃より宮中でも仕えていた士卒にも評判が良く、西の初代皇帝司馬炎武帝も顒と実際に会ってその振る舞いに感心し、「の模範である」と絶賛した。はじめ、の太原王を継いだが、のちに河間王に移される。

299年には西将軍へと任命されて長安へと出鎮。西では要衝である関中の地は皇族に近しい者しか統治を認められたことがなかったが、ポンコツばかりで大反乱がおきたので顒の優秀さが評価され、特別に皇族の正統からはかなり遠い立場にも関わらず、関中統治を任される立場となる。

いつまた異民族が反乱するか分からない関中を任せられた顒は、この時点から必然的に大きな軍事力を行使できる立場となった。

三王起義

301年、皇位を簒奪して西二代皇帝司馬衷(恵帝を退位に追い込んだ司馬倫は強大な兵力を持つ顒を警し、監視要員をり込ませてその動向を注視していた。

その後、斉王司馬冏が各地の王に「簒奪者つべ」という文を配り、決起を呼び掛けた際に侯奭という将が義兵数千を率いて挙兵したが、顒はこれを反乱と見做して討ち取り、からの使者も捕縛してへと突き出し、部下の方らに兵を預けて討伐に向かわせた。

…が、しかし成都司馬穎なども参戦して「想像以上にに味方する兵が多そうだ」という情報が入って来るや、顒は一転してを見限ってに協力する事を選び、接敵する寸前であった方へとを飛ばして計画を伝え、の軍勢と戦うよう伝えた。こうして強大な軍事力を持つ・顒の三王が討伐に立ち上がった…という事になった。(三王起義

この結果、は破れて自害に追い込まれて三王の軍勢が勝利。顒は戦後の論功で中・大尉などに登ったが、当初は明らかサイドだったのに自営の不利を確認してから慌てて寝返ってきた顒のことをは全く信用しなかった。

討伐

が中央を握した後、顒は長安へと帰ったが、中央に臣のを残していたが、臣たちと険悪な関係となり、長安へと逃げ帰ってきた。この際に含はあいまいな理由で逃げてきたのではマズいと考えたかは定かではないが皇帝の密勅を偽造し、皇帝より討伐の密命が下った」という大嘘をついた。

更に含は「人気のある成都司馬穎と組み、長沙王司馬乂鉄砲玉に使いましょう。は確実に死ぬので、の罪をもってを誅殺すれば良い」とも献策してきたので、顒はこの策に乗ってに連絡を取り、討伐の謀を実行に移す。

顒は手はず通り、はじめを快く思わぬ王数名の支持を取り付けて数十万人を擁する討伐軍を結成し、陽にいた襲撃をまずは促した。…が、なんと陽にいた近習の兵人程度でわずか3日でを討ち取るという想像以上の首尾の良さを発揮し、討伐軍は何もせず解散する運びとなってしまった。

討伐

思ぬ番狂わせにより、死後の朝廷皇帝近侍するという体制になってしまったが、これはと顒にとって大いに不満な状況であった。顒の側近であった含は臣とも険悪な仲(含自身が皆に嫌われてるだけな気もするが…)となり、顒は含らを刺客にしての暗殺を謀ったがあっさり露見し、含以下数人は即座に処刑された。

顒はこれを口実としてと結んで討伐軍を結成。「宮中を私物化する奸臣を除く」という大義名分を掲げたが、恵帝衷はに「逆臣顒を討て」と命じ、顒は正式な逆賊として扱われることとなってしまう。

しかし、今や西の中でも二強と言っていい顒と連合軍は数で官軍を圧倒しており、絶対的に優勢であった。顒は臣の方に7万もの大軍を与えて陽攻めを命じた…しかし、の巧みな揮の前に顒・連合軍は決定的な勝利をどうしても得ることが出来ず、逆に度々大敗を喫した。進退窮まった方は首都陽が荒する事も構わず、堰を破壊して陽のの手を切ったが、それでも陽は落とせなかった。

方はもはや陽を落とせないのではないかと弱気になり、長安への撤退も検討するほどであったが、陽内にいた東海司馬越はもはや抵抗限界と見て、の身柄を抑えて連合軍に降は一度は命を取られず、処分は閉に留まったが、方の軍の士気の低さを見た官軍が降を後悔し始めたため、方は急ぎを生きたまま焼き殺した。

長安遷都

の死後、顒は入して上表し、を皇太に推してこれを認めさせ、顒は太宰・大都督を加えられたが、あくまで自身の拠点は長安から動かさず、中央には残らなかった。

しかし、政を握するやは悪政を敷き、これを受けての専横に不満を持つ諸侯を集めて討伐軍を編成し、これに恵帝衷の出も取り付けて官軍として動いた。顒はを救援しようと方率いる2万の軍勢を遣わせたが、到着するころにはが官軍を既に破っており、は領である東海へと逃げていた為、方は標を変えて陽を攻めてこれを落とした。

これで盤石かと思われたが、は次は都督州諸軍事王浚連合軍に大敗してしまい、本拠の鄴を失陥。一転しての反撃が始まったことで、方は恵帝衷とを連れて長安へと撤退する事になった。

顒は恵帝衷も迎え、長安に宮殿を建てて、事実上の首都を長安としようと動いたが、一方で陽には顒の勝手を認めない幕僚たちが長安の政府スルーして普通に政務を続けており、西政府っ二つに割れてしまい、新たな混乱状態を生んだ。

との対立

の勢力は一気に陽を回復し、顒の勢力と華北全に二分していた。顒は恵帝の勅でに帰を命したが、無視されてしまった

やむなく、顒はとの全面対立を避けようとを長安に呼び和を結ぼうとしたが、は顒の遷都を正当性のあるものとは認めず、両者は決裂する。対決が近いと見た顒は、の旧臣であるが挙兵して数万の兵となったのを知ると、にはまだ利用価値があると判断し、鎮東大将軍などに任じて鄴へと戻した。

ほどなく顒の勢力は戦闘状態となる。当初は顒に従った喬が奮戦し、に属する武将を河で破って西進を防いでいたが、王浚の騎兵前線に投入され始めると喬は敗退。以後はの軍の勢いを全く止められなくなり、顒は劣勢に立たされていく。

こうなると顒は恐れおののき、に和を乞おうとしたが、強硬方がしく反対したので、これを生かしていてはを和を結べぬと考え、方を粛清してその首をへと送って和を結ぼうとした。しかし、に和する気など更々なく、軍団方の首を掲げて前進し、名の通った将である方が既に死んでいる事を知った顒の軍団はそれを見ると次々と戦意を喪失していき、かえって崩壊はまった。

顒は「方の首と引き換えにの軍勢が退いてくれる」事を期待していたが、の軍勢はむしろ全に士気が上がってそのまま関中へと崩れ込み始め、あえなく本拠長安までも陥落し、顒は這う這うの体で山の中へと身を隠した。

その後、顒は長安の守備に残されていた守将を殺して長安へと帰ってきたが、もはや顒に従っても未来がないことは明らかであり、臣のほとんどがへと寝返り、長安の町にポツリと孤立するだけで他には何も持たない存在へとなり果てる。

しかし、もこれ以上の混乱は望むところではなく、今なら圧倒的な優位を保って和を結べると判断して顒の罪を赦し、徒に任命するので陽へと来るように要請する。顒はこれを受けてに乗って陽へと向かったが、である南陽司馬は顒を生かそうとするの意図が理解できず、刺客を放ってを襲撃させ、顒は刺客に首を絞められ殺された。

八王の乱7人の犠牲者であった。顒の死によって八王の乱の最終的な勝者は生き残った東海王越となり、八王の乱は終結したが、異民族の猛威を西晋王朝に撥ね退ける力はなく、西は滅びへのを突き進んでいく事となる。

人物

先述したように若い頃の評判は武帝炎が「の模範」と評するなど非常に高く、財に固執せずに施しをよくしていて士卒にもされていた人物であったという。

しかし、八王の乱中は人の意見にすぐ流されたり、要所要所で弱気・軟弱な面が顔を出す日和見的な性格が見え始め、戦略的な判断も先の利ばかりを追ってしまい、場当たり的で大局を見据えて動いていたとは思えない部分が露見してしまっている。

最大の落ち度を挙げるならば異民族による大乱が赴任前に起きたばかりであった関中を与えられていたにも関わらず、異民族の流民と刺史が戦闘状態になるなど、既に空気であった益州の治安維持を放棄して中央で政争に明け暮れ、結果として成都の陥落を招き、大成(成の建を許した所にあるかもしれない。成都王なのに成都を放置していたは論外なのだが、顒もどうやら嫡流から遠い立場から慣例を崩してまで特別に要衝関中の守備を任された意味を全く理解できていなかったようである。

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1 ななしのよっしん
2021/07/11(日) 22:05:22 ID: PhOR0dyToP
番地味な八王
司馬穎名前がよく似てて混乱する
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2 ななしのよっしん
2021/07/12(月) 16:59:11 ID: 3XIqeTHUsL
なんというか…優柔不断で半端
董卓二番煎じみたいなムーブした自覚あるんだろうか
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3 ななしのよっしん
2022/01/06(木) 16:46:48 ID: SIZzwYopPf
司馬顒本人よりも、部下の方の雄っぷりが立つ。
司馬倫と孫秀と並ぶ、八王の乱の極悪コンビでは。
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4 ななしのよっしん
2022/04/24(日) 05:04:00 ID: zGS8Xk65Rn
成都王っていっても任地は別に成都じゃない穎に対して
成都王なのに成都を放置した穎は論外という最後の一文は違くね?
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