岩本徹三とは、日中戦争から太平洋戦争までの日本海軍戦闘機パイロットである。
自称202機撃墜(80機ともされるが)は日本海軍だけではなく太平洋戦争の相手国でもある米国陸海軍も含めてもトップ。
別名「最強の零戦パイロット」とも呼ばれた。
概要
1916年生まれ。日中戦争前に難関を突破して戦闘機パイロットとなった。
初実戦となった日中戦争において参加パイロットの中でも最多公認撃墜数14を数え、早々とエースパイロットの仲間入りを果たし、下士官でありながら金鵄勲章の名誉を受けるまでになる。
その後1940年春に空母航空隊へと転出。新造艦「瑞鶴」戦闘機隊へと配属される。
「瑞鶴」戦闘機隊において中堅搭乗員となった彼は真珠湾攻撃、インド洋作戦へと参加したあと、初の空母部隊同士の海戦となった珊瑚海海戦に参加。ここで巧みな編隊指揮でアメリカ海軍攻撃隊の数度にわたる攻撃をしのぎ切った。
その後、空母航空隊を離れ国内へ帰還。教官任務(余談だが当時の海軍航空隊搭乗員育成は前線からパイロットを定期的に国内へと戻し、少数によるグループ教育的な形で育成を行っていた。大規模育成を可能としたアメリカ陸・海軍航空隊とは大きくことなる)を経て、1943年11月、ラバウルの201航空隊に配属される。
当時のラバウルはアメリカの大空襲への迎撃が任務であり、数多の熟練パイロットが失われ、墓場と呼ばれるほどの激戦地だった。その中で岩本徹三飛曹長は個人の技量だけではなく編隊戦闘も巧みにこなすエースパイロットとして活躍する。
何しろアメリカ陸・海・海兵隊の航空機が一週間のべ1,000機という怒涛の物量で押し寄せる中、なんと20機~30機だけの極々少数の戦闘機隊を率いて戦い続け、「ラバウルの空は岩本でもつ」と称えられるまでの活躍ぶりは映像にも残っており、時に撃墜69対0という信じられない戦果を掲げている。
(航空機戦闘では撃墜確認が難しく、日米双方の戦闘記録を照らし合わせるとまったく数が合わないというケースがよくあるが、地上からの観測も含めてなのであまり差はないのかもしれない。ちなみにこの戦いを映像に収めたニュースも現存しており、確かに多数の航空機襲撃の中、ラバウル航空隊の迎撃により米軍攻撃機が墜落しているシーンなどがある。)
米軍ではあまりの被害数にラバウル周辺を「ドラゴンジョーズ」(竜の顎)と呼び、ラバウルにおける日本軍機はほぼ同数の1,000機いると信じていたようだが、実際は1/10以下の戦闘機で守り抜いており、その先頭には常に岩本飛曹長がいた。ラバウルのニュース映像が故郷で流れたことで、映っていた岩本とそれを見た夫人との結婚に至った。
岩本徹三飛曹長は優位なポジションからの一撃離脱戦法を得意としていた。岩本が語るところによると、敵の攻撃してきたときは退避し、上空に待機、敵が退避するときに攻撃に転じると敵の戦意がなく、一撃で落とせるというものである。戦友からは岩本はドッグファイトでも強かったという声がある。地上基地からのモールス信号を受信したり、また地上の信号だけではなく相手のプロペラが太陽に反射する光を見て侵入方向を判断する、短波無線機などに混信する電波などで遠近を測るなど空戦で様々な手法をとっている。
そのほかにも現代のクラスター爆弾と同じ親子爆弾である三号爆弾を編隊を組む爆撃機に対して空中投下するという戦法も確立。近接信管(目標に接近すると自動的に爆発する)とは違い、時限信管(投下後一定時間で爆発)であるにも関わらずほぼ必中レベルまでに技量を高めた。一度の攻撃で20機あまりの敵機を撃墜破するほどだったがあいにくと岩本およびその編隊のパイロットたちだけがその戦法を身に着けただけだったという。
連合軍がラバウルの攻略を断念、その後背のトラック島へと目標を定めると共に岩本飛曹長もトラックへ。だが飛行利可能機体が乏しくなったため、国内の補給に戻ったところで中間地点のサイパンを失い、トラック島へ戻れなくなり国内航空隊へと転出。1944年9月に252航空隊配属となり、前線へ出る。特攻の志願の募集があったとき、岩本は「戦闘機乗りは一機でも多く撃墜するのが任務だ。一度きりの体当たりで死んでたまるか。答えは否だ。」と上官に言い放った。
終戦後、GHQによる公職追放を受け失意のうちに健康を害し職を転々とした。最後は医者の誤診に伴う手術の予後に敗血症となり1955年、38歳という若さで亡くなる。病床にあっても「飛行機に乗りたい」と言葉を残したという。整備兵あがりという経歴からか几帳面にノートに自らの戦果などを書き残しており、死後20年あまりたって発見。彼の驚異的な戦果が世に知らされることとなった。
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