真珠湾攻撃とは、日本時間1941年12月8日(アメリカにとっては1941年12月7日)に起きた、日本海軍によるハワイ真珠湾への奇襲攻撃である。
概要
真珠湾攻撃は、日本海軍の南雲忠一中将率いる機動部隊(通称:南雲機動部隊)が、アメリカのハワイ真珠湾に停泊するアメリカ海軍太平洋艦隊および同地に存在した海軍基地に対して行った奇襲攻撃である。攻撃は空母から発艦した航空機ならびに潜航艇によって行われた。この攻撃によりアメリカ太平洋艦隊は戦力の中核である戦艦8隻中1隻が爆沈 、3隻が大破着底、1隻が強制座礁、残る3隻も損害を受けるなど大打撃を被り、戦いは日本軍の圧勝に終わった。
この戦いと、同時に行われた日本軍による英領マレー半島およびシンガポール攻略作戦(マレー作戦)により、大日本帝国とアメリカ・イギリス等の間に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発。さらに12月11日にはドイツ・イタリアがアメリカ合衆国に対して宣戦を布告し、それまで欧州だけの話であった第二次世界大戦の戦火が太平洋・アジア地域に拡大、文字通りの世界大戦となった。
背景
1907年以降、日本はアメリカを仮想敵国の一つと捉え、対米戦略の構築とそれを実現するための海軍戦力の充実を行っていた。その戦法は基本的に漸減要撃であり、日本へと向かってくるアメリカ艦隊に対して航空機や潜水艦で攻撃を仕掛けて出血と疲労を強要し(漸減)、ボロボロになりながらも日本近海まで来たところを戦艦を中核とした主力艦隊で迎え撃って叩く(要撃)というものであった。
が、1939年に日本海軍の連合艦隊司令長官となった山本五十六は別の考えを持っていた。「素早く強力な一撃を叩きこみ、戦況が有利なうちにさっさと講和する」という短期決戦・早期講和である。また、この戦略を実現させるのは戦艦ではなく航空機であるという考えも山本は持っていた。これらの考えを基本に、1941年初頭から真珠湾に対する航空攻撃の実現可能性についての検討が日本海軍内部で行われた。その結果完成した作戦計画に潜航艇による攻撃も加えられて、アメリカ太平洋艦隊を行動不能にさせて西太平洋の制海権を握ることを目的とした真珠湾攻撃へと繋がることとなる。
作戦の経過
日付と時間は全て日本時間とする。日本時間から1日引いて、4時30分を加えるとハワイ現地時間となる。
1941年11月26日 | : | 南雲機動部隊が単冠湾から出撃、ハワイへと進路をとる。 | |
1941年12月2日 | : | 大本営から南雲機動部隊に対して12月8日に攻撃を行うよう暗号電文が発信される。 | |
1941年12月7日 | : | 伊号潜水艦より特殊潜航艇が発進。 | |
1941年12月8日 | : | (1時30分) | 第一次攻撃隊(艦上戦闘機43機、艦上攻撃機89機、艦上爆撃機51機)が発進。 |
: | (2時40分) | アメリカ海軍の駆逐艦ワードが不審な潜水艦を発見し攻撃。これを撃沈して艦隊司令部に報告する。 | |
: | (2時45分) | 第二次攻撃隊(艦上戦闘機36機、艦上攻撃機54機、艦上爆撃機81機)が発進。 | |
: | (3時19分) | 第一次攻撃隊が攻撃を開始。 | |
: | (4時20分) | 日本の駐米大使と特命全権大使から最後通牒がアメリカ国務長官に手渡される。 | |
: | (4時24分) | 第二次攻撃隊が攻撃を開始。 | |
: | (8時30分) | 日本海軍の攻撃隊が随時帰還。9時頃には南雲機動部隊は日本に進路をとる。 | |
1941年12月16日 | : | 帰還する南雲機動部隊の一部が分離し、ウェーク島攻略作戦の支援へと向かう。 | |
1941年12月23日 | : | 南雲機動部隊が日本に帰還。作戦終了。 |
攻撃結果
この攻撃により、アメリカ太平洋艦隊は戦艦5隻、駆逐艦2隻、標的艦1隻が撃沈され、更に戦艦3隻が数カ月の修理を要する損害を受けた。海上艦艇以外にも航空機188機が破壊され、155機が損傷を受けた。対する日本側の損害は軽微で、未帰還機29機、損傷機74機、未帰還の特殊潜航艇5隻のみであり、真珠湾攻撃は日本海軍の圧勝であった。
アメリカ側の死者数は、軍人2335名(海軍2008名、陸軍218名、海兵隊109名)、民間人68名。このほか、民間人35名を含む1178名が負傷している。[1]
その後
真珠湾攻撃の翌日、1941年12月9日(アメリカでは12月8日)、アメリカ合衆国議会は日本と開戦したと宣言。ここに太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発する。12月10日にはヒトラーがアメリカ合衆国に対して宣戦を布告。第二次世界大戦が文字通り世界規模の戦いとなる。
また、真珠湾攻撃により西太平洋の制海権を手にした日本軍は破竹の進撃を行い、南方作戦を成功させた。
余談
- アメリカ海軍の空母は真珠湾攻撃時には真珠湾を離れており、損害を受けることが無かった。日本海軍は12月5日に空母「レキシントン」が真珠湾を出港したなどの情報を得ており、在泊の空母は大半もしくは全てが出動中であるとの見方を強めていた。
- 日本海軍がそれまでの漸減要撃戦略を投げ捨てた一因には、アメリカの両洋艦隊法があると言われる。この法律は要するにアメリカ海軍大増強計画であり、これが完遂された場合、アメリカの海軍力は日本の倍となる。
- 海軍が攻撃した後に大使が最後通牒を渡すというヤバイレベルの不手際を日本がおかした(本来は攻撃開始30分前に渡す予定であった)ため、真珠湾攻撃は「日本による卑怯な奇襲攻撃」とされ、プロパガンダに利用されるなど、それまで第二次世界大戦に関与することに消極的であったアメリカ国民を一挙に参戦へと傾けることになる。
- なんでハワイを占領しなかったのか?とか戦艦による艦砲射撃を行わなかったのか?と疑問の声をあげる人がいるが、当時のハワイには「戦艦だってぶん殴って見せらあ」と豪語できるレベルのオアフ島要塞と(40cm砲もあるよ!)、アメリカ陸軍2個師団が駐留しており、日本軍にとって占領することはほぼ不可能であった。また、仮に攻略できても兵站の維持が不可能であった。
- アメリカは実は日本が奇襲攻撃することを知っていて、わざと見逃したのではないか?という主張がある。詳細に書くとそれだけで一つ記事が書けそうなくらいの話なのでこの場では割愛するが、一つだけ書くとすれば、「アメリカ海軍の空母が真珠湾を離れていたこと」を主張の根拠とするのだけは間違いである。少なくとも真珠湾攻撃の時点ではどの海軍でも戦艦こそが戦力の中核であり、作戦行動中の戦艦を航空機で撃沈できるはずがないという考えが主流であった。空母が海軍戦力の中核となっていくのは、真珠湾攻撃を含む第二次世界大戦緒戦における空母艦載機の活躍があってこそである。
- ちなみに、アメリカの沈没された戦艦5隻のうち4隻は引き上げられ、その内3隻は修復されて第二次世界大戦中に戦線復帰している。しかもそれと並行してアイオワ級戦艦や各種正規空母、軽空母、駆逐艦、潜水艦etcetcをじゃんじゃか建造した。アメリカ合衆国の工業力恐るべし。
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関連項目
脚注
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