真実はいつもひとつ
「真実はいつもひとつ」とは、名探偵コナンの主人公の決め台詞である。また、法曹やサイエンスの世界などでも議論されることである。
「真実」と「事実」
例えば、
この二つの文章があるとき、よりニュアンスが伝わるのはどちらか?
正解は「1」だと思われる。真実は人それぞれの主観に基づき、事実は誰がみてもそうであることを客観的に表したものだと思われる。
実は、哲学の世界では、真実=主観的事実、事実=客観的事実というのが有力な見解です。
名探偵コナンでは
劇場版ではオープニングの最後に江戸川コナンが登場し、この台詞を言うのが恒例。
タイアップ曲を提供する倉木麻衣の『TRY AGAIN』や『薔薇色の人生』、劇場版第22作『ゼロの執行人』主題歌『零 -ZERO-』では、この台詞が歌詞に盛り込まれている。
実は、本編でこれに類する発言はコナンではなく工藤新一で、『外交官殺人事件』にて初対面の服部平次に向けた時のもの。
コナンでは『コーヒーショップ殺人事件』にて毛利蘭に嘘をつかれたと気づいた際の「真実はいつもたった一つしかねーからよー……」の傍白のみである。
アニメでは第1話冒頭で、犯人を指摘した新一がこの台詞を言っている。
「いつもひとつ」を掲げる名探偵コナンではあるが、とある劇場版では、毛利小五郎が人質にされた妻の妃英理を撃った事を、「事実であり真実とは限らない」と解している。
実際に、この件は関係者たちによって意見が分かれている事も描かれ、妻を撃つと言うドライな決断をしたと思われ、小五郎本人もその事に反論しなかったのもあり、妻や娘が人質だろうと平気で発砲できる人として悪く評価されていた。
しかし、後にコナンが毛利蘭を人質にされて小五郎と同じ立場になった際に、人質が負傷すれば犯人が手放すと言う「人質(妻)の安全を最優先にした策」である事に気づき、同じ策を使って蘭を救出している。 [1]
真実と法廷
法廷で使われる言葉に「事実認定」という言葉がある。判決を下すため、どういったことを「事実」として「認定」し、その判断の基礎としたのかを示すものである。
しかし、少し考えてみて欲しい。事実こそ、人の主観を通して認識・記録されるものであり、真実は、人の主観や思惑や行動など、あらゆる全ての事象をありのままに包含するものではないかと考えられるのではないか。「事実認定」もまさに、何があったのかを証拠を元に、いくつもの想像されうるストーリーから人が取捨選択し、認識・記録する行為だと思われる。「真実」を知りうるのは、当事者などのその場に居合わせた者だけになる。場合によっては、当事者がその時我を忘れていたり、死んでしまったりして、「真実」を知るものは誰もいない可能性もある。
裁判官や裁判員は、審理の過程の中で示された(法廷に出てきた)証拠のみを頼りに「真実」を想像し「事実」を認定しなければならない。
「事実」を「真実」に少しでも近づけるために、被告人や証人や被害者にたくさん質問をして、判断の基礎となる「法廷に出てきた証言」を増やして、あきらめずに「真実」を求めてほしい。 [2]
真実と科学
「科学は嘘をつかないが科学者は嘘をつく」と言うような言葉がある。科学的真実とは、叡智の図書館に初めから並んでいる真実の本を、そっと見つけるようなものである。そこに、偽りはない。偽りがあるのはむしろ人間の方が原因であることが多い。科学的事実も、科学の進歩によって「事実」が書き換えられていく過程を辿る。
量子力学においても、実は数学的に量子は記述されるのに、何故そのように記述されるかは不明なのである。数学的には記述されているから、それをそのように使っているに過ぎない。
方程式が解けない場合があるように、必ずしも解が得られるという訳でもない。もちろん、近似解や特殊な場合に解けたりもする。特に議論が必要だが、不完全性定理がよく取り上げられたりする。
真実とは、そう易々と得られることではないのである。
関連動画
名探偵コナン関連
法廷
関連静画
関連項目
脚注
- *真実はいつもひとつ ピクシブ百科事典2024/01/08閲覧
- *裁判員ネット スタッフコラム2024/01/08閲覧
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