社会契約論単語

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社会契約論とはフランスの思想ジャンジャック・ルソーが著した政治哲学書である。本書はフランス大革命にも強いを与え、現代でも政治学の古典として必読の一冊となっている。

内容

社会契約論

社会契約論とは、社会とはそこに暮らす人民が相互に協する関係を形成し、自分の自由社会に明け渡すことによって、その中で自由を得ているという考え方である。

ルソーが社会契約論において前提にしているは「全ての人間は生まれながらに自由である」という考えである。しかし全ての人間が自分の本の趣くまま自由行動したらどうなるか? 原始時代のように「殺す」、「奪う」が日常となる社会はいつか衰退する。いつに殺されるか分からない社会に安寧はない。そこで人々は自己保存のために、自らの本的な自由をあえて社会に譲渡することによって、様々な制約を負う代わりに理性的な自由を獲得することができるようになった。

現代社会で、かが往く人にイラっとしたからといって殴り殺したら、法律の下にその身の自由拘束される。拘束されるのがイヤな彼はイラついた程度では他人に殴ることはしなくなった。ここで彼は本的に他人を殺す自由を失った。そしてそれと同時に、逆にかから理不尽に殴られることもなくなった。もし彼を殴る者がいたら、その者はやはり法律によって自由を奪われるからだ。

上記の例からも分かる通り、社会秩序は人間の持つすべての理性的権利の基礎となるものである。社会は私たちから数々の自由を奪う。言い換えれば、私たちは日々の生活を様々な法律規制されている。だがそれゆえに私たちは正しい社会秩序を得て、その中で自由を実現することができるのである。私たちは長い歴史の中で、互いに互いの権利を侵しないことを学んだのだ。

社会秩序

しかし社会秩序といっても、それは人民が自らの自由意志において自由を譲渡したものでなければならない。例えば、暴力によって理やり人民から自由を奪った社会秩序は正当だろうか? もちろんこれは否である。「いうことを聞かなければお前を殺す」とナイフと突き立てられて生まれる秩序は、命惜しさから生まれるものであって自由意志からではない。暴力によって生まれた社会秩序は暴力がなくなった間に瓦解する。そこには正当性がないからである。

人類史をみれば、戦争国家を作ることがある。戦勝は敗者を殺す権利を持つとされ、敗者は自分の自由を相手にげることによって命を買うというシーンはよくみるものだ。これは一見、命と自由の正当な交換契約のように見えるがそうではない。そもそも人が人を殺す権利なんてものは存在しない。更にいうと、戦争というはの間で行われる闘争状態である。兵士はたまたまそに生まれたというだけだって、戦後武器を失った敗戦国兵士は既に戦闘していた相手 ではないからだ。彼はではなく一個人である。よって敗者をしたり、奴隷とする権利もありえない。そのような契約暴力による強制がなくなれば自然と消え去る。勝者側は自由を敗者から奪ったが、命以外その対価を彼に払っていないからである。

正当な社会契約に基づく社会秩序とは、人間が自らの意思で譲り渡したものでなければならない。このような社会に似たモデルを私たちの身近にある。それは家族である。家族政治社会の原始のモデルであった。家族の中にある子どもは幼いうちは自立することができない。そのため子は自らを保存するために護をめる。そしてやがて成長しても子はという家族関係を約束する。これを政治社会較すると国家の首長は家族における長で、人民は子どもというわけ である。人民はまず自由等なものとして生まれるが、社会に自らの保護をめて自由を譲渡する、という構図である。自由意志に基づく自由の譲渡によって成立する社会にこそ理想の国家の基礎である。子が自由を他人に明け渡したり、専制君が人民に自由げるように命するのは虚な矛盾であり、ナンセンスである。

一般意思

自由を譲渡された側の社会は、人々の自由を恣にする恐れがあった。そこで社会とは、まずもって構成員の命と財産を全で保護することがめられた。そのような社会では各人が全ての人に拘束されながらも自分以外の何者にも従わず、依然として自由でいられた。パラドックスのようであるが、つまりはこうである。全ての社会構成員が社会、つまり自分以外の全ての社会構成員に対して自由を譲渡するということは、自らも他人の自由を譲り受けている状態になるということである。彼は社会においてあらゆる自由を失った代わりに、あらゆる自由社会から与えられているのである。

こうして生まれた社会は、構成員の意思を最大公約数的にまとめた一般意思を持つ。一般意思は社会構成員の全ての自由を獲得している。もし仮に社会の一部の人が自由を譲渡しなければ、その人は専制君となるだろう。ある者が自らの自由の半分しか譲渡しなければその者は特権階級と呼ばれることになる。そんな社会は全てがムダに終わる。社会契約特性とは全構成員の自由の全面的譲渡にあるからだ。そうして国家は誕生する。人々は一般意思に反することは一切してはならないし、その契約を打ち切ることもできないのである。

国家

国家とは精的で集合的な公共人格である。それは構成員が受動的にみれば国家、自らがそうだという動的姿勢でみれば権者、同種とべるのならば列強と呼ばれる。また社会構成員も集合では人民、個別には市民国家法律の下にあるものとしては臣民として区別される。

社会契約によって生まれた国家は構成員の利益に反することはない。よって国家臣民に対していかなる保も負わない。そもそも国家が構成員をすることがありえないからだ。一方で、臣民権者への従義務がある。私たちはそれぞれ個性ある欲望を胸に抱えている。これを国家の一般意思に対して特殊意思と呼ぶが、これはしばしば公共の利益に反することがある。臣民が(一般意思への従)義務を果たさず、自らの特殊意思による権利だけをすれば国家の存続は危うくなってしまう。

このような社会への絶対従は一見すれば自由とは相反するものに感じられる。だが、その従によって社会構成員は個別的な従から逃れ、政治機関の手段と活動を作り出することが可になるのである。社会構成員は社会従することによって原始的な本自由の喪失し、その代わりに市民自由、所有権、道徳自由を獲得するのである。

一般意思の特性

以上のような国家を持つためには社会的な団体が必要であり、またその団体はしもが納得する一般法を施行しなければならない。つまり社会が普遍的な一般意思を持つ必要がある。

個々人が持つ意志を特殊意思と言ったが、一般意思とは単に特殊意思を総和したものではない。それは全体意思と呼ばれ、一般意思とは区別されるものである。例えば、ある投票でAという政策が多数を得たとする。よってA策を進めるというのは全体意思である。しかしそれはA策をめる意思の総和が多かっただけの話であり、それに反対する意思を考慮しなければならない。さもなければ全体意思が公共の利益に反する方向へ進んでしまうこともある。

一般意思とは特殊意思の総和の中で互いを打ち消しあって最後に残った意思のことだる。それは人民の意思と換言することができる。一般意思はそれ自体は普遍的であると同時に、意思の向かう対も普遍的でなければならない。ある特殊な階級だけを対とするならば一般意思はさを逸してしまう。

以上のことを踏まえると、一般意思を露にするには議論というスタイルが最も適していることになる。一方で、社会の内部に部分社会ができるのは一般意思にとって望ましくない。それぞれの部分社会が持つ意志は、全体社会からすれば一つの特殊意思でしかないからだ。

一度生み出された一般意思は公共的な善をしているために、誤謬はありえない。それは一つの道徳的な存在なのである。

主権

国家は一つの精的団体であると共に、動的には権者である。権には3つの特性がある。

権は譲渡することはできない。権は一般意思の行使でしかない。よって権を他人に預けることはできないし、つまり代議制はありえない。

権は分割できない。繰り返しになるが、権は一般意思の行使である。そして一般意思を分割してしまえばそれは特殊意思になってしまう。特殊意思の行使は権となることはできないのである。例えば立法権、行政権、裁判権などと権が分かれているようにみえるのは、これは実は権を実行に移す手段が複数あるというだけの話である。

権は社会契約の範囲からでることはできない。権は市民との社会契約によって政治体となった。よって市民権に従する義務がある。しかし一方でそれは、権が市民にとって普遍的に、つまり社会契約の外にでてしまう命はできないことも意味する。

しかしそもそも人民が自らの幸福が何であるか知っているとは限らない。そこで人民が正しい善の観念を持てるように、立法者が啓する必要がある。

権は具体的に立法という形で一般意思を表現する。権者は立法権しか持っておらず、法律によってしか行動できない。法律は一般的でなければならず、またその対も特殊であってはならない。

執行権

権者は立法権を持ち、立法の中でしか行動できない。だが国家が法を実際に施行するためには執行権(行政権)を持つ政府が必要である。執行権は政府であり、立法権はその意思である。これら二つは明確に区別されるものである。というのは立法権は人民の属するものであるが、執行権はそうではないからだ。

執 行権は具体的な個別の事例に対して働きかける、つまり特殊行為から成り立つものである。国家公共を結合して、それを一般意思の下で動かし、国家権者との間を繋ぐ代理人が政府と呼ばれる政治機関である。つまり政府権者ではない。政府はあくまで媒介者であり、である。

法 を施行する政府トップを王や支配者と呼んだりするが、権者である人民がその支配者に身を委ねるのは社会契約ではない。それな単なる委任か雇用である。よって人民は支配者に対して制限を加えたり、修正、更迭することも可なのである。実際に支配者にを持つためには定期集会が必要になるだろう。

理想の国家とは、一概にはいえない。君主制貴族制民主制はそれぞれ一長一短である。ただどの政体人間と同じようにいずれ衰えて死ぬものである。よって政体に長生きしてもらうためには執行権と立法権をわけること、また定期集会によって政府を修正することが必要である。

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