大東亜戦争末期の1945年3月9日深夜に行われた東京大空襲を題材にしたノンフィクション文学。作者自身が空襲に遭っており、体験談の側面も持っている。作中では空襲で家族を失った少女の姿を描いている。ガラスのうさぎとは、江戸切り子の職人だった父親が敏子氏と妹のために作ってくれたガラス細工の事。
敏子氏が本作を執筆するきっかけとなったのは20歳の時だった。自治体主催の成人式に招待されたが、両親を失って傷心の女史は参加する気になれず、墓参りに行った。そこで死者が「戦災横死」扱いになっている事に気付く。横死とは、志半ばで斃れる事。かの空襲で、両親のように志半ばで倒れた者が沢山いたのだと知る。1956年に結婚した後、毎日二時間机に向かって自身の戦争体験を執筆し始めた。
1977年、敏子氏は空襲と機銃掃射で亡くなった母と妹と父の33回忌の供養として、「私の戦争体験」を自費出版。葬儀の参列者に配った。このうちの1冊が金の星社編集者の目に留まり、子供向けに加筆・訂正して出版したのがガラスのうさぎである。本作は空前の大ヒットとなり、翌1978年に児童福祉文化賞奨励賞、JCJ賞奨励賞を受賞。第24回青少年読書感想文課題図書にも選ばれた。1980年には100万部突破の国民的ロングセラーとなり、翌年に舞台となったJR東海道線二宮駅前へ、ガラスのうさぎの少女像が浄財で建てられた。1983年にドイツ語訳が、2003年にはスペイン語訳が発売され、世界に向けて悲劇の記憶を発信している。少し遡って2000年に新装版が発売され、戦争を知らない親や子の世代に向けて分かりやすく編集した決定版である。その一方で批評もあり、「主人公を悲劇のヒロインに仕立てて、大東亜戦争の本質について客観的な記述が無い」と指摘された事も。
本作品は3回映像化されている。
著者の高木敏子氏は、東京の本所区(現墨田区)で生まれ育った。両親と兄二人、妹二人の家族構成で幸せな日々を送っていた。父はガラス工芸品の工場を経営しており、これが題名の元ネタとなっている。
やがて大東亜戦争が勃発。父の工場は軍需品を作る工場へ転換、二人の兄は徴兵を待たずに軍へ志願。長兄は陸軍として支那事変へ、次兄は海軍飛行予科練習生として三重県航空隊(鈴鹿?)に入隊した。家には母親と敏子氏、妹二人が残された。
そして1945年3月9日深夜。帝都東京にB-29爆撃機が低空で進入し、焼夷弾を使った無差別爆撃を開始。当時は強風でレーダーが反応せず、防空を担う軍の対応は遅れた。敏子氏の家族は家を飛び出し、防空壕へと急いだが、この逃避行の際に母親と妹二人を失う(暑さのあまり防空壕を飛び出した後、行方不明になったとも)。
5月7日、再び東京が空襲され、焼け野原と化す。敏子氏は家の焼け跡を掘り、母親や妹達が使っていた物を探していた。すると父が作ったガラスのうさぎが、半分溶けて転がっているのを発見。これを拾い上げ、手提げ袋の中に入れた。その後、敏子氏は知り合いの家がある神奈川県二宮町に疎開。父は新たな仕事先に勤め、新潟で過ごしていた。
8月5日、父とともに新潟へ向かうべく二宮駅で列車を待っていると、突如としてP-51が飛来。駅にいた人々に反復しながら機銃掃射を浴びせ、父は凶弾に倒れた。多くの人が殺害され、父もまた病院へ搬送されたが死亡。当時12歳の少女は、両親と二人の妹と長兄を失ってしまったのだった(次兄のみ特攻隊で出撃待機中に終戦を迎え、生存)。
出版から2年が経過した1979年、「東京大空襲 ガラスのうさぎ」の題名で実写化された。翌年にはNHK総合の銀河テレビ小説でドラマ化。15回に渡って放映された。
2005年に終戦60周年を記念して初のアニメ映画化がなされた。参加声優の中には福山潤や神谷浩史など現在でも活躍する実力派がいた。1943年に陸軍省が定めた「撃ちてし止まむ」の標語が出てきたり、竹槍で訓練を行う男子学生の描写など歴史考証がしっかりした作品である。2000年代のアニメだからか主人公が戦争映画にあるまじき美少女。サジェストには「ガラスのうさぎ 風呂」「ガラスのうさぎ 入浴」と下心丸出しな文字が並ぶ。世が世なら薄い本が出ていたであろう…。特高さん、こちらです。
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最終更新:2024/04/30(火) 23:00
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