スズキワークスとは、スズキがレース活動を行うためにメーカー直営で運営するチームである。
本稿では、MotoGPの最大排気量クラスに参戦するスズキワークスについて記述する。
2011年をもってスズキはMotoGP最大排気量クラスから撤退した。しかし2012年から2014年の間に日本国内でテストを繰り返しており、2015年にスズキはMotoGP最大排気量クラスに復帰した。
1987年から2011年までのスズキはプライベートチームに人員を送り込むというセミワークスの形態で参戦していたが、2015年以降のスズキは純然たるワークスとして参戦することになった。
2016年にイギリスGPで1勝を挙げ、2017年は開幕当初のエンジン選びに失敗して1年間不調だったが2018年は2人のライダーが何度も表彰台に上がって復調した。
2019年はアレックス・リンスが2勝を挙げ、ルーキーのジョアン・ミルもまずまずの成績を残した。
そして2020年を迎えた。この年はコロナ禍で7月から11月までの開催となり、観客を入れず、パドックへの人数も大きく制限するなど何もかも異例のシーズンとなった。そんな中で、最大排気量クラスにタイヤを独占供給するミシュランがタイヤの構造を大きく変更しており、リアタイヤが前年に比べてかなり柔らかいものとなった。直列型エンジンを搭載しているヤマハやスズキにとって柔らかいリアタイヤは相性が良く、躍進が期待された。また、タイヤが変更されると変更前の走行データがすべて使い物にならなくなるので、すべてのメーカーが手探り状態となり、横並びとなる。「非常にバランスがよく、マシンとしての素性がよい」と評判のスズキのマシンにとって、タイヤの大変更は大きな好機だった。
2020年シーズンが始まるとヤマハのファビオ・クアルタラロが2連勝して飛び出すが、スズキの2選手も表彰台を何度も確保していく。そしてファビオ・クアルタラロがマシンの扱いにくさのため転倒を繰り返すとシーズン中盤でジョアン・ミルがランキングトップに立ち、そのままチャンピオンになった。スズキとしては2000年のケニー・ロバーツ・ジュニア以来20年振りのライダーチャンピオン獲得となった。
2021年はヤマハワークスやドゥカティワークスに競り負け、ジョアン・ミルもランキング3位に終わった。また2021年の初頭になって2012年頃からチームを引っ張ってきたダヴィデ・ブリヴィオ監督が離脱したのも大きな負担となった。
2022年はシーズン初頭になってリヴィオ・スッポが監督に就任した。マシンが進歩しており、特に直線速度の向上が目覚ましく、開幕戦のカタールGPにおいて直線でドゥカティのマシンに抜かれないという速さを示した。
2022年5月1日(日)にヘレスサーキットで第6戦スペインGPが行われ、5月2日(月)に同じくヘレスサーキットにてMotoGPクラスのみの合同テストが行われた。そのテストが終わるころ、「スズキが2022年かぎりでMotoGPから撤退する意向を示してる」という噂が流れ、様々な欧州メディアが記事にして(記事)、MotoGP関係者やMotoGPファンに強い衝撃を与えた。テストが終わる午後4時頃に佐原伸一監督がスズキワークスのスタッフ全員を集め、佐原伸一監督から直々に「スズキ本社が2022年かぎりでの撤退を望んでいる」と伝えたのだという。
それまでスズキが撤退するという兆候が全く見られず[1]、第6戦まででスズキワークスがチームチャンピオンシップで堂々の1位であり(MotoGP公式サイトの第6戦終了時リザルト)、所属ライダーのアレックス・リンスがライダーチャンピオンシップで4位、ジョアン・ミルが6位という状態でこちらもまずまず良好であった。そもそも2021年4月20日にスズキとドルナが2022年から2026年までの5年間契約を結んでおり(記事)、2022年をもって撤退するのなら高額の違約金が発生するはずなので(記事)、「違約金を支払ってまで撤退しなければいけない事情があるのか」と周囲に直感させた。
実は、2022年5月時点のスズキ本社は、ディーゼルエンジン不正スキャンダルを抱えていた。スズキは2005年からフィアットとの提携を始め、2011年からディーゼルエンジンの供給を受けていた。そのフィアット製ディーゼルエンジンに排ガス中の有害物質の量を不正に制御する装置が搭載されており、2022年4月27日になってスズキの欧州法人のいくつかがドイツ検察・イタリア検察・ハンガリー検察によって捜索を受けていた(記事1、記事2、記事3、記事4)。
ディーゼルエンジン不正というとフォルクスワーゲンの不正が有名である。2015年になって、全世界に向けて出荷した1100万台のエンジンに不正が見つかり(記事)、フォルクスワーゲンは各国でお金を支払うことになった[2]。2022年4月のスズキの場合は2万2千台のエンジンの不正が見つかったので、当局からの罰金を科される可能性がある。「ディーゼルエンジン不正に関する罰金支払いに備えるためにスズキはMotoGP撤退を決めたのだろう」と論じられるようになった[3]。
こういう罰金は、企業会計の費用に入るが、企業税務の損金にならずに法人所得がそのまま維持されて法人税の納税額がそのままになる[4]。企業にとっては罰金と法人税の支払いに追われることになり、大きな打撃である。
5月2日以降のスズキは沈黙を続けていたが、5月12日(木)になってスズキから「ドルナとMotoGP撤退に向けて協議中である」との声明が正式に発表された[5]。同時に、ドルナのカルメロ・エスペレータCEOが「来週スズキの上層部と会う」と発言した(記事、MotoGP公式サイト動画)。
アレックス・リンスは「すっかり泣いてしまった」とコメントし、ジョアン・ミルは「腹を立てている」とコメントした[6]。佐原伸一監督やリヴィオ・スッポ監督も落ち込んでいる感じだったという(記事)。
欧州メディアのGPOneは「我々が調べたところによると、取締役会の中で社長がMotoGP継続を支持したが、それ以外の多数の役員に反対された」と報じている[7]。
2022年7月13日になってスズキはMotoGP撤退についてドルナと合意に達したことを正式に発表した(記事)。
9月30日に、MotoGPを運営するドルナが2023年以降にインドでMotoGPを開催することを発表した(記事)。インドにおいてスズキは自動車のシェアの50%以上を確保しており、国民的自動車ともいえる地位を築き上げている。しかしスズキはそのインドで開催されるMotoGPに参戦しないことになった。
アジア諸国でMotoGPを開催するときは、大統領や副首相といった超大物の政治家が来場することがおなじみの光景なので[8]、2023年のインドGPにもおそらくナレンドラ・モディ首相がやってくるはずである。モディ首相に「MotoGPは実に素晴らしいスポーツで見応えがありますね。おや?スズキは参戦しないんですか?」と言われたらスズキの経営陣はどういう風に答えるつもりだろうか。
10月16日に行われたオーストラリアGPではアレックス・リンスが見事に優勝を収め(動画1、動画2)、11月6日に行われたバレンシアGPでもアレックス・リンスが後続を振りちぎっての優勝を挙げた(動画1、動画2)。各チームのセッティング技能が向上していて競り勝つのが難しいシーズン終盤において2勝を挙げ、高い実力を示しつつ、周囲の人々に「これだけ走れるのになぜ撤退するのだろうか」という思いを抱かせることとなった。
12月1日には「12月31日を最後に、スズキワークスに関する情報を提供する英語版ウェブサイトや英語版SNSをすべて削除する」という情け容赦の無い発表が行われた(記事)。ただし日本語版ウェブサイトや日本語版Twitterは削除されず残り続けるという。
12月24日のクリスマスイブには英語版ウェブサイトでデジタルブックが発表された(記事)。
# | 名前 | 国籍 | 出身地 | 身長・体重 | 誕生日 |
36 | ジョアン・ミル | パルマ・デ・マヨルカ | 181cm69kg | 1997年9月1日 | |
42 | アレックス・リンス | バルセロナ | 176cm72kg | 1995年12月8日 |
2018年以前の歴代ライダーはスズキワークス英語版Wikipedia記事を参照のこと。
アレックス・リンスのクルーチーフ。2023年はアプリリアワークスに移籍してマーヴェリック・ヴィニャーレスのクルーチーフになる。
ジョアン・ミルのクルーチーフ。
BSB(英国スーパーバイク選手権)の2008年と2009年シーズンは、GSEというチームが連覇した。このとき、GSEに所属し、テレメトリー(走行情報収集)のスタッフとして働いていた。
2011年はスーパーバイク世界選手権のヤマハワークスでユージン・ラヴァティのクルーチーフを務めた。
2012年と2013年はスーパーバイク世界選手権のスズキワークスでレオン・キャミアのクルーチーフを務めた。
2016年にはMotoGPの最大排気量クラスに転職しており、チーム・アスパー(ドゥカティサテライト)に在籍している。
2017年と2018年は、チーム・アスパー(ドゥカティサテライト)の最大排気量クラス部門で、カレル・アブラハムのクルーチーフを務めていた。
2019年からスズキワークスに移籍してジョアン・ミルのクルーチーフを務めるようになった。
2023年はグレッシーニレーシングに移籍してファビオ・ディ・ジャナントニオのクルーチーフになる。ジョアン・ミルは2023年にレプソルホンダに移籍するので、レプソルホンダに対して「フランチェスコ・カルケディをついでに雇ってほしい」と申し出たが、その願いは叶わなかったという。
※この項の資料・・・記事1、記事2、記事3、記事4
2015~2016年はマーヴェリック・ヴィニャーレスの電子制御エンジニア。2017年以降はアレックス・リンスの電子制御エンジニア。
パソコンと難しい顔をして向かい合っている(画像)。
名字でわかるように沖縄出身(島袋姓は沖縄に多い)。沖縄の新聞でも扱われた。
1980年2月25日生まれ、元2輪レーサーだが勝てず断念、メカニックの道を志す。同郷のプロライダー新垣敏之の手伝いをすることから始めた。電子制御スタッフの仕事をしながらひたすら独学で知識を蓄え腕を伸ばした。2006年にスズキに雇われ、2013年からはMotoGPのチームに移った。
テニスが趣味の1つだが奥様のテニスの腕がよくて、いつも負かされてしまうという(2017年にスズキ公式サイトで公開されていた自己紹介文)
エンジン組み立てを担当するスタッフ。
1967年2月4日生まれ。17歳でレースを始め、全日本の125ccクラスで7年間ほど走っていた。乗ったバイクの1つはアプリリアのRS125。最高位は3位である。
ヤマジュクさんがG+の放送で映ると、宮城光さんはこのように言う。「あれはヤマジュクくんですねぇ~実は僕がレースをしているときに彼もレースをしていて、同じ病院仲間だったんですねえ」
短髪で眼鏡を掛けている。この動画では、スキンヘッドの人に肩車してもらいつつ、高いところからアレックス・リンスのヘルメットを叩いている。このツィートの1番目画像ではアレックス・リンスの隣にいる。
広報担当で、レースが開催される週末は殺到するジャーナリストを調整する。また、通訳もこなす。
東京都出身で、学校を卒業した後は小さな貿易会社で働いていた。ターミナルの中での仕事は退屈だったらしい。その後、通訳の仕事をしていたら、偶然、全日本選手権の仕事と関わり合いを持つようになった。そこからレース関連の仕事をするようになった。1993年からMotoGPのどこかのチームに帯同して広報・通訳の仕事をこなすようになり、2003年まで11年連続でその生活を続けた。2003年はチーム・ロバーツ(ケニー・ロバーツ・シニアのチーム)で広報担当をしていた。
2004年は1年間MotoGPから離れ、フランスに語学留学してフランス語の習得に努めた。2005年からレース業界に復帰し、SERT(鈴鹿8耐などの世界耐久選手権に出場するスズキのワークスチーム)の広報となった。2006年からはアルスター(ベルギーのチームで、スズキのマシンでスーパーバイク世界選手権に出場する期間が長かった)で広報の仕事をした。
2015年にスズキワークスがMotoGPに復帰したとき、スズキワークス入りしている。
RACERSという雑誌があるが、その海外取材で協力することが多く、しばしば名前が出てくる。RACERS vol.2の84~85ページではケニー・ロバーツ・シニアの家に出向き、ケニーが鹿を猟銃で仕留めて台所で調理する姿を報じている。
原田哲也とその奥さんとは1993年以前からの付き合いで、RACERS vol.15の90~95ページで文章を寄稿している。また、96ページでカルロ・ペルナットへの取材に協力していることが示されている。
RACERSのブログにもたまに名前が出てくる(記事1、記事2)
※この項の資料・・・2017年にスズキ公式サイトで公開されていた自己紹介文、after the flag、RACERS vol.2 85ページ
2004年からスズキのMotoGPマシンGSV-Rの開発を務めた。2007年から2011年までスズキワークスの事業監督。
2011年のスズキMotoGP撤退に従って市販車部門へ転属、GSX-R1000の開発責任者を務める。
2017年のシーズン中盤にMotoGPに帰ってきた。肩書きはチームディレクター。
漢字で検索すると記事が多くヒットするスズキの中心人物(記事1、記事2)。また、技術者たちが出席する記者会見にもスズキを代表して出ている(画像)。
1964年7月20日生まれで、おじさんがバイクレーサーで子どもの頃にバイクに乗せてもらっており、その頃からバイクに興味があった。ギターを弾くのが趣味で、奥さんに内緒で12本のギターを所有している。(2017年にスズキ公式サイトで公開されていた自己紹介文)
ダヴィデ・ブリヴィオが離脱した2021年1月から2022年2月まで佐原監督がチーム監督を兼任するような体制が続いていたのだが、やはり非常に大変だったという。
Twitterのアカウントを開設している。
技術監督であり、車両開発の長である。
漢字で検索すると雑誌のインタビュー記事がヒットする(記事1、記事2)
1968年12月4日生まれ、高校の時バイク雑誌でバイクの魅力にはまり今に至った。1992年にスズキ入社、1995年から二輪レースグループに入った。1998年~2000年の頃には車体担当のエンジニアとしてMotoGPに帯同しており、ケニー・ロバーツ・ジュニアのチャンピオン獲得に貢献している。市販車やスーパーバイク世界選手権向けマシンの車体設計担当を経て、2011年にはMotoGPチームの首脳になっている。
ラジコン好き。2019年2月のセパンテストの後に、ジョアン・ミルが来日してスズキ本社へ挨拶することになった。そのとき佐原監督と共にジョアンを愛知県豊川市のラジコン店に連れて行っている(画像1、画像2)
※この項の資料・・・2017年にスズキ公式サイトで公開されていた自己紹介文、racers vol.32 34ページと83ページ
2022年2月になってチーム監督に就任した。ドゥカティワークスからレプソルホンダへ渡り歩き、2018年から2021年までの4年の休養を挟んで、スズキワークスのチーム監督に就任した。
ヨーロッパのテストチームに所属するテストライダー。日本語版Wikipediaあり。
1982年にフランスで生まれた。2001年から2006年までMotoGP250ccクラスで走り、2007年と2008年は最大排気量クラスで走った。
2009年からスーパーバイク世界選手権で走るようになり、2014年にアプリリアワークスでチャンピオンを獲得している。この2014年は大接戦のすえカワサキ所属のトム・サイクスを破ったものである。
2014年のスーパーバイク世界選手権は、最終戦の1レース目でカワサキ所属のロリス・バズがチームオーダーを守らずトム・サイクスよりも1つ上の順位でフィニッシュした事件で話題になった。この事件のせいで、ランキング1位サイクスとランキング2位ギュントーリの差が3にまで縮まり、そしてレース2でギュントーリが優勝してトム・サイクスが3位に終わり、大逆転でギュントーリのチャンピオンが決まった。
トム・サイクスが怒り狂う中(ツィート1、ツィート2、期間検索)、ロリス・バズはギュントーリとの2ショット写真を上げていて(ツィート)、さらに怒りに火を注いでいた。ちなみにロリス・バズはギュントーリと同じくフランス人である。
しばしばMotoGPにスポット参戦する。好みのゼッケンは50番で、中央に1つ星が付いている。
テストライダーとしての実力が確かであり、しばしばダヴィデ・ブリヴィオ監督に絶賛される(記事)。
イギリス人の奥さんとの間に子どもが5人いて、イギリスのドニントンパーク・サーキット近くに住んでいる(記事)。
ヨーロッパのテストチームに所属するクルーチーフ。
1965年頃生まれのアイルランド人。O'KaneといったO'が付く名字はアイルランドに多い。O'はson ofの略で、O'Kaneの原義は「Kaneの息子」という意味になる。
もともとシーメンス(ドイツ企業)で働いていたが、バイクに興味を持ったので、1980年代の末、チームロバーツ(ケニー・ロバーツ・シニア率いるチーム)の首脳に手紙を送って自分を売り込み、採用してもらった。
チームロバーツでは1988年から働き始め(画像)、データロガー(走行情報の記録装置)の管理を担当した。この当時は走行情報収集の技術がどこのチームも未発達だったので、トム・オケインの働きは大変に貴重だった。
チームロバーツで働いた後、スズキワークスに移り、クルーチーフを務めるようになった。2006~2009年はクリス・バーミューレンのクルーチーフ(画像)。2010~2011年はアルヴァロ・バウティスタのクルーチーフ(画像)。2012年はBMWのスーパーバイクチームで働いたが、2013年にはスズキに復帰している。2015年と2016年はアレイシ・エスパルガロのクルーチーフ(画像)。
ヨーロッパのテストチームでシルヴァン・ギュントーリと共に開発をしている。ギュントーリともども働きの良さをダヴィデ・ブリヴィオ監督に賞賛されている(記事)。
※この項の資料・・・Racers チームロバーツ特集号82ページ、記事2
日本のテストチームに所属するテストライダー。
日本語Wikipediaあり。ヨシムラスズキから全日本や鈴鹿8耐に出場しつつ、テストライダーを務める。
ヨシムラは名門プライベートチームで、1970年代からスズキとの関係が非常に深く、実質的に全日本や鈴鹿8耐におけるスズキのワークスチームと言われるほどである。
ちなみに、ヨシムラのOBの1人は、G+の解説でおなじみの辻本聡さんである。辻本さんはヨシムラに帯同して津田拓也の相談役を務めることがある。辻本さんはスズキと関係が深いので、MotoGPでスズキが好走すると嬉しそうな声になる。
テストライダーとして竜洋(スズキテストコース)やツインリンクもてぎでの走行データ収集に励む。開発の中心として重責を担っている。スズキ公式サイトでのインタビュー記事あり。
2017年ヘレスGPでは負傷したアレックス・リンスの代役参戦を務めた。
和歌山県出身なので本人のTwitterでは関西弁がときおり出る。
元MotoGPライダーで日本語Wikipediaあり。1997年は最大排気量クラスランキング3位に入った。
現在もなおテストライダーを務めており、そのためにガッチリ肉体を鍛えている。
スズキ公式サイト(2015年、2016年、2017年)や雑誌やネットでMotoGPに関する各種知識を惜しげもなく提供してくれるとても有難い人。
1993年に最大排気量クラスチャンピオンを獲得したスズキのレジェンド。日本語Wikipediaあり。
イギリス人を筆頭に英語圏住民はキッツい皮肉を言うのが大好きである。このことはMotoGP界隈でも見事に当てはまり、強烈な皮肉を言う英語圏出身者がちらほら見られる。ケーシー・ストーナー、ジェレミー・バージェス、ジャック・ミラー、カル・クラッチロー、こういう皮肉屋が全員英語圏出身である。
ケヴィン・シュワンツもまさしくそういう人で、皮肉も言うしズバリ直言もする。遠慮しないで言いたいことを喋ってくれるのでメディアにとって大切な人である。MotoGP界ご意見番。
テキサス州出身で、サーキットオブジアメリカズの設立に深く関わった。ゆえに同サーキットでは必ずスズキワークスのピットにやってくる。
2000年に最大排気量クラスチャンピオンを獲得したスズキのレジェンド。
スズキ株式会社社長。
鈴木修会長の長男である。もともとは理系の技術者だったが昇進してからは営業の仕事をしていた。
専務時代にアルヴァロ・バウティスタとロリス・カピロッシの表敬訪問を受けている。
日本GPにやってくることが多い。2017年(画像1、画像2)2018年(画像1、画像2、画像3)、2019年(画像1、画像2、画像3)。
2004年以前のチーム監督。1949年頃生まれのイギリス人。
ヘロンという英国企業があり、不動産投資しつつガソリンスタンドを経営する大企業で、スズキのバイクを販売する企業も所有していた。そのヘロンはスズキと共に「英国スズキ」というスズキ車輸入企業を立ち上げていた。ギャリー・テイラーは、英国スズキの社員だった。
1974年から、スズキは英国スズキと協力してMotoGP最大排気量クラスのワークス活動を始めた。この一員としてギャリー・テイラーは働いていた。
1982年をもってスズキはワークス活動を休止したが、ギャリー・テイラーはヘロンの支援する英国チームで働き続けていた。
1988年にスズキがワークス活動を再開するときは、ギャリー・テイラーが中心となって英国にチームを立ち上げ、ギャリー・テイラーがチーム監督となった。それから2004年までチーム監督を務め続けた。ケヴィン・シュワンツ、ケニー・ロバーツ・ジュニアのチャンピオン獲得に貢献。
2004年10月に家族と健康を理由として勇退していった(記事)。
※この項の資料・・・Racers vol.3 80~83ページ
2005年から2011年までスズキワークスのチーム監督を務めた。イギリス人。
2005年にスズキは名門プライベートチームであるクレセントレーシングに運営母体を移した。そのクレセントの監督だったのがポール・デニングである。
クレセントレーシングの本拠地はイギリスで、監督もイギリス人。スタッフもイギリス人が多い。英語圏出身者にとっては英語が通じてリラックスできる環境だった。
2003年から2005年まではケニー・ロバーツ・ジュニア、ジョン・ホプキンスの米国人ペアだった。2006年に加入したのがクリス・バーミューレンで、豪州人であり、これも英語圏出身者。
「英語圏出身ライダーだけでは勝てない」と気づき始めたのが2008年で、イタリア人のロリス・カピロッシが加入した。
「英語圏のライダーの層が薄くなっている。特に米国のライダーの層が薄い」と考えたのか、2010年にはスペイン人のアルヴァロ・バウティスタが加入して、英語圏ライダーが消えた。
2011年シーズン末をもってスズキはMotoGPから撤退して、開発に専念することにした。クレセントはMotoGPの代わりとしてスーパーバイクに参戦することにした。このときもスズキの支援を受けることになった。
2012年はレオン・キャミアとジョン・ホプキンス。
2013年はレオン・キャミアとジュール・クルーセル。
2014年はアレックス・ロウズとユージン・ラヴァティ。
2015年はアレックス・ロウズとランディ・ドプニエ。
2015年9月に、クレセントは長年協力してきたスズキとの関係を終わらせ、ヤマハとの提携を開始した。
2016年シーズンからのクレセントは、ヤマハのスーパーバイク活動の運営母体となっている。ただし、クレセント=スズキというイメージが強いからかクレセントという名前は使わなくなり、スポンサーの名前を付けて「PATA-YAMAHA」と名乗るようになった。
2016年はアレックス・ロウズとシルヴァン・ギュントーリ。
2017年~2019年はアレックス・ロウズとマイケル・ファンデルマーク。この2人は鈴鹿8耐でもヤマハワークスに参加している。
PATA-YAMAHAという名のチームの看板にはCrescent Racingという文字が入っており(画像1、画像2)、まだクレセントレーシングが消滅していないことが分かる。
クレセントは2輪総合商社で、バイク本体や部品を輸入するのが本業である。ウェブサイト、Twitterアカウントがある。ちなみにクレセント(crescent)は英語で三日月という意味。
ポール・デニングはTwitterアカウントを持っている。娘さんが可愛い。まぁ落ち着け。
2012年から2017年シーズン中頃までスズキワークスの事業監督でありボスであった。
1988年にスズキ入社、すぐにレース部門に配属され、それからずっとレース部門で仕事をしてきた。エンジン実験を担当することが多い。
現在はスズキを代表するスポーツ市販車であるGSX-Rの開発責任者になっている。佐原監督と交代したという形である。
2013年からスズキ入りし、2014年から2020年までチーム監督を務めた。2021年からアルピーヌF1(ルノーF1)に活躍の場を移すこととなった
2017年から2018年まで、アンドレア・イアンノーネのクルーチーフだった。2019年もチームに帯同していて、おそらく電子制御に関する相談役になっているものと思われた。2020年からは古巣のドゥカティに戻り、ドゥカティからエスポンソラマ(アヴィンティア)に出向して、ヨハン・ザルコのクルーチーフを務めている。2021年はヨハン・ザルコに連れられていく形でプラマックレーシング(ドゥカティサテライト)に移籍してヨハンのクルーチーフを務めている。2022年も同様である。
スズキワークスのことを語るには、スズキの社風について語らなければならない。
まず、スズキ本社の建物を見てみよう。JR浜松駅からバスターミナルへ行き、遠鉄バスで南へ行く。バスを降りたら目に入るのがこの建物である。・・・・中学校校舎のような質素な建物だ。
アメリカの伝説的投資家であるピーター・リンチは、「本社が質素なほどその会社の業績が良い」と著書の216ページで語っている。この法則に見事当てはまるのがスズキである。
あるとき鈴木修会長が取引先の部品企業を訪ねたら噴水が流れていた。会長は「あの噴水を止めて、その分だけ部品代を安くしてくれ」と言った(『プレジデント』2011年10月3日号 33ページ、プレジデント・オンライン2013年4月3日記事)。
鈴木修会長はスズキの幹部全員を引き連れてスズキの工場を巡るのが大好きである。そこで会長は、ペンキで色を塗られた配管を見て、こう言うのだった。「ところどころパイプに色つきテープを貼れば良かったじゃないか。ペンキ代の無駄だ」(著書96ページ)
鈴木修会長は長年工場巡りをしてきたので色々なことに良く気付く。「ここはモーターを使わなくても地球の重力で物を移動させることができる。電気代がもったいない」「ここは窓を上手く付ければ太陽光を取り入れることができる。電気代がもったいない」
2008年のリーマンショック時は鈴木修会長の号令でカラーコピーをすべて止めさせた。「インク代がもったいない」「書類作成時にカラー配色を考える時間がもったいない」
・・・・これがスズキの社風である。
ただのケチとは言ってはならない。鈴木修会長の真似をすると、非常に観察力が高くなることに気付く。「何か無駄を省けないか」と考えることにより、工場内をくまなく見渡す習慣が身に付くのだ。製造業従事者はぜひ一度鈴木修会長の真似をしてみると良いだろう。
こうした社風のため、スズキレースファンはいつも「会長の大なたが振るわれるのではないか」と気を揉んでいる。レース部門、とりわけMotoGP部門はなかなか出費が多いからである。
ところが鈴木修会長もレースの宣伝価値を知っているのか、MotoGP部門は維持されている。MotoGPに参戦するだけでヨーロッパのメディアが勝手に大騒ぎして何度も取り上げてくれるし、MotoGPの最大排気量クラスチャンピオンを獲得すると何十年もヨーロッパの人たちが「あのときのスズキのマシンは格好よかったねえ」と語ってくれる。テレビ広告を打つよりよっぽど効果的で安上がりなので、会長も黙ってハンコを押しているようである。
鈴木修会長は昔からマスコミや講演会に出ることが多い。経済系のテレビ番組に出て、面白いことを喋ってその場を湧かせ、風のように去って行く。
「私が若い頃、浜松で飲み屋の勘定をツケにしようと思ったら、『日本楽器さん(ヤマハの旧社名)ならいいけど、スズキさんはツケにしたくない』と言われました」と言ったり、「私がスズキの工場を初めて訪れたとき、あまりの工場のレベルの低さに、『こりゃまた転職しなきゃいかんな』と思いました」と言ったりと、色々楽しく喋ってくれる。
偉い人の性格が末端まで広がっていくのは、世の中の共通現象である。スズキワークスも会長の影響を受けており、妙に発信力が高く、フレンドリーである。
2017年頃には、スズキワークスの構成員1人1人に自己紹介文を書かせて、それをこの画像に埋め込んでいた。監督からキッチンの料理人に至るまで全員が自己紹介して、しかも藤原らんかの似顔絵まで付けてあった。こんなに発信力のあるワークスは他に見られない。
この絵巻も、スタッフ1人1人の似顔絵になっている。
2020年現在において、スズキのマシンの正式名称はGSX-RRという。
スズキは、1970年代から4ストロークエンジン車に「GS~」という社名を付けるのが伝統となっている。1976年11月にGS400などの4スト車を販売し始めた。1985年からGSX-R750という4スト車を販売し始め、鈴鹿8耐などで活躍させている。2000~2010年代の鈴鹿8耐を走ったのはGSX-R1000である。
市販車のGSX-R1000の売り上げを伸ばすため、それと酷似したGSX-RRという車名をMotoGP参戦向けプロトタイプ・マシンに付けることにした。
2015年7月のドイツGPは、GSX-R750発売30周年を記念して、当時のカラーリングを再現して参戦した(画像1、画像2、画像3)。1980年代中盤のレースを走るGSX-R750の写真はこの本に収録されているが、2015年7月のスペシャルカラーと同じカラーリングの写真が多い。
典型的な直列型エンジンのマシンであり、エンジンパワーは今ひとつだがコーナーリングで速い。ハードブレーキングやパワースライドは向かず、攻めるライディングは合わない。ブレーキングやアクセルワークを控えめにして綺麗に神経質に丁寧に走行ラインをトレースする、こういう技巧派のライディングスタイルが最も合うマシンになっている。
エンジンパワーが今ひとつなので「もっとパワーがほしい」「more power」とライダーが訴えるのがスズキの伝統になっている。そのたびに技術者が「エンジンパワーを上げるのは可能だが、そうすると車体のバランスが崩れるかも」と言うのもおなじみであり、スズキワークスは車体のバランスを重視する傾向のチームと言える。
2022年の開幕戦のスズキは、パワーを上げたエンジンを持ち込み、カタールGPにおいて長い直線でドゥカティに抜かれずに済ませるという姿を見せた。あの直線番長のドゥカティに負けないエンジンパワーを実現したのは驚異的であった。「コーナーリング速度が速く、そして直線が速いのだから、2022年のスズキは大活躍するのではないか」と思われたが、実際はやや苦労するシーズンとなった。2022年5月2日のヘレステストで撤退を告げられてチームの士気が落ちたという側面もあるが(記事)、やはりエンジンパワーを上げたせいでマシンセッティングが難しくなったことも影響していたものと思われる。
2020年の時点で、空力パーツの開発競争に最も積極的なのがドゥカティワークスで、最も消極的なのがKTMワークスである。KTMワークスの首脳はメーカー首脳が集まる会議で空力パーツ廃止案を提出したり、インタビューで「空力パーツは金がかかってしょうがないし危険性もある」と訴えたりする。
その一方で、スズキワークスの首脳は、空力パーツの開発競争について、推進発言をするわけでもなく、拒否反応を示すわけでもない。スズキはコストに厳しい社風なので、金のかかる空力パーツの開発競争を嫌がりそうなものだが、あまりそういう雰囲気を漂わせていない。
スズキは自前の風洞施設を持っているので(画像)、空力パーツの開発競争が盛んになっても十分に対応できるという自信があるのであろうか。
電子制御が今ひとつ遅れているのが最大の弱点になっている。
アンドレア・イアンノーネがドゥカティワークスから来たときに指摘したのは電子制御の遅れだった。これに対してダヴィデ・ブリヴィオ監督は「ドゥカティワークスの電子制御が最も洗練されていることと、スズキワークスの電子制御がドゥカティワークスの域に達していないことは、明らかな事実だ」とコメントしている(記事)。
電子制御のレベルが少し遅れているのはスズキの参戦台数がたった2台しかないことも大きい。2017年シーズンはホンダ5台、ヤマハ4台、ドゥカティ8台で、それに対してスズキは2台。出走台数が多ければ多いほど走行データが多く集まり、電子制御のレベルが上がっていく。出走台数が少ないと走行データが少ないままで、電子制御のレベルも上がらない。
1988年のケヴィン・シュワンツのデビューシーズン以来ずっと参戦台数2台の状態が続いている。電子制御を使わない2ストロークエンジンの時代なら参戦台数2台でもなんとかなったが、電子制御が非常に重視される現在では参戦台数の少なさがネックになっているのである。
ダヴィデ・ブリヴィオ監督は「サテライトチームを持つべきだ、そうしないと電子制御のレベルが上がらず、勝てない」と何度も訴えている。
チームLCRに声を掛けたり(記事)、プラマックレーシングに声を掛けたり(記事)、MarcVDSに声を掛けたり(記事)、グレッシーニレーシングがスズキサテライトになるんじゃないかという噂が立ったりしているが(記事)、なかなか実現へ進んでいない。
メーカーがサテライトチームを持つには、シーズン当初にマシンを売却するだけでは駄目で、部品を多めに製造しつつ供給しなければならないし、メーカーから技術員を何名か派遣して支援しなければならない。サテライトチームを保有する体制を築き上げるのはなかなか大変なのである。
スズキはヤマハと同じように、急激な変革を好まず、色んなところを少しずつ改良していくのが得意なメーカーである(記事)。
2019年2月のカタールテストで、二重排気の部品が導入された。この部品のおかげで、最高速を少し改善できたという(記事)。この部品は、藤原らんかにもネタにされている(画像)。
スズキワークスは「リアタイヤを乗せる台車」を導入していて、2019年アラゴンGPのFP4でも映っていた。ちなみに、「リアタイヤを乗せる台車」はレプソルホンダの記事でも紹介されている。
1960年代中盤から1970年代中盤までのMotoGP最大排気量クラス(500ccクラス)の状況は以下の通りである。
1966年 | MVアグスタ | ジャコモ・アゴスティーニ |
1967年 | ジャコモ・アゴスティーニ | |
1968年 | ジャコモ・アゴスティーニ | |
1969年 | ジャコモ・アゴスティーニ | |
1970年 | ジャコモ・アゴスティーニ | |
1971年 | ジャコモ・アゴスティーニ | |
1972年 | ジャコモ・アゴスティーニ | |
1973年 | フィル・リード | |
1974年 | フィル・リード | |
1975年 | ヤマハ | ジャコモ・アゴスティーニ |
1973年がヤマハワークスの最大排気量クラス参戦初年度で、YZR500という直列4気筒の2ストローク500ccマシンだった。この年の前半戦にいきなりの好走を見せ、それが1973年暮れのジャコモ・アゴスティーニ移籍劇につながった。
1973年にMVアグスタ所属のジャコモ・アゴスティーニはチャンピオンを逃し、その年の暮れにヤマハへ移籍していった。1974年のヤマハ初年度のジャコモは最大排気量クラスチャンピオンを逃した。1975年になるとヤマハのジャコモがチャンピオンを奪還した。
1974年というのがスズキワークスの最大排気量クラス参戦初年度であり、バリー・シーンという英国人ライダーを走らせている。RG500という2ストローク500ccマシンだった。ちなみに、エンジン形式はスクエア4気筒である。近年のMotoGPのエンジンは直列エンジンかV型エンジンのどちらかなのだが、当時のスズキのマシンはそのどちらでもないスクエア4気筒だった。
2年目の1975年にバリー・シーンが初優勝を収めた。
3年目の1976年になると、MVアグスタとヤマハの両社が、オイルショックによる経営悪化を理由として最大排気量クラスのワークス活動を休止した。この年からスズキは本社直営のチーム経営を止めて、ヘロンという英国不動産企業が作るヘロン・スズキという英国チームにワークス活動を委託するようになったのだが、1976年最大排気量クラスにおいて世界で唯一ワークス活動を続けたメーカーであることに変わりはない。そして、ヘロン・スズキに所属する英国人バリー・シーンが、最新のRG500を駆って連戦連勝を収め、見事に最大排気量クラスチャンピオンに輝いたのである。
4年目の1977年はヤマハがワークス活動を再開してジャコモ・アゴスティーニを乗せたのだが、スズキとバリー・シーンの連勝劇を止めることができなかった。スズキとバリー・シーンは2年連続チャンピオンに輝いた。
1978年~1979年のスズキ陣営のエースは相変わらずバリー・シーンだったが、1978年から慢性疲労症候群という原因不明の病気にかかり始め、1979年にはスズキ陣営の2番手の成績になってしまう。
1980年のスズキ陣営で最高成績を獲得したのはワークス待遇の米国人ランディ・マモラで、ランキング2位を確保した。
ヤマハとケニー・ロバーツ・シニアに3連覇を許した1978~1980年の間も、スズキがマニュファクチャラー・ランキングで1位を獲得し続けている。当時のランキングを見ても、ずら~っとスズキという名前が並んでいる。
「プライベートチームに販売されたRG500と、スズキワークスのヘロン・スズキが使用するRG500には、それほど大きな差が無かった。スズキのマシンは完成度が高かった」とランディ・マモラが証言している(Racersvol.12、83ページ)
1981年になるとスズキはRGΓ(あーるじーがんま)という新車を投入した。2ストローク500ccのスクエア4気筒である点は、以前と全く同じである。
ケニー・ロバーツ・シニアが不調に苦しむ中、イタリアのチーム・ガリーナに所属してスズキのマシンを駆るマルコ・ルッキネリが見事に最大排気量クラスチャンピオンを獲得した。
チーム・ガリーナはスズキから支援を受けていたが、ヘロン・スズキに次ぐ2番手チームだった。そこから下克上の形でチャンピオンが生まれた。ランキング2位はヘロン・スズキのランディ・マモラ。
1981年暮れにマルコ・ルッキネリはホンダワークスへ移籍していった。イタリアのチーム・ガリーナに入団したのは、フランコ・ウンチーニだった。ケニー・ロバーツ・シニアがマシン変更に戸惑うのを尻目に勝利を重ね、大差でチャンピオンを獲得した。
1981年~1982年もマニュファクチャラー・ランキングで1位を獲得しており、1976年から7年連続でマニュファクチャラー・ランキング1位という圧倒的成功を収めた。
1982年の暮れに、スズキワークスにとって重大な損失が発生した。テストライダーの河崎裕之がヤマハに引き抜かれてしまったのである。河崎はフランコ・ウンチーニも大いなる信頼を寄せていた優秀なライダーで、彼が抜けることを知ったフランコは不安になったという。
1983年のスズキはホンダとヤマハの後塵を拝し、最高成績はランディ・マモラのランキング3位だった。
そして1983年の暮れをもって、スズキは最大排気量クラスのワークス活動を休止すると発表した。なぜかというと、1979年頃から始まったHY戦争(ホンダとヤマハの販売シェア争奪戦)により、バイク業界全体が在庫の山を築きあげ、スズキも利益が全く出なくなったからである。
1982年というのは、1つの時代の終わりだった。この年にイタリア人のフランコ・ウンチーニがチャンピオンになったのだが、その翌1983年から1998年まで16年連続で非・ヨーロッパのライダーが最大排気量クラスチャンピオンを獲得し続けたのである。アメリカ合衆国やオーストラリアの出身者がずっと勝ち続けており、ヨーロッパ人ライダーは完全な引き立て役となっていた。
ヨーロッパの人にとって、1982年以前というのは実に懐かしく感じられた。ヨーロッパ人ライダーが勝つ古き良き時代である。
その、記憶の中で美しく輝く1982年以前というのが、スズキ全盛期なのである。1976年から1982年までの7年間で4回スズキがチャンピオンを獲得した。しかもその1976年から1982年までの7年全てでスズキがマニュファクチャラー・ランキング1位を獲得している。
ヨーロッパの人が「強くて格好いいヨーロッパ人ライダー」を思い出すたびに、スズキのマシンが光り輝くようなイメージでヨーロッパ人の脳に現れるのである。
しかも、スズキ全盛期にスズキのマシンでチャンピオンを獲得した3人は、いずれも華のあるライダーだった。バリー・シーンは英国の国民的大スターで、英国中にポスターが貼られ、大金を手にして高級車やヘリコプターを乗り回しマスコミの話題をさらうというアイドルだった。マルコ・ルッキネリもいい感じにお調子者で、Yシャツをレーシングスーツの下に着込みつつスカーフを首に巻いてレースに出るなど、見ていて楽しい人物だった。フランコ・ウンチーニは落ち着いた方だったが、なんといってもイケメンで(画像)、これもイメージが良い。彼ら3人の華々しさが、そのままスズキに華々しいイメージをもたらしたのである。
このため、ヨーロッパの人の一部には、スズキのことを「ものすごい名門」と扱う人がいる。
1988年にスズキがワークス活動を復活させたときに付いたメインスポンサー。ケヴィン・シュワンツが1988年のルーキーシーズンで2勝し鮮烈デビューを飾った。1989年もスポンサーを継続した。
ご存じアメリカを代表するコーラであり、ニコニコ大百科にも記事がある(→ペプシコーラ)。コカコーラと熾烈な争いを継続中。
2012年から2014年までスズキワークスはMotoGPから撤退して開発に専念していた。このときスズキファン達は「ロッシを迎え入れてペプシスズキだ」「ストーナーでペプシスズキがいい」「いやいや、ペドロサでペプシスズキというのも実によく似合っている」と会話していたが、「ワークス活動を復活させるときに天才ライダーがペプシと共にやってくる」というかつての体験を重ね合わせてそう会話していたわけである。
1990年から1997年までメインスポンサーを務めた。この前半が、ケヴィン・シュワンツ全盛期である。
イギリスのタバコ企業BAT(British American Tobacco)のタバコ銘柄。BATは1902年にイギリス企業とアメリカ企業が提携してできた会社なので、社名もそうなっている。
19世紀の米国西部のゴールドラッシュで金脈を掘り当てたことを「ラッキーストライク(幸運な一発)」と言った。米国を代表する銘柄で第二次世界大戦の米兵にも支給された。
ケヴィン・シュワンツが引退してからスズキワークスは低迷し、1998年から1999年までメインスポンサーが付かない冬の時代を過ごすことになった。
ところが1999年にケニー・ロバーツ・ジュニアが年間4勝ランキング2位と大活躍。これをみてスペインの通信事業企業テレフォニカ傘下の携帯電話企業がスポンサーに付いた。
2000年にケニー・ロバーツ・ジュニアが世界チャンピオンを獲ったときのカラーリング。
2001年にスペイン期待の星セテ・ジベルナウがスズキワークスに加入したのはスポンサーの意向である。
2002年シーズン末をもってセテ・ジベルナウはスズキワークスを離れグレッシーニレーシング(ホンダサテライト)へ移った。それと同時にTelefonica Movistarもグレッシーニレーシングへ移っていった。
ヤマハワークスの「スポンサー」の項にも詳細記述あり。
2003年から2005年までスポンサーが寄りつかない不遇の時期を過ごしたが、2006年に待望のメインスポンサーを獲得した。
RIZLAはイギリスのタバコ企業インペリアルブランズが所有する手巻きタバコの銘柄である。この時代のスズキワークスはイギリスに本拠を置いていたので、英国企業が優しくしてくれた。
初めて作られたのはなんと1532年で、フランス人ピエール・デ・ラコワが創業者である。RIZLAの隣の十字架は、デ・ラコワ家の家紋である。ちなみに、ラコワとはla croixと書き、the crossと英語に訳すことができる言葉で、「十字架」という意味である。
RIZLAは400年以上の長い間フランス企業だったが、1997年にイギリスのタバコ企業インペリアルが買収した。
警察官の格好をしたリズラガールが傘持ちグリッドガールを務めていた。
2015年に復帰したときのメインスポンサー。ECSTARはスズキの純正オイルである。スズキにとって、実質的にメインスポンサー無しの「持ち出し参戦」「自己負担参戦」となる。
ニャラカン・ニャリと読み、インドネシア語で「度胸を付ける」という意味。NYALAKANが「点火する」という意味で、NYALIは「度胸」という意味である。
スズキはインドネシアにスズキ・インドモービル・モーターという子会社を持っていて、生産拠点として重視している。またインドネシアは人口2億6千万人で、市場としても重要である。
レーシングスーツの腹のあたりにNYALAKAN NYALIという文字が入っている(画像)。
フランスのオイル・潤滑油メーカー。高価格エンジンオイルとして日本でのシェアも高い。ECSTARの商売敵のような気がするが、細かいことを気にしてはいけない。
スズキとの関係が深く、1987年頃から協力関係が続いている(記事)。スズキと深い関係にあるヨシムラというプライベートチームが鈴鹿8耐に参戦するときの名前は、「ヨシムラスズキMOTULレーシングチーム」である。マシンにもMOTULの名前が貼られる(画像)。
MOTULは、研究開発の拠点として日本を重視している。日本は自動車メーカーやバイクメーカーが多いので、そうした企業に近い場所で一緒に研究開発を重ねることが大事だと考えている。
MOTULは日本と縁が深い企業なので、2014年から2019年まで6年連続で日本GPの看板スポンサーを務めている。日本国旗も、MOTULのロゴも、ともに紅白なので、スポンサーになりやすいのだろう。
1988年~2004年のギャリー・テイラー監督時代は、イギリスのエデンブリッジに拠点があった。
2005年~2011年のクレセントレーシングが運営母体だった時代は、イギリスのヴァーウッドが本拠地だった。ロンドンから西へ140km、港町サウサンプトンから西へ31km。
2015年にMotoGPに復帰したときは、イタリアの大都市ミラノ郊外のカンビアーゴを拠点にしている。ここを選んだのはダヴィデ・ブリヴィオだった。ちなみに、ヤマハワークスの拠点をミラノ郊外のレズモに選んだのもダヴィデ・ブリヴィオだった。
スズキは浜松市の企業であり、MotoGPに関する英字記事に「Hamamatsu」がよく出てくる(検索)。
たまにMotoGPライダーが浜松にやってくることがあり、JR浜松駅での目撃情報もある。この動画では、アレイシとマーヴェリックが浜松市立河輪小学校の子どもたちとサッカーに興じている。
シーズン前の2月セパンテストの前後に浜松へやってくることが定例らしい。「until:2015-2-28 from:AleixEspargaro」とか「until:2016-2-28 from:AleixEspargaro」などといった文字列をTwitterの検索窓に入れて検索すると、浜松の画像が出てくる。
これは浜松に拠点を置くステーキ店さわやかの画像である。地元民も満足の美味しさ。藤原らんかの漫画にも「炭焼きレストランさわやか」が出てくる。
浜松駅で売られている土産物というと、こっことうなぎパイである。藤原らんかの漫画に、「うなぎパイでマーヴェリック・ヴィニャーレスを引き留めようとするダヴィデ・ブリヴィオ監督」が出てくる。
近年の浜松は出世大名家康くんというキャラクターを前面に押し出すようになった。スズキのライダーも遭遇することがある(画像1、画像2)。
浜松の工場には風洞施設があり、これをMotoGPライダーが見に来ることが多い(動画1、動画2)
浜松の隣町のこの場所に竜洋テストコースがあり、ここでマシン開発を行っている。かつてこのあたりは竜洋町と呼ばれていた。なぜ「竜洋」かというと、天竜川と太平洋の2つが近いため。海岸沿いなので、風が強い。また冬は北からも強風が吹く(遠州のからっ風)。
竜洋テストコースの付近はあまりに風が強いので、テストコースすぐ近くのこの場所に直径80mの世界最大級の風車が建てられている。ドイツ製で、磐田市が所有している(記事)。また、この場所にも風車がある。画像検索すると、そこら中に風車が立っている事が分かる。竜洋テストコースを紹介する画像に、風車が映り込むことが多い(画像)。
あまりに海岸に近いから、内陸の都田に新しくテストコースを作ることにした。候補地は青谷で、今のところの仮名称は青谷コースとなっている。環境評価を含む調査やその後の許認可には数年かかる見通しで、まだ着工していない。
ここで簡単に浜松を紹介しておきたい。
スズキ、ヤマハ(楽器)、Rolandといった名だたる大企業を抱える工業都市である。この場所にJR東海の修理工場があり、東海道新幹線の修理を一手に引き受けている。
浜松には三方原台地がある。ここは天竜川の支流も流れこまず、農業に不向きの不毛の地で、水がこないから森林もなく、赤っぽい真っ平らな地がずっと続いている。土地代も安い。
航空機の発着にぴったりなので、戦前から軍が航空基地を作り、ここで戦闘機の開発をした。そのときに軍にこき使われて技術力を上げたのがヤマハである。ちなみに軍の基地は航空自衛隊浜松基地として現在も続いている。
日本の戦闘機に苦しめられたアメリカ軍が「日本は飛行機を作ってはならぬ」とお達しを出し、浜松の航空機関連技術者は失業した。この技術者たちが他にやることもないので浜松でバイクを作り出し、浜松は世界のバイク工場になった。ホンダの発祥地は浜松で、スズキは今も浜松の企業であり、ヤマハは浜松の隣町の磐田に本社がある。
静岡県は「富士山がある県」として売り出していて、静岡市からは富士山が大きく優美に見える(画像)。静岡県を代表するテレビ局はみな富士山を好んで映し、「これが静岡県の象徴です」と宣伝する。
ところが浜松からは富士山が小さくしか見えない。白い雪の部分がちょっと突き出ているだけである(画像)。
また、富士山と浜松市役所の距離は116kmで、富士山とスカイツリー(東京都墨田区)の距離は105km。スカイツリーの展望台から富士山を見ると白い雪の部分がちらっと見えるだけなので「とても遠い場所にある」と感じるが(画像)、浜松の住民はそれと同じように考えている。
そういうわけで浜松市民は富士山への愛着がなく、それゆえ、静岡県への帰属意識が非常に低い。浜松出身者に「どこ出身ですか」と聞くと、「浜松出身です」という。「静岡県出身です」と言わない。
浜松生まれ浜松育ちの人のコンプレックスというと「テレビ局が寄りつかない」である。
静岡県は民放テレビ局が4つあるが、そのすべてが県庁所在地の静岡市にある。そして彼らテレビ局は、なにか楽しいバラエティ風の番組を作るとき、高い確率で富士山が大きく見える県中部や温泉宿がある県東部に出向いてロケをする。浜松になど寄りつかない。
富士山&伊豆の温泉宿という、日本最高峰の観光資源に浜松は勝てず、浜松がテレビに映ることが少ない。浜松市民はいつも悔しい思いをしているのである。
2019年1月にスズキレーシングカンパニー(SRC)という企業を設立した(記事)。レース用予算を確保しやすくために設立したものと見られている。
SNSにはなぜかアヒルの写真がしばしば出てくる(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5、画像6)。
この記事で、2002年以降の歴代カラーリングがまとめられている。
イタリアサッカーリーグのセリエAの中堅クラブとして知られるトリノFCは、スズキをスポンサーにしている。2020年のMotoGPでスズキワークスがめでたくチャンピオンを獲得したので、それに合わせてツイートし(ツイート)、月桂冠入りのSマークが入った特製ユニフォームを作っていた(画像1、画像2)。
スズキワークスは、2017年10月の日本GPで新しい空力パーツを付けた(画像)。この空力パーツの見た目が口ひげみたいだったので、スズキワークスの皆でMovemberという運動に参加しようということになった。
Movemberとは、11月(November)の1ヶ月間を通して口ヒゲ(mustache)を伸ばし、男性特有の病気への意識を高める運動のこと(画像)。
イアンノーネとリンスがMovemberのステッカーを貼っている(画像)。口ヒゲを生やしたJacques Roca(イアンノーネ担当メカ)がマシンと写真を撮っている(画像)。また、皆で理髪店に行ってヒゲを揃えている(画像)。
2016年アルゼンチンGPはマシン強制乗り換えのレースになった。アプリリアワークス所属のアルヴァロ・バウティスタがピットインしたとき、ゴタゴタの混雑もあって、自分のチームのメカニックと接触してしまった(メカニックに怪我はなかった)。このため、2017年シーズンから、レース中に作業するメカニックにはヘルメット着用が義務づけられた。
そこでスズキワークスがシーズン当初に導入したのがこれである。
この画像とかこの画像とか・・・ 子どもが見たら泣き出すだろう。
2017年11月に東京モーターショーが開催されたが、そのとき話題になったのはスズキSマークを指で作るスズキコンパニオンのことだった。こんな感じに指でSマークを作る。この動画では、スズキコンパニオンの人がSマークの作り方を教えてくれている。
それから2年以上経った2020年現在、各地で行われるモーターショーにおいてSマークを指で作るのが定番となっている(検索)。
この発火点になったのがMotoGPやスズキ公式サイトのアンドレア・イアンノーネの画像と言われている。
こちらがそのページ。イアンノーネが眠そうなのが笑える。
2002年から2011年までのスズキワークスを記している。 当時のマシンはGSV-Rという。V型4気筒の4ストロークエンジンマシンだったので、車名にVの字が入っている。ちなみに、もともとスズキは1970年代から4ストロークエンジン車にGS~という車名を命名する伝統がある。 |
|
2000年にケニー・ロバーツ・ジュニアが最大排気量クラスのチャンピオンを獲得したことを中心に記述している。 1988~2001年のスズキのマシンはRGV-Γという。Γは「ガンマ」と読む。2ストローク500ccのV型4気筒エンジンだった。 RGはRacer of Grand Prix(MotoGP向けのレース用車両)という意味。V型4気筒エンジンなのでVという文字が入っている。ギリシャ語で栄光を意味するΓεραιρω(ゲレイロ)という言葉の頭文字Γ(ガンマ)を車名に採用した。 |
|
1993年にケヴィン・シュワンツが最大排気量クラスのチャンピオンを獲得したことを中心に記述している。 | |
1981年にマルコ・ルッキネリ、1982年にフランコ・ウンチーニが最大排気量クラスのチャンピオンを獲得したことを記述している。フランコのインタビューや、若いころの格好いい写真がある。 このころの車名はRGΓ(あーるじーがんま)。スクエア4気筒なのでVという字が入っていない。 RGΓの開発時の合い言葉は「少・小・軽・美」だった。この合い言葉は、スズキ自動車の鈴木修会長の気に入るところとなった。鈴木修会長は短という字を加えて「少・小・軽・美・短」として、1999年からスズキグループ全体のスローガンにしている。 |
|
1976年と1977年にバリー・シーンが最大排気量クラスを連覇したときのことを中心に記述している。 このときの車名はRG500。 巻末にはランディ・マモラのインタビューがある。ランディは、1980年と1981年にスズキのマシンで2年連続最大排気量クラスランキング2位となっている。 |
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/03/29(金) 05:00
最終更新:2024/03/29(金) 05:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。