プティエトワール 単語

プティエトワール

3.5千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

プティエトワール(Petite Etoile)は、1956年生まれのイギリスの元競走馬・元繁殖牝馬である。名はフランス語で「小さな」を意味する。

概要

Petition、Star of IranBois Rousselという血統。

ティションはエクリプスS優勝スターオブイランは1勝だが名ムムタズマハルの曾孫で、その全凱旋門賞ゴリ伯父英ダービーマームードがいるという良血である。ボワルセル英ダービーを物凄い脚で差し切り、種牡馬としても*ヒンドスタンなどを出した。

イスラム教イスマーイールのイマーム(導者)であるアガ・カーン3世殿下息子アリカーン王子によって生産されたが、本が1歳時にアガ・カーン3世殿下が死去したため、競走馬としてはアリ王子の単独所有馬となり、イギリスノエル・マーレス厩舎に預けられた。

アリ王子は大変な楽者で、あまりの素行の悪さのためかアガ・カーン3世殿下が後継者にアリ王子息子であるカリム(後のアガ・カーン4世殿下)を名したために、8世紀中期に成立したイスマーイール歴史の中で前代未聞となる「現イマームの実子が後継者に名されない」という出来事を招いた。一方でアリ王子は大変な好きでもあり、息子カリム競馬興味いと言していたこともあって、アガ・カーン3世殿下の事業の中で競馬に関するものはアリ王子相続していた。

芦毛で、名前通りの小柄なだったが、マーレス師が「peculiar」(狂っている)と評するほどの気性難で、一落ち着くのは自身と同じ芦毛が近くにいる時だけだったという。

2~3歳時

2歳5月デビュー戦は、2頭立てで勝ったクライ[1]から8身差の2着に敗れた。続く2戦を5身差で勝ち上がり、3戦モールコームS2着を挟んだ後、4戦131ポンド(約59.4kg)という斤量勝利した。しかしこ斤量が祟ってレース後に異常歩様を呈し、年内休養となった。2歳時はあまり立たない評価であった。

3歳時は、始動戦のフリーハンデキャップ戦だったレスター・ピゴット騎手エリザベス女王の所有馬ショートセンテンスに騎乗したため、ダグスミス騎手に乗り替わった。ハンデ126ポンド(約57.2kg)のトップハンデだったが、これを3身差で勝利した。

このレーススミス騎手は本の素質を見抜いていたらしいが、1000ギニーでも自分に手綱が回ってくるようにと思ってそれを黙っていたため、他の関係者からの期待はあまり高くなく、ピゴット騎手は同厩のコリーリアに騎乗し、アリ王子の専属騎手だったジョージムーア騎手もプティエトワールより期待されていたパラグアナに騎乗。こうしてスミス騎手の手綱で挑んだ1000ギニー上の期待通り1身差で差し切って勝利し、高い素質を明した。

戦がピゴット騎手で固定されるようになったプティエトワールは続けてオークスに向かったが、血統面で距離不安が囁かれていたため2番人気にとどまった。しかし結局プティエトワールはそんな不安を一蹴し、1番人気に推されていたカンテロに3身差を付けて勝を収めた[2]。続くマイル戦のサセックスSは古相手に130ポンド(約59kg)で勝利し、再び12ハロンに戻したヨークシャーオークス勝利した。

流石に14ハロンとなると不安があったのか、この後牝馬三冠がかかる英セントレジャーには出走せず、チャンピオンS(10ハロン)に出走。単勝1.18倍という人気に推され、敗でセントレジャーを勝ったバークレーなどを破って勝利し、3歳シーズンを6戦敗で終えた。タイムフォーム社のレーティングでは英調教の3歳としては当時の史上最高値となる134ポンドのレーティングを獲得し、3歳の中ではジョッケクルブ賞・サンクルー大賞を勝ったエルバジェ(136ポンド)に次ぐ2位となった。

4~5歳時

4歳時は始動戦を勝利したが、その5日後の5月12日アリ王子自動車事故を起こして死去してしまった。このため、競馬に関してはズブの素人だった息子のアガ・カーン4世殿下が本を含むアリ王子の所有馬を全て引き継ぐことになった。

続くコロネーションカップでは、同期英ダービー*パーシアを抑えて単勝1.33倍という人気に推された。そしてレースでも*パーシア快に差し切り、1身半差で勝利した。その後キングジョージVI世&クイーンエリザベスSに単勝1.4倍の1番人気で出走したが、タフになった馬場でピゴット騎手が慎重に乗りすぎたのかアグレッサーに半身届かず2着と惜敗した。

この後インフルエンザ患したため、この年はこれが最後の出走となった。それでも、タイムフォーム社のレーティングでは古トップタイ134ポンドを獲得した。

5歳初戦はコロネーションS[3]に出走し、130ポンドのハンデを跳ね返して勝利コロネーションカップではウィンストン・チャーチル首相所有の*ヴィエナをクビ差で抑え、53年ぶり史上3頭の連覇を達成した。

その後ラウス記念S(1マイル)を勝ち、アリ王子追悼競走「アリカーン際記念ゴールドカップ」に出走したが2着に敗れた。その後はマイル戦を2戦し、スカボローSを1着、クイーンエリザベスII世Sを2着として、通算19戦14勝2着5回という安定した成績で引退した。この年のタイムフォーム社のレーティング131ポンドで、古では1位であった。

ちなみにアガ・カーン4世殿下から受け継いだには本以外にもシャーロッツヴィル(ジョッケクルブ賞パリ大賞典)、シェシューン(ゴールドカップ、サンクルー大賞)、*ヴェンチア(セントジェームズパレスS、サセックスS)といった活躍がおり、本の4歳時にはシーズン開幕時に1頭もを持っていなかった殿下シーズン閉幕時にはフランスのリーディンオーナーになるということもあった。

繁殖牝馬として

繁殖牝馬となったプティエトワールだが、不受胎や死産が多かったこともあって3頭しか産駒を残せなかった上に、その3頭はって競走馬として大成出来ず、競走成績とべると泥の差で終わってしまい、年も不詳である。

しかし、18歳時に産んだ一のザーラの牝系をアガ・カーン4世殿下が手元に置き続けた結果、この牝系からディアヌ賞(オークス)とサンタラリ賞を勝ったザインタや、障害競走で活躍したザイヤドが登場。21世紀に入ると生涯7戦7勝の凱旋門賞ザルカヴァ南アフリカで大活躍したイググが相次いで現れ、ザルカヴァ息子ザラクがサンクルー大賞を勝つなど、プティエトワールの牝系が再び日のを見つつある状況となっている。

血統表

Petition
1944 黒鹿毛
Fair Trial
1932 栗毛
Fairway Phalaris
Scapa Flow
Lady Juror Son-in-Law
Lady Josephine
Art Paper
1933 黒鹿毛
Artist's Proof Gainsborough
Clear Evidence
Quire Fairy King
Queen Carbine
Star of Iran
1949 芦毛
FNo.9-c
Bois Roussel
1935 黒鹿毛
Vatout Prince Chimay
Vasthi
Plucky Liege Spearmint
Concertina
Mah Iran
1939 鹿毛
Bahram Blandford
Friar's Daughter
Mah Mahal Gainsborough
Mumtaz Mahal
競走馬の4代血統表

クロスLady Josephine 4×5(9.37%)、Gainsborough 4×4(12.5%)、Chaucer 5×5(6.25%)、Carbine 5×5(6.25%)

関連コミュニティ

関連項目

脚注

  1. *後に短距離路線を歩み、翌年のキングスタンドSで優勝した。なお、その際の3着にはプティエトワールをモールコームSで破ったクラーケンウェイクが入った。
  2. *敗れたカンテロは、その後ダービー*パーシアなどの相手にセントレジャー勝利した。
  3. *現在も行われている同名のGI競走とは別競走。現在ブリガディアジェラードS(GIII)の前身に当たる。
この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/23(火) 15:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/23(火) 15:00

スマホで作られた新規記事

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP